EP 10
闇に包まれた桜田邸。
帝都の喧騒から離れた広大な敷地は、不気味なほどの静寂に支配されていた。
「……突入する。国賊・桜田リベラに天誅を下し、陛下に本来の帝国をお返しするのだ!」
血走った目をした若き陸軍中尉が、抜刀した軍刀を夜闇に掲げた。
後に続くのは、決死の覚悟を決めた三十名の急進派将校と兵士たちだ。彼らは三歩一殺の忍び足で、音もなく桜田邸の豪奢な正門を乗り越え、広大な前庭へと侵入した。
警備の姿はない。財閥の金で雇われた程度の警備員など、死を恐れぬ帝国軍人の前では逃げ出すか、寝こけているのだろうと中尉は冷笑した。
「いけるぞ。一気に本館へ――」
その言葉が、中尉の人生における最後の「軍事的采配」となった。
バチィィィン!!
突然、周囲の木々や屋根の軒下に隠されていた数十個の大型探照灯が一斉に点灯した。
「なっ……!?」
真昼のような、いや、それ以上に暴力的な白光が前庭を照らし出し、暗闇に慣れていた兵士たちの視界を完全に奪う。網膜を焼かれた兵士たちが悲鳴を上げて目を押さえた瞬間、四方八方から無慈悲な銃声が轟いた。
ダダダダダダダダッ!!
「ぐあぁっ!?」
「ひっ、脚が……!」
それは、当時の日本軍ではまだ普及していない、シカゴ・タイプライターの異名を持つトンプソン短機関銃による、完璧に計算された十字砲火だった。
しかし、頭や胸を撃ち抜かれた者は一人もいない。
全弾が、兵士たちの『膝』や『肩』、そして手にした小銃を正確に弾き飛ばしていた。未来のCQB(近接戦闘)タクティクスを徹底的に叩き込まれた柴田たち私兵部隊が、あらかじめ設定した「キルゾーン」に誘い込み、無力化のためだけの精密射撃を行ったのだ。
「う、撃て! 応戦しろ!!」
視界が真っ白なまま、中尉が狂乱して叫ぶ。だが、どこに向かって撃てばいいのかすら分からない。
パニックに陥った数名の兵士が、本館の窓ガラスを叩き割り、転がり込むように邸内へと逃げ込んだ。
「突っ込め! 邸内にさえ入ればこちらのものだ!」
中尉も血だらけの部下数名と共に、邸内の廊下へと飛び込む。
だが、そこは更なる絶望の入り口でしかなかった。
静まり返った豪奢な廊下の奥。
月明かりを背にして、一人の女が立っていた。
最高級のシルクのナイトガウンの上に、男物の黒いトレンチコートを羽織った桜田リベラだ。右手には、鈍い光を放つコルト・ガバメントが握られている。
「……国賊ゥゥゥッ!!」
中尉が血継ぎ走った目で咆哮し、軍刀を上段に構えてリベラへと突進する。
その距離、わずか五メートル。銃を構えるより、鍛え上げられた軍人の踏み込みの方が早い。中尉の顔に、凶行を成し遂げたという歓喜の歪みが浮かんだ。
しかし。
「――うるさい」
リベラの声は、絶対零度だった。
彼女は銃を構えなかった。代わりに、中尉の渾身の唐竹割りが振り下ろされるコンマ数秒前、彼女の身体がふっと陽炎のようにブレた。
合気道の極意、完璧な『入り身』。
中尉の視界からリベラが消え、完全に空を切った軍刀が床板に深く突き刺さる。
「え……?」
体勢を崩した中尉の顎を、リベラの左掌が下から冷酷に打ち抜いた(掌底)。
脳が激しく揺らされ、意識が飛ぶ。崩れ落ちそうになる中尉の襟首をリベラが掴み、そのまま流れるような動作で床に叩き伏せる。
ガンッ! と鈍い音が響き、中尉の顔面が磨き上げられた廊下の床に沈んだ。
彼が僅かに意識を取り戻した時、その額には、まだ硝煙の匂いが残るコルト・ガバメントの銃口が、ピタリと押し当てられていた。
「しーっ」
リベラは、美しい人差し指を自分の唇に当てた。
その目は、命を乞う虫けらを見下ろすような、圧倒的な捕食者の冷たさだった。
「静かにしなさい。……今、優太がようやく寝付いたところなのよ」
「ば、ばけ、もの……」
「なんとでも言いなさい。あなた達の負けよ」
リベラが冷たく言い放つと、割れた窓から柴田たち私兵が雪崩れ込んできた。生き残って邸内に侵入していた兵士たちも、すでに全員が関節を外され、無様に床に転がされている。
「総帥。お怪我は?」
「ないわ。前庭のネズミ達は?」
「全員、命に別状はありません。手足は使い物にならなくなりましたがね」
柴田が獰猛に笑って報告する。
「上出来よ」
リベラはガバメントの撃鉄を戻し、中尉から立ち上がった。
「彼らを全員、止血して地下室へ放り込みなさい。一晩寝かせたら、一番腕のいい医者に治療させるのよ。……明後日には、彼らには歴史的な『大舞台』に立ってもらわなければならないんだから」
「大舞台、で?」
中尉が床に這いつくばったまま、血を吐きながら睨みつける。「我々を、どうするつもりだ……!」
リベラは冷酷な弁護士の顔になり、クスリと笑った。
「軍法会議よ。それも、すべての新聞記者と、近衛首相、そして海軍の山本少将を最前列に招いた、世紀の『公開裁判』。あなた達にはそこで、誰の指示で、どの派閥の金で動いたのか、洗いざらい吐いてもらうわ」
「なっ……ふざけるな! 誰が貴様らの思い通りに……!」
「吐くわよ? 法の抜け穴も、人間の精神の壊し方も、私は誰よりも熟知しているもの。……あなた達が信奉した急進派のトップを、社会的に、そして完全に息の根を止めてあげる」
それは、軍による「暴力の時代」の完全な終焉を意味していた。
桜田リベラという、未来から来た最強の劇薬によって。
中尉が絶望に目を剥き、完全に気絶するのを見届けると、リベラはコートの襟を直し、ベビーベッドのある寝室へと踵を返した。
「さあ、お掃除を済ませてちょうだい。明日は忙しくなるわよ」




