(8)ヤバい、間に合わない!
そのニュースは、ある日突然キャンパスを駆け巡った。
大学に新棟が建つことになったというのだ。しかも我らが理学部附属植物園の横が候補地だという。
農学部が農場の一部を提供するので、理学部も植物園の一部を提供しろということらしい。
うちの大学は今年、文科省が募集していた国際秀逸大学に採択され、今後十年間に、何十億だか、何百億だかの研究資金をもらえることになったらしく、その一環で、手狭になった理学部・農学部の実験室や研究室用の新棟を建てる計画のようだ。
狭い実験室に辟易していた人には嬉しいニュースかもしれないが、植物学教室にとってはとんでもない話だった! 若手の助教やポスドクの人たちは、葉っぱ一枚だって切らせてなるものか、と息巻いていた。
もし工事で地下室への扉が撤去でもされたら、いや見つかっただけでも大変なことになってしまう。地下のみんなに薬草を届けられなくなるのはもちろん、会うことすらできなくなる! そう思ったオレも、若手の息巻き組の一員として、反対の声を上げた。
その植物園の一画に自分の研究エリアを持ち、秘密の地下室(?)まで囲っている久世教授は、この新棟についての、研究科長による説明会では、目を瞑って黙って聞いてただけらしい。
その時は、教授には教授のお考えがあって、守り抜く秘策でもあるのだろうくらいに思っていたが、オレは地下のみんなにも知らせなくちゃと思い、教授のお使い以外の目的で初めて下へと降りて行った。
すると、今日は下長者町通りに降りてきた。
「何で、下長者なんだろう……。薬草の配達が無いとランダムな場所に降りちゃうんだろうか」
と不思議には思いながらも、
「お小夜ばあさんと源さんには報告したいからな」
とりあえず八坂神社を目指すことにした。
この世界は地理がめちゃくちゃなので、合ってるかどうか疑問だったが、とりあえず上の世界では、下長者から見た八坂さんは東南なので、その方向を目指すことにした。
堀川通りに出ると市電が走っていた。一瞬乗ろうかと思ったけど北行だった。
堀川を下っていくと、丸太町通りと思しき四つ角に石灯籠が立っている。見れば「右 愛宕山 左 八坂神社」とある。
左に曲がり、八坂神社を目指す。ほどなくすると見覚えのあるタバコ屋が見えてきた。今日は源さんもいるようだ。
「源さん、お小夜さん!」
呼びかけると源さんが振り返り、お小夜ばあさんは手を挙げてくれた。
「おう兄ちゃん。今日も配達かい? ご苦労さんだな」
「いえ、今日は配達じゃないんです。お二人にちょっと相談したいことがあって……」
そう言うと、まぁ入りなされ、とお小夜ばあさんが手招きして、タバコ屋の中に入れてくれた。
中は、ちょっと広めの土間を上がったところに3畳ほどの畳敷きがあって、懐かしさを感じる木のタンスが置かれている。畳の上の丸テーブル、いや、丸いちゃぶ台を三人で囲むようにして座った。
「で、どんな相談だい?」
「はい。実はこの町に降りて来る扉は、理学部の附属植物園の森の中にあるんですが、その森の一部を伐採して、新しい研究棟を建てることになったらしくて」
「研究棟?」
「はい。今の本館がだいぶ手狭なので、喜んでる先生方も多いのですが、扉が撤去されてしまったら久世教授もオレも、もう葉っぱを配達に来れないんじゃないかと心配で……」
「そうかい、そりゃ困ったねぇ」
「まぁでも、上のことは仕方ない、俺たちにゃあどうしようもできねぇよ」
「そんな人ごとみたいなこと言わないで、みんなで抗議に行きましょうよ!」
「どこに?」
「大学ですよ!」
「そりゃあ無理ってもんだ。俺たちは上には行けないんだよ」
「じゃあ何か方法を考えましょうよ!」
「方法って?」
「この町の上の地面に祠を作って、それを壊すと呪われるって噂を流すとか」
「そんなもんが効くかのぅ」
「そんなもんが効くのが京都じゃないですか!」
それからオレ達はああでもない、こうでもないと話をしたが、結局、二人は上の町には行けないし、久世先生に頑張ってもらうしかないんだ、ということだった。というか、工事で扉が撤去されたとして、だから何?って調子で、ずっと人ごとのようにさえ感じた。
すると、お小夜ばあさんがこう言った。
「扉が出来たのがいつかは知らんが、随分前から上の人間は降りて来とったからのう、扉が撤去されたとしてもこの町には影響ないんじゃなかろうか」
「え、そうなんですか?」
そういえばお小夜ばあさんって、いつ下の町に来たんだろうと思って聞いてみた。
「お小夜さんが、この町に来たのっていつ頃ですか?」
「私はなぁ、」
と、お小夜さんがゆっくり話を始めた。
「来たのは戦争中じゃ」
「戦争!? 戦争って第二次世界大戦ですか?」
「そうじゃ。ある日、夜中に空襲警報が鳴ってな、嫁と孫を起こそうと起き上がったら、物凄い音がして、爆風で吹き飛ばされたんじゃ」
「!」
「あぁ、死んでもうたと思ったんじゃが、気付いたらこのタバコ屋の中にいた。誰かが倒れていた私を運んでくれたんじゃろうと思っとったよ。ところが嫁と孫がおらんかったんで、あの二人は助からんかったんじゃと悔しくて悔しくてずっと泣いておった。ところが、待てど暮らせど、私を助けてくれたであろう人は誰も姿を現さんかった。そればかりか何日経っても腹も減らなければ便所にも行かん。何日目じゃったかのう、恐る恐る表に出てみたんじゃ。そしたら爆弾が落ちた街とは思えない程きれいで、たくさんの人が街を歩いとって、そして空が無かった」
お小夜さんが遠い目をしながら続ける。
「あぁ、死んだのはわしの方じゃった、とその時気付いたんじゃ。亭主は病気で少し前に他界した。息子は出征、孫と嫁は隣の部屋で寝てたはずだが、ここに来たのはわしだけだった。初めは一人だったことにショックだったが、ここは上で死んだ人間の来るところだとわかってからは、孫と嫁は生きているってことだからと、安心したよ。今も上のどこかで元気にしとるといいんじゃが……」
そう言ってお小夜ばあさんはしみじみと上を向いた。
「そうだったのか……」
見れば源さんが涙を拭いている。
「なぁにも泣くこたぁなかろう」
源さんの背中をさすりながらお小夜さんは笑った。
「ところで源、お前はどうしてここに来たんじゃ?」
鼻をすすりながら源さんが自分のことを話してくれた。
「俺はケンカの仲裁に入ったら刺されたんだよ。病院に運ばれたまでは覚えてたんだけど、次に気付いたらこの町の家にいた。どういうことだろうとあちこち彷徨ってたら、八坂神社で知らない爺さんに会って、ここは上の世界で死んだ者が来るところだと聞いたのさ」
お小夜さんは、そうだったか、という感じで頷きながら、
「源がここに来てしばらくしてからじゃったかのう、上の世界から大学の先生が降りて来るようになったんは。ある日いきなりそこの小路から現れてな」
と言ってオレが初めてこの町に降りてきたときの小路を指さした。
「きょろきょろしてるから、上で死んでこの町に来た新人かと思ったんじゃ。そしたら小路の奥の階段から降りてきたという。何でも植物学を研究しているとかで、地下倉庫に葉っぱをしまいに来たら、なぜかこの町だったと言っておった」
源さんもオレも、お小夜さんの話に聞き入っている。
「色々話をしておったら、その先生が持ってきたのは薬草だという。お前さん、もう知ってると思うが、私ら下の世界のモンは飲み食いせんでも問題ない。じゃが上の世界と同じように風邪も引けば、ケガもする。だけど試しにその薬草を煎じて飲んでみたら、風邪や擦り傷程度だったらその日のうちに治るし、びっくりしたんじゃ」
そう言って、薬草を煎じたと思われる茶を一杯すすった。
「そんなことがどれくらい続いたかのぅ、上から降りて来る先生も何代目になったか忘れたが、その先生がある時、もうすぐ定年で退官するからと久世先生を連れてきたんじゃ。初めての女性の先生じゃったから私も娘のようにかわいがり、久世先生もまめに薬草を運んでくれておったよ。ところが、ある日久世先生は……」
そう言って、お小夜ばあさんは話すのを止め、源さんに目をやった。まるでその先を話すべきかどうか源さんに確認しているようだった。
源さんは源さんで難しそうな顔をして、正座した両の膝をギューッと握りしめている。
「久世先生がどうかしたんですか?」
オレが先をせかすように聞くと、お小夜ばあさんは観念したように、
「うん、続きを話してもいいんじゃが、今度にしておいた方がよさそうじゃ」
「え、何でですか?」
「兄ちゃん、そろそろ日が暮れる時間だ」
源さんが窓から見える時計を指さす。
「あれ、もうそんな時間ですか!」
振り返って窓から時計を覗くと18時50分。
「ホントだ、ヤバい、戻らなくちゃ! 今日は帰ります。けど研究棟のことは諦めません、また来ます!」
今日はありがとうございました、そう言ってダッシュで出口を目指した。
そして、ふと思った。
あれ、今日ってどこに降りてきたっけ?
そうだ下長者だ! 下長者通り!
ってことは……
降りてきたときに通った道を素直に戻ればよかったのだが、少しでも早くと思い、近道しようと考えたのが間違いの素だった。
オレは走りながら街並みを確認する。
八坂神社から一分で御所の石薬師御門だ。そこから入って真っすぐ西に抜ければ乾御門、そこを少し下れば下長者通りだ、急げ!
が……
乾御門を抜けた先には、川が流れていた。オレは思わず立ち止まる。
「え、鴨川? なんで?」
右手を見たら橋が見えた。
その時、夕焼け小焼けの音楽が鳴りだす。
「ヤバい、日の入りだ!」
とりあえず橋を渡ろう、この鴨川を渡らないことには下長者に辿り着けない!
もう相当疲れていたが、最後の気力を振り絞ってまた走りだす!
夕焼け小焼けの音楽が進むにつれ、すれ違う道行く人たちがだんだんと消えるようにいなくなる。
どういうことだ?
止まって確認したいが、そんな余裕はない。今は急がねば!
走れ走れ走れ!
橋の東詰にたどり着いた。三条大橋と書いてあった。
「姉小路に行ったときは三条通り無かったのに、これはなんだ、くそっ」
それでも休まずに渡る! 赤い夕焼けがどんどんと暗くなっていく。
「ヤバい、間に合わないっ!」
そして、橋を渡り終わった時、ついに夕焼け小焼けが終わってしまった!
日の入りまでに出られなかった!
どうしようと立ち尽くしていると、目の前では不思議な光景が繰り広げられた。
日の入り時刻を過ぎ、夕焼け小焼けの音楽が終わったら、一斉に人がいなくなったのだ。街灯や家の電気はついている。けど人がいないのだ!
地面を見れば、影があり、その影だけが動いていた。
人は影となったのだ!
「え、なんで……どういうことだ……そういえば前に源さんが、ここの連中は誰もアレを見たことがないって言ってたけど、夜は影になるから見えないってこと?」
橋のたもとで、両手を腰に当て、荒い息のまま呆然としながら影を見つめていると、後ろからからずるずるという音が近づいてきた。
何か来る!
陽が沈んでも人型のままの者、つまり上の世界から来た者を喰うと、源さんが言ってたアレだ! 注連縄の岩がオレを喰いに来たんだ!
姿形を見てみたいという好奇心もあったが、気が付いたらオレは、音とは反対の方向に猛ダッシュしていた。
ヤバいヤバいヤバい! これはヤバい! どこに逃げればいい! とにかく今は走れ!
源さんからお守りもらっとけばよかった!
何となく図体のデカそうな感じのずるずる音だったので、橋を渡ってからオレは角という角を曲がった。その方がアレは曲がる時にスピードダウンするだろうと思ったのだ。
そして、とにかく走った!
「これくらいでどうだ……」
荒れた息で膝に手をつきながら後ろを見たら、アレはいなかった。音も聞こえなくなっていた。
「よし、大丈夫かな」
後は朝まで隠れる場所を探さなくちゃと思った時、またずるずるという音が聞こえだした。しかも前から!
「なんでそっち!」
オレはまた走り出した。このまま一晩中逃げ回るしかない?
知ってる道も知らない道も、右に左に曲がりながら、全力で駆け抜ける! 気がつけば前に枡方商店街が見えてきた。
誰もいない商店街を全力で駆け抜けると、船岡山が見えてきた。源さんに近づくなと言われた山だ、ヤバい、絶体絶命だ。
その時、
「どうにもならないくらい困ったときに一本吸ってみな。きっとあんたを助けてくれるだろうよ」
というお小夜ばあさんの言葉が脳裏をよぎった。
咄嗟に建物の陰に隠れて、もらった自家製ハイライトもどきを一本吸った。身体に特に変わった様子は現れない。
「透明人間にでもなってくれればいいのにぃ」
と叫んだ瞬間、アレが商店街の中を迫ってきた。
どうする!? 追いかけられてるんだ、他に選択肢はない! 屋敷に入らなければいいんだ!
オレは船岡山を駆け上がった。
階段を登り、山道を走り、反対側に降りようと思った。
前に社務所が見えてくる。あそこに入らなければいいんだ! よし、もうすぐ頂上、そしたら後は下りだ!
その時、社務所に掲げられている看板に目が留まった。
「理学部植物学分館104号室」
と書いてあった。
え? と思わず足を緩める。
おかしい。分館の1階は103までしかないはず。104って何だろう……
考えてる間にもアレがずるずると音を立てながら登ってくる。
「ここから上の世界に戻らなければいいんだろッ」
そう叫びながらオレは104号室に飛び込んだ!
後ろ手にドアを閉め、鍵を掛ける。
息は荒いし、膝はがくがくだし、心なしか手も震えている。
「どこか、どこか隠れなくちゃ」
辺りを見回せば、中は、分館の保管庫のようにほんのり明かりが灯っていた。
「どなたです?」
突然、奥の方から声がした。
オレは咄嗟に、
「あ、あ、あの、すいませんすいません、すいません、ノックもせずに無断で!」
と謝った。
するとコツコツと音を立てながら、声の主が近づいてくる。でもずるずるという音のアレと違って恐怖感はなかった。
コツコツが近づきながら、ふいに変なことを言った。
「あら人間」
「え」
さらに近づいて、こう言った。
「あら、あなたはあの時の」
オレは目を凝らして、近づいてくるコツコツの顔を見ようとしたが暗くてよくわからない。
「えぇっと……」
「以前もノックしないで飛び込んでらっしゃいましたよね?」
コツコツの音の主の顔が、ようやく灯りに照らされた。
「……あっ! あの時の!」
「私は久世敬子といいます」
「へ!?」
コツコツが名乗ったその名前に、オレは大いに戸惑った。




