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(1)理学附属植物園

うちの大学には理学部附属の植物園がある。もちろん府立植物園と比べたら広さも種類もかなり小ぶりだ。


研究のために造られた植物園なので、見られることを第一としておらず、樹木だって園内通路に沿ってきれいに植えられているわけではない。もちろん入口からぐるっと一周できる通路はあるし、見学希望者があれば、反時計回りに説明しながら一周し、最後に出口のところの植物学分館で標本などを見せるということもある。


その周遊路の一番奥、入口から見て12時の方向のさらに奥に、一見しただけでは自然に育ったのか、それとも研究用に植えたのかわからない大きな木が何本かある。久世敬子くぜ たかこ教授が研究している薬用植物が栽培されているエリアだ。


その木は、太い幹を支えるかのように、地表より上の部分から地面に向かって斜めに根が伸びている。葉の一枚一枚は、人間の顔くらい大きいので、そこから先のエリアには、昼でも進んで行くことがためらわれる薄暗さだ。


「そこから周遊路を外れて、もっと奥に進んで行ってね。そしたら扉があるから」

オレは、指導教員である久世教授の依頼で、その扉の中の部屋に標本を保管しに行くよう頼まれてここにいる。


「マジかよ、ここ行くの? ホントに倉庫なんてあるのか?」

きょろきょろしながら、葉をかき分けて一歩一歩進んで行く。


「保管庫みたいないわくつきの倉庫じゃないだろうな……」

カラスが鳴いている。

上を見ても、葉に隠れて空はほとんど見えない。不気味だ。視線を戻すと足元を黒猫が歩いていて、思わず声が出た。


何メートルくらい分け入ったろうか、扉は突然現れた。しかも地面に。

「え、建物じゃないじゃん! 地下室かよ!」


オレは相当躊躇したけど、このまま戻ったら、使いの一つもできないの、と教授から嫌味を言われるに決まっているので、意を決して預かった鍵で扉を開けた。


扉の向こうには地下に向かって階段が伸びていた。

真っ暗だ。


「それで懐中電灯か」

鍵と一緒に渡された懐中電灯を点け、階段をゆっくりと、一段一段降りていく。


「乾燥標本に湿気は大敵だから、必ず扉は閉めてね」

はいはい閉めましたよ、と声に出しながら、降りていく。が、いつまでたっても底が見えない。


「地下はね、一年を通じて温湿度が一定なので、保管にはちょうどいいのよ」

知ってますよ、それくらい。にしても深すぎませんか、教授! 声が響く。


やがて、ようやく階段の終わりが見えてきた。どれくらい深いんだろうか? 20メートル? 30メートルか?


地下に降り立つと、小路のような通路の先にほんのりと灯りが見える。

先客? 他にも誰か先生に頼まれたんだろうか、と歩を速めて進んで行く。

そして……

灯りの正体がわかった時、オレは思わず立ち止まった。


灯りは街灯だった。

そして家があり、人が歩いている。


「え……」


歩いているのは、地底人とかじゃなくもちろんフツーの人間だ。スーツ姿の人もいれば、買い物帰りのお母さんと子供、自転車に乗ったおっさん。どれも普通の人だ。


オレは小路の角まで進んで、辺りを見回した。

もちろん空はないが、天井も見えない。灯りといえば裸電球の街灯と家々の電気だけで、町全体が夕暮れ時って感じの色だ。だけど不思議と暗いという感じはない。

目隠しで連れて来られて、これが有名な梅田ダンジョンだよ、と言われたら信じてしまうかもしれない。


角のタバコ屋には割烹着を着たばあさんが一人、ぽつねんと座っていて、隣には昔ながらの朱色の丸い郵便ポストがある。家の壁にはオロナミンCとボンカレーのブリキ看板。 昭和の街並みかよ。 

オレは、ここはどこかと、ばあさんに声を掛けてみたが昼寝中のようで、返事はなかった。


そのまま歩いていくと、路面電車まで走っていた。行先表示板には北野天満宮とある。もうとっくに廃止されてるだろ……。


昭和の京都にタイムスリップでもしたかのような風景に、オレは立ち尽くすしかなかった。

「ここって一体……」


*****


八瀬やせ君、悪いんだけど頼まれごとしてくれない?」


八瀬君と呼ばれたオレは、植物学教室の修士課程の一年だ。久世教授の下で遺伝学を研究している。

このまま博士を取って研究の道に進むか、それとも修士だけで就職するか、まだ迷っている。遺伝の研究は楽しいが、パーマネントの研究職に就くのは非常に難しい。かと言って毎日ネクタイにスーツで出勤というサラリーマンもとても務まりそうにない。

そんな訳で、とりあえず一週間以上先の未来は考えないように暮らしている。


「はい、なんでしょう、教授」

「植物学分館の資料室に行って、この乾燥標本を取ってきて欲しいの」

そう言って久世教授はオレに一枚の紙きれを手渡した。

「お安い御用です、すぐに取ってきます!」


植物学分館は植物園の中に立っていて、理学部本館からは歩いて5分ほどのところにある。植物の葉っぱの標本なんて、薄っぺらでかさばらないんだから手元に置いとけばいいじゃないか、と思ったアナタ、アナタは知らなすぎる。そんな薄っぺらなものでも何万枚、何十万枚と集まったら一体どれほどの量になるか、想像がつくだろうか? 教授室など何個あっても足りないくらいだ。


昔は分館に研究室を構えていた教員もいたようだが、新館ができてからはみなそちらに移動したので、今は植物学セミナーなどでたまに使われるだけだ。なので普段は人気が無く、うっそうとした森の中にひっそりと建つ古いこの分館に入るのはあまり気持ちのいいものではない。


今日の教授の依頼も、昼間で、しかもきれいな青空だから受けたけど、曇りの日の夕方ならご自分でどうぞ、と言い返していたかもしれない。


薄気味悪い、は言い過ぎかもしれないが、誰もいない資料室の扉のギイィッという音には、毎回ヘンな汗が出てきそうになる。でも研究用の葉っぱを保管しているだけあって、空調完備で、一年を通じて同じ温度・湿度に保たれている。


教授から渡された手元のメモを見る。

「えぇっと、棚は16番。サンプル番号が……88の12と14。次が棚22番で、91の123から133っと」

煌々と蛍光灯が輝く研究室と違って、この資料室は保管倉庫という性格上、最低限の明るさで薄暗い。昼間とはいえ、あまり長居をして気持ちのいい場所ではない。

さっさとサンプルの葉っぱを集めて撤収するに限る。


「最後の棚は、33か」

そこでオレは足が止まった。

「えっ33! 33番の棚って……保管庫じゃん!」

オレは目の前の「保管庫」と書かれた扉の前で、絶望にも似た声を上げて固まってしまった。


保管庫とは資料室の奥にある、文字通り、葉っぱの保管庫である。資料室同様、空調は完備されているが、窓が無く、そして何より学生たちの間ではまことしやかなウワサが代々語り継がれている、いわくつきの部屋なのだ。


そのウワサとは……

ある時、オレと同じように教授からサンプルを取ってくるよう言われた学生が保管庫で探していたところ、目の前の葉っぱが急に動いたというのだ! 窓が無いから風のせいではない、他に誰もいない。なのに、その学生の目の前で葉っぱが動いたのだ。


またある時は、サンプルを置いてくるように言われた学生が、保管庫の余りの薄気味悪さに、適当な棚においてさっさと部屋を出ようとしたところ、そこじゃない、と声がしたという。


そして極めつけは、これらの噂を与太話として一蹴し、ビビってるからそんなふうに感じるんだよ、と鼻で笑っていた体育会系の学生が保管庫に行ったときのことだ。鼻歌交じりに保管庫の扉を開けたら、目の前に黒髪の女性が立っていて、その学生の方をくるっと振り向いたというのだ!


彼は「ひっ」と一言発して、その場で卒倒した。


余りにも長い時間戻ってこない彼を心配した他の学生たちが探しに来てくれなければ、

「オレは多分生きていなかったと思う」

そう言って、彼は教授に専攻変更届を提出した。


そんないわくつきの部屋の扉の前に、今オレは一人で立っている。


「こ、これからは二人以上で来ることをみんなに提案してみよう」

そう声に出して言って、オレはドアノブに手を掛けた。

ゆっくりと回すと、ガチャっと音がして扉が開く。


空調の静かな音が響いている。

ほのかな灯りを頼りに33番の棚を探すと、幸いにも目の前にあった。


「お、目の前だ、助かった」

そう呟いて手を伸ばし、サンプルを掴んだとき、奥の棚から、にゅっと女性の顔が覗いた。


「うわぁっっ!」

オレは卒倒こそしなかったけど、心臓が飛び出るくらい驚き、手に持っていたサンプルをぶちまけ、恥ずかしいくらいの大声で叫んで、床に尻もちをついてしまった。


しかし女性は、そんなオレを上から見下ろし、顔色一つ変えずに、

「何かご用ですか?」

と聞いてきた。


オレは慌ててサンプルを拾いながら、

「ひ、人がいるとは知らず、ノックもしないで開けてスイマセンでした!」

と頭を下げ、急いでドアを閉め、ダッシュで資料室を飛び出した。


「あー、びっくりした」

本館に戻る道でもまだ心臓がバクバクしていた。


研究室に戻って、サンプルを教授に渡し、興奮しながらこのことを話と、

「あら人がいたの? おかしいわね」

と言って手を止めた。


「ウワサは本当でしたね!」

ヘンな汗を拭きながらオレが言うと、教授は、

「ウワサ? 何の話?」

と鼻で笑い、それから、ふーんといった感じでオレを見て、そしてニヤリと頷いて、もう一つ頼みを聞いてくれないかしら、と言った。


その頼みが、別の標本を地下の倉庫に置いて来い、というものだった。

いくら教授の頼みとはいえ、あんなことの後だ、もうご勘弁願いたいと言ったのだが、

「修士論文、進んでないんでしょ? 中間審査、もう少し待ってあげてもいいけど?」

そ・れ・は、アカハラじゃないんですかね、教授! なんて言えるわけもなく、2週間の延長と引き換えに、オレはもう一度お使いをすることになった。


そして教授の言う通り、確かに扉はあった。しかも地面の上に。そしてその扉の先は、倉庫などではなく、町だったのだ!


「ここって一体……」


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