「真実の愛を見つけた」からと結婚式当日に婚約者から逃げられました。式のキャンセル料は私の全額負担のようです。
『真実の愛を見つけたから、ステラとは結婚できない。本当にすまない。どうか探さないでくれ――ハンス』
そんな手紙をステラが見つけたのが今朝。
平民街の角に店を構える『レストラン・アップルゲート』の扉に、婚約者であるハンスからの手紙が挟まっていたのだ。ステラは手紙を読み終えると、掌でぐしゃりと握りしめた。
「真実の愛って……今日、結婚式当日なんですけど!?」
ミルクティー色をしたふわふわの長い髪に、ラベンダー色の瞳。今年18歳になったばかりのステラ・アップルゲートは、怒りで体をわなわなと震わせた。
同い年位の娘たちに比べれば、身長も低く小柄な体つき。だが大きな目をした顔立ちは愛らしく、華奢な体と相まって小動物を思わせた。
――ステラは、いわゆる『没落貴族』だ。
父親が男爵領の経営に失敗し、父親が蒸発して一家は没落。残された一人娘であるステラと母親は、ドレスや何もかもを売り払いやっとの思いでこの店を購入し、身を粉にして働いてきた。
ハンスと出会ったのは、店が軌道に乗り始めたころだ。ハンスは仕入先の大商家の三男で、親同士の勧めもあり彼から求婚を受け二人は婚約を結んだ。恋心はなかったものの、これで亡き母も天国で安心してくれるだろうと思っていたのだが――。
ステラが扉の前で呆然と過去を振り返っていると、ぶるりと体が震えた。辺りでは白い雪が降り積もっている。
扉の取っ手ににぶら下げていた『本日は結婚式のためお休みします』のメッセージボードを外すと、ステラは店内へ入った。凍えるような寒さに耐えきれず暖炉に火を起こしていると、扉からベルの音が。誰かが店へやってきたのだ。
現れたのは、ステラとハンスが結婚式を挙げる予定だった教会からの使いでだった。その使いから、ステラは残酷な現実を告げられることとなる。
「料理も花も聖歌隊への礼金も、すでに支払い済みですので、式を挙げないのであればこちらに運ばせていただきます」
――と。
その後しばらくして、狭い店内に所狭しと大量の花と料理が運ばれてきた。ちなみに聖歌隊も訪ねてきたのだが、丁重にお帰りいただいた。
料理と花の匂いがごちゃ混ぜになった店内で、ステラは吐き気に耐えつつ一人で泣いた。父親が蒸発した時よりも、ずっと屈辱的だった。
ひとしきり泣いて、ステラは少しだけ落ち着きを取り戻す。
――まぁ、もう嘆いたって仕方ない。
ステラは唇をかみしめた。結婚式当日に逃げられはしたものの、キャンセル料は貯金で支払える。
そう自分を納得させようとした矢先のことである。
「よぉ嬢ちゃん。逃げたハンスの借金、両耳そろえて返してもらおうか」
店の扉を押し開け乗り込んできたのは、数人組の見知らぬ男たち。
大量の料理と花で、ただでさえカオスな匂いが充満している中に、鼻を突く安酒の匂いが流れ込む。男たちは見るからに『裏社会の住人』といった風貌で、腕には大きな入れ墨が彫られていた。
彼らが突きつけてきたのは、ハンスの署名入りの借用書。
しかも、担保には『レストラン・アップルゲート』の名が記されていた。
聞けばハンスは、ステラに隠れてギャンブルに溺れた上、店を担保に借金をしていたらしい。
ステラは「私がオーナーなので、借用書は無効です」抗議したものの、男たちはどこ吹く風で聞き入れようとしない。
そして結婚式の料理をいくらか勝手に貪った後――「3日後までに払えなければ、この店は差し押さえるからな」と言い残し、乱暴に机を蹴り飛ばした後去っていった。
「か……完全に終わった」
人生終了のお知らせ。
「婚約者が居るにも関わらず、真実の愛を見つけたのは百歩譲って許す。けどなぜ結婚式当日に逃げるの? 意味がわからない。しかも自分の借金を元婚約者に押し付けて逃げるのはもっと意味がわからない」
ステラの目の前には、いくつもの請求書と借用書。
教会からの請求書には、およそ350万円と書かれていた。式場使用料、料理代、花代……ドレス……。式を挙げていないのでご祝儀代は見込めない。
ハンスの借金を含めれば、一日で700万円を失った計算になる。
「ああああああああ」
ステラが頭を抱えていると、またもや店の扉が開かれた。チリンチリン、と来訪者を知らせるベルの音が鳴る。
まさかまた借金取りが――!? とステラが青ざめさせ勢いよく顔を上げると、そこには予想外の人物が立っていた。
「エ、エド、さん……」
彼はエドという名の、数年来の常連客である。
いつも一人でやってきては、カウンター席の端っこに腰かけて日替わりランチを黙々と食べて帰っていく。そのため何年も店に通っているというのに、ステラとはたまに会話を交わすことがある程度の関係である。だがいつも物静かで上品な受け答えをする彼を、ステラは客として気に入っていた。昼間からお酒を飲んで絡んでくる近所のジャックよりかはずっといい。
エドは一言で言えば美青年だ。
陶器のような白い肌に、艶やかな黒髪。アイスブルーの瞳は涼やかでいて、身丈は見上げるほどに高い。服装はシンプルな白いリネンシャツに黒いスラックス。その上から深い紺色のロングコートを羽織っている。
一見すれば、上流商家の若旦那といった風情。
けれど、彼の立ち居振る舞いから漂う上品な気配は、ただの商人のものではない。ゆえに近所の女友達はよくこう噂していた。
――『エドさんは、きっといいところの貴族様なのよ』と。
「お店の灯りが見えたので伺ったのですが……ステラさん、これはいったい何事ですか?」
帽子を外しながらエドが店内を見回す。
「うっ。そ、それが……。お恥ずかしながら、実は今日結婚式だったんですけど、婚約者に逃げられてしまいまして。これは式で使わなくなった、花や料理の数々です……」
ステラが恥を忍びつつ事情を説明すると、エドはアイスブルーの瞳を大きく見開いた。
「な――なんですって」
言葉が出ない、という様子でエドが顔色を青ざめさせる。二人の間にしばしの沈黙が流れた。暖炉の薪だけがパチパチと静かな音を立てている。するとエドはコートハンガーにコートを掛けたのち、ステラの方へと歩み寄ってきた。
「それは……お辛かったですね、ステラさん。僕でよければ話を聞きますよ」
「エドさん……」
酷い目にあった直後だからこそ、エドの優しい言葉がよく身に染みる。
ステラは思った。この先店を畳むことになれば、エドとは顔を合わせなくなる。彼は長年店に通ってくれた常連客。ならば店を畳まないといけない理由について、しっかり説明するのが筋だろう。
そしてステラは今朝がた起きた一連の出来事を、洗いざらいエドに打ち明けることにしたのだった――。
話を聞き終えると、エドは神妙な面持ちで口を開いた。
「事情はわかりました。――失礼ですが、そちらの借用書を少し見せていただいても?」
「え? ええ、どうぞ……」
ステラが机の上にあった借用書を差し出すと、エドは長い指先で丁寧に紙を広げた。薄い唇が小さく動き、目の色が真剣なものに変わる。
「……やはり」
エドは借用書の下部を指先で軽くトントンと叩いた。
「署名の横に、商人組合の印章が押されてありますよね? よくできていますが、これは偽の印章です。つまりこの書を作った金貸しは『印章偽造』の罪を犯していることになります」
「い、印章偽造……?」
「ええ。王国法では重罪です。この証拠を監査院へ提出すれば、借用書は無効と認められるでしょう。そうなれば、この店が差し押さえられることはありません」
「ええっ!? 本当ですか!?」
思わぬ良い知らせにステラが目を輝かせる。じっくりと印章を眺めてみるが、素人目には本物なのか偽物なのかはわからない。
「教えてくださって本当にありがとうございます! なんとお礼申し上げていいか……! エドさんは私の命の恩人です!」
ステラが興奮気味にお礼を告げると、エドは頬を染め、今まで見たこともないとろけるような甘い笑みを浮かべた。ステラはその笑みに思わずドキッとしてしまう。
「ステラさんのお役に立てたなら何よりです。それにこのお店がなくなってしまうのは、僕にとっても死活問題ですから。仕事のストレスで食べ物を受け付けない体質だったのですが、ステラさんの料理だけは食べることができたんです。それをきっかけに体調も良くなって――。ですから、僕にとってもステラさんは命の恩人なんですよ」
「そう、だったんですね……」
「はい。……ところで、なのですが。借用書を監査院に提出している間、また金貸したちがこの店に襲撃してくる恐れがあります。なのでステラさんはしばらくの間、どこかに身を隠しておかれた方が良いかと」
「!」
確かにエドの言う通り、金貸したちは「3日後までに払えなければ、この店は差し押さえる」と言い残して去ってっいった。つまり3日後またここに取り立てに来るということだ。
「どうしよう……実家はないし、友達には迷惑がかかるから頼めないし……」
ステラがブツブツ呟きながら悩んでいると、隣でエドがゴホンとひとつ咳払いをした。
「……ええと。ステラさんさえよろしければ、僕の屋敷――ヴェルナー侯爵家でしばらくお過ごしになられませんか? 警備は万全ですし、監査院への手続きも僕の方でしておきますので、外出時に襲われる心配もありません。いかがでしょう」
控え目な口調で語られた提案に、ステラは思わず固まった。
「こ、侯爵家!? エドさんって、貴族の方だったのですか!?」
やっぱり、という言葉は飲み込む。
ヴェルナー家といえば、ここら一体の土地を古くから統治している由緒正しい名家だ。ステラは慄いた。
(だからすぐ印章が偽造だって見抜けたのね……! 領主ならギルドの印章を目にする機会も多いだろうし)
「実は、そうなのです。僕の本当の名は、エドモンド・ヴェルナー。ヴェルナー侯爵家の当主を務めております。……今まで偽名を使っていたこと、どうかお許しください。ただのしがない常連客として、あなたの料理を味わっていたかったのです」
『お許しください』『しがない常連客として、あなたの――』
日常では聞きなれない至極丁寧なエドモンドの言葉遣いに、ステラは気持ちが落ち着かなくなる。
「ステラさん。どうか僕に恩人であるあなたのことを、守らせてはいただけませんか」
どこまでも澄み切ったアイスブルーの瞳が、ステラの胸を真っ直ぐに射抜く。
じっと熱のこもった目で見つめられ、いつの間にかステラは自然と頷いてしまっていた。
その時のエドモンドの嬉しそうな顔といったら――。
今更『お断りします』とも言えず、ステラはしばらくヴェルナー邸に滞在することになったのだった。
*
「『奥様』の御髪は綺麗なミルクティー色ですわね」
「『奥様』のお肌は磨き上げられた真珠のように、白く滑らかでお美しいですわ」
ヴェルナー邸の広いお風呂場。
素っ裸で泡風呂に浸かっているステラは、メイドたちに取り囲まれ隅々まで磨き上げられていた。
(あれっ。なんでこんなことになったんだっけ……?)
――あの後ステラはエドモンドと共に馬車へ乗り込み、ヴェルナー邸へ到着した。
かつては男爵令嬢だったステラだが、ヴェルナー邸の壮麗さには思わず目を見張ってしまう。
真っ青な芝生が敷かれた広大な庭には、色とりどりの花々が風に揺れていた。建物は三層構造の大邸宅で、外壁には真っ白な石が用いられている。
邸宅の美しさに見惚れつつ馬車から降りると、何十人もの使用人たちがずらりと入り口までの道を取り囲むように並んでいた。そしてステラたちの姿を認めると、彼らは一斉にこう言い放ったのだ。
「「「おかえりなさいませ、旦那様。奥様」」」
――あの時から、なんだかおかしいなとは感じていた。
使用人たちが呼ぶ『奥様』というのは、もしかしなくても・たぶん・恐らく、ステラのことを指している。エドモンドにエスコートされつつ邸宅の中へ入ると、『外は寒かったでしょう。ぜひお湯で温まってきてください』と言われ、あれよあれよという間に服を脱がされ――今に至るというわけである。
(ていうかエドさんも否定してよ)
さきほどからメイドたちには何回も『私は奥様じゃありません』と伝えているのだが、笑顔でスルーされてしまうのだ。「はいはい、わかりましたわかりました(笑)」という感じで。
(このままお客様扱いしていただくままじゃ駄目よ。メイドとして置いてもらえないか、エドモンドさんに聞いてみよう……!)
入浴を終え、真新しいドレスに身を包んだステラは、メイドの案内でエドモンドの私室の前へと足を運んだ。コンコン、と控えめに扉をノックすると、「どうぞ」と返事があったのでドアノブを回す。
「失礼します」
「! ステラさんでしたか――」
とエドモンドが執務机から立ち上がると、彼は言葉を失った。
お湯で温まり、わずかに上気した肌。蠱惑的なラベンダー色の瞳。亜麻色の髪はゆるくまとめ上げられて、白いうなじをあらわにしている。
身に纏うのは、オフショルダーのイブニングドレス。今宵の夕食会にふさわしい、深い紺を基調としたシックな装いだ。
いつもはエプロン姿で厨房に立っているステラ。だが今は――まるで別人のように気品をまとった、美しい令嬢へと変化を遂げていた。
エドモンドの頬が赤く染まる。
「……お美しいです、ほんとうに」
「あっ、ありがとう、ございます……っ。ドレスのお陰ですね。お貸しくださりありがとうございます」
まるでステラのために誂えたかのような、不思議とサイズがピッタリなドレス。
「貸すなど、そちらのドレスはステラさんのものです」
「そんな」
ステラが眉尻を下げ取りすがろうとすると、突然エドモンドが彼女の手を掬い上げた。そして手の甲に静かな口づけが降り注ぐ。
エドモンドの熱のこもった真剣な眼差しが、ステラの肌をじりじりと焦がした。
「お美しいステラさん。まっさきにそのお姿を見ることができたのは嬉しいですが、女性が夕刻に男の部屋を訪れるのは感心しませんね――とりわけ、その男があなたに恋している場合は、非常に危険ですよ」
「へぇっ……!?」
エドモンドが発するあまりの色香に、ステラは間の抜けた声を上げてしまう。普段、色香の『い』の字も感じさせなかった彼だからこそ、ギャップが凄すぎて心臓が早鐘を打つ。
部屋に甘い空気が立ち込め、彼女はそれから逃れるため必死に言葉を探した。
「あああの、エドさ――エドモンド様。使用人の方々が、私のことを『奥様』と呼ぶのですが、エドモンド様から間違いを訂正していただけませんか!?」
「ふふ、エドモンド様など。いつものようにエドとお呼びください。……それとステラさん。僕は奥様呼びを訂正するつもりはございません。あなたに本当に、妻になってほしいと思っていますから。数年前からステラさんのことを、ずっとお慕い申し上げておりました。どうかこの僕――エドモンド・ヴェルナーと結婚してくださいませんか」
「な……!」
まさか恋心を抱かれてたとはつゆ知らず、ステラは顔を赤くするばかりで言葉を失ってしまう。
「失恋の傷に付け込むこと、どうかお許し願います。結婚されると知り本当は身を引くつもりでした。ですが、あなたがこうして傍にいてくださると、愚かな僕はどうしても諦められない」
「エド、さん」
名を呼ばれ、エドモンドがステラの細い指をぎゅっと握りしめる。戸惑いを隠せない彼女に、そっと彼は苦笑してみせた。
「ご安心ください。たとえ断られても、借用書の件はなんとかいたします。ステラさんはなにも心配しなくて大丈夫です。――また今度、お返事を聞かせてください。いつまでもお待ちしております」
数年も片思いしてきたらしい彼が『いつまでも待つ』と言えば、やけに説得力があった。
「は……はい」
柔らかい真綿でくるまれるような声色。
その温かさにまどろみ、ステラは思わず身を任せたくなったが、脳裏にハンスのあの言葉がよみがえる。
『真実の愛をみつけたから、ステラとは結婚できない』
手紙は走り書きしてあった。急いでいたのか、ステラのことをどうでもいいと思っていたからなのか。
その理由を考えると、体が彫刻になったみたいに冷たく重くなっていく。
夕食を終えベッドに横たわったステラは、暗い部屋で内心独り言ちた。
(一瞬でも浮かれちゃってばかね、ステラ。父親にも見捨てられて、結婚を約束していた婚約者にも裏切られたあなたが、あんなに素敵な方に釣り合うわけがないでしょう……)
*
そしてプロポーズの返事ができないまま、一週間が過ぎた。
エドモンドは普段仕事で執務室に閉じこもっていることが多かったが、毎日少しの時間を作ってはステラのもとへ訪れた。しかも言葉通り借用書の件は着々と手続きを進めていたらしく、後日、ステラの店を襲撃した金貸したちはお縄になったことが知らされた。
それに伴い、借用書は無効。ステラは無事、レストランの経営を再開できることとなった。
同時に、ステラがヴェルナー邸に留まる理由も失われてしまう。
(エドさんに、プロポーズの返事をしなくちゃいけないわ)
ステラは一人、天気もいいので東屋で庭の薔薇をぼうっと眺めていた。しかしまだ季節は肌寒く、ぶるりと震えた後彼女はベンチから立ち上がった。その時である。
「ステラさん、少し……よろしいですか?」
控えめな声にステラが視線を向けると、そこにはエドモンドの姿があった。少しだけ寂しそうな表情が彼の顔立ちの美しさをより際立たせている。
そんな顔を見ていると、今から告げる言葉を伝えづらい。だがステラは意を決し、やっと唇を動かした。
「エドモンド様……何もかも、本当にありがとうございました。おかげで店を失わずに済みます。このご恩は、いつか必ずお返しいたします。……ですが、私は貴方様とは結婚できません。どうか、お許しください」
――言ってしまった。
胸の奥が締めつけられるように痛む。二度とない縁を断ち切ってしまったような、目覚めの悪い心地がした。
けれど、これでいいのだとステラは思う。
この一週間のあいだ、ヴェルナー邸には国の重臣や宰相までもが訪れていた。メイドの話によれば、エドモンドは王国随一の切れ者であり、政務の相談を持ちかけられることも多々あるのだという。
そんな将来ある彼が、自分のような没落令嬢を妻に迎えるなどあってはならないことだ。
「――ご恩は必ず返す、ですか。なら、なぜ僕の妻になってくださらないのです」
「エドモンド、様……?」
そう言ったきりエドモンドは表情を暗くして俯いた。てっきり『それがステラさんの選んだ答えなら』と受け止めてもらえるかと思っていたステラは、困惑して眉尻を下げる。
「大丈夫ですか?」
俯く彼が心配で、ステラが手を伸ばした瞬間――。
エドモンドは彼女を素早く抱き寄せ、自らの唇をステラのそれへ重ね合わせた。冷たい唇が触れ合い、そこからじんわり熱が伝わってきたところで、ステラはエドモンドを両腕で突き放す。
「ご、ごめんなさいっ……!」
彼の顔は見れなかった。ステラは感情がぐちゃぐちゃになり、逃げるようにその場を立ち去ったのだった。
*
雪の中を必死に駆け、ステラはやっとのことで『レストラン・アップルゲート』へとたどり着いた。
店内は、噂を聞いた常連客が片付けてくれたようで、とても綺麗な状態である。テーブルの上にすべての椅子が乗せられていたが、ステラは椅子を一脚おろしそこへ腰かけた。
疲れ果てていたし、本当はそのまま泣きじゃくって眠ってしまいたかった。気分は魔法が解けて日常に戻ったシンデレラそのもの。
けれどじっとしていると凍えるほど寒かったので、ステラは仕方なく重い腰を上げ、暖炉に火をつける。すると、背後から来客を知らせるチリンチリン、という鈴の音が鳴った。
ステラはハッと目を見開く。
「エドさん……!?」
彼がまさか後を追いかけてきたのだろうか、期待と不安が織り交ざった顔で振り向くと、そこにはエドモンドではなく――。
「ハンス、どうしてここに」
以前よりもずっと痩せこけた、彼女の元婚約者であるハンスが立っていた。次の瞬間、ステラはぎくりと身構える。ハンスの手元には包丁が握られていたからだ。
「ステラ。突然いなくなったりして、すまなかった」
ハンスの声は掠れていた。しかしその瞳には、懺悔ではなく焦燥の色が浮かんでいる。
「……どうして包丁なんか持ってるの?」
「脅かすつもりじゃない。ただ……わかるだろ? 真実の愛を見つけたつもりだったが……あの女、俺が金を持ってないとわかると態度を急に変えやがったんな。親にも家を締め出されるし……やっぱり俺にはステラしかいない。君ほどの女は、そうはいないよ」
わかるわけがない。わかりたくもなかった。
「俺と一緒にこの町を出よう、ステラ。この町の連中は血も涙もないやつらばかりだ。こんなに寒いのに宿さえ貸してくれない」
それはそうだろう。結婚式当日に婚約者を浮気して裏切り逃げた男だ。噂は町中に広がっているし、ハンスは町中の皆から嫌われて当然の行いをしたのだ。
「やめて、あなたとはもう終わったの。結婚式を台無しにされた時からね。式のキャンセル料は私が全額負担したわ。しかもあなたが勝手にこの店を担保に借金したせいで、あやうく店を失うところだったのよ。これ以上、私に関わらないで」
ステラの声は震えていたが、目は真っすぐに彼を見据えていた。するとハンスは謝罪の言葉を口にするどころか、激高し包丁を彼女へ向かって突き付けた。
「うるさい! つべこべ言わずに俺と一緒に来い!」
ハンスが腕を振り回す。テーブルが倒れ、皿が激しい音を立てて床に散らばった。ステラは後ずさるが、背中が壁にぶつかる。逃げ場はない。
「いや……っ!」
目を血走らせ、ハンスが荒い息とともに包丁を振り上げる――もうダメだ、とステラがぎゅっと目を瞑ったその刹那。
ガンッ!
扉が勢いよく音を立てて開かれた。吹き込む冷気の中、コートを被った男が一人。
「――薄汚い手で、ステラさんに触れるな」
低く唸るような声が、さらに冷たい空気を凍てつかせる。
「エドさん……!」
危ない、逃げて。とステラが叫ぶ前に、ハンスが標的を変えエドモンドへと襲い掛かる。するとエドモンドはそれをなんなくかわし、ハンスの首の後ろを手刀で強く打ち付けた。
その瞬間まるで操り人形の糸が切れてしまったように、どすん、と鈍い音を立てハンスは床へ倒れ込んだ。――気を失ったのだ。エドモンドがハンスの手を後ろで縛り上げたのを見て、ステラはほっと息を吐く。助かったのだ。
しん、と二人の間に沈黙が流れる。口火を切ったのはステラの方だ。
「エドモンド様、お怪我はありませんか……!?」
「なんともありませんよ、ステラさんの方こそお怪我は?」
「無事です。エドモンド様が、命がけで守ってくださったお陰で」
――そうだ。エドモンドは逃げるどころか、包丁をもったハンスに立ち向かってくれた。命を失うかもしれない状況だというのに。それなのにエドモンドは――。
俯いていると、温かい指がステラの頬に触れた。そのときステラは、触れられて初めて自分が泣いていることに気が付いた。
「愛する方を守れるなら、この命など惜しくはありませんよ」
「っ」
愛する方。その言葉に脳髄が焼かれる。頬から耳がまるで火傷したみたいに赤くなり、目が潤んだ。
「そんな顔をしないでください。僕にいらぬ期待させてしまうことになります」
「エドさん、私」
ステラは頬に添えられている大きな手に自らの掌を添えた。エドモンドの指先がピクリと震える。
「あなたを好きになってしまうのが、怖いです。好きになって、もしあなたに裏切りでもされたら、私、きっと粉々に打ちのめされて、次はもう立ち上がれなくなってしまいます」
「……ステラさんが恐れるのも当然です。ですが、だからこそ誓わせてください。僕はあなたを裏切りません。この命が尽きるその時まで、あなたを愛し、守り抜くことをお約束いたします。できなければ、僕を殺してくださって構いません」
「こ――殺すって」
ステラはエドモンドの仰々しい言葉遣いに思わず笑みが零れてしまう。
「エドさんも、そんな冗談言うんですね」
気が抜けたステラが微笑むと、エドモンドは驚いて目を見開いた。「(僕はいたって本気なのですが)」と思いつつも、彼は口を閉ざす。そんなことよりも、愛しい人の笑みを目に焼き付けたかったのだ。
エドモンドが静かに唇を寄せると、ステラは目を閉じ、今度は拒まずにそれを受け入れた。それがステラの答えだった。
*
それから数か月後――。
ステラが店主を務める『レストラン・アップルゲート』は街道の角にある。訪れた常連客は、扉のドアノブにかけられているメッセージボードを見て、しまったと頭を掻いた。
「そういや、今日だったなぁ」
常連客が踵を返し帰っていく。その場にポツンと残されたメッセージボードには、こう書かれていた。
『本日は結婚式のためお休みします』
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