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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

【小説】共鏡の佐紀


 

 山深い飛騨の木々には、年中止まない(ざわ)めきがこびりついていた。

 生まれたときからずっと聞いているから、壁や戸板のように、目に入ってもそれと思わない雑音が、心の底まで透き通った境地に至らせる。

 鏡の間であぐらを組み、目を閉じている男は、呼吸をしているのかさえも怪しいほど自我を捨て去って、朝の空気のように(たたず)んでいた。

加々見(かがみ) ───」

 霧のように湿った空気を(まと)って、彼の背に声をかけたのは、初老だが背筋をピンと伸ばし、目を爛々(らんらん)と輝かせた影だった。

洛阿(らくあ)様」

 視線を鏡に向けたまま名を呼ぶと、洛阿は後ろの鏡に吸い込まれたかのように気配を消した。

「何を見た」

「はい、朧気(おぼろげ)ですが、(きら)めく光に照らされて、若い女たちが立っていました」

「方角は」

「卯の遥か先にあるようです」

 霧が晴れ、後ろにいたはずの男は鏡の中に姿を消した。

「すぐに向かえ。

 暗い霧が立ち込めている ───」

 ゆっくりと頭を倒し、天上を仰いだ加々見 佐紀(かがみ さき)は、鏡の中の幻影を振り払うかのように頭を軽く振って、固く目を閉じた。

「わかりました」

 加々見の肉体は、合わせ鏡の間で光と化し、ガラスに当たると反射して外へと消えて行った。

 あの光景は、何だったのだろう。

 人間の負の力が満ち、未来を閉ざす重い気が満ちた街、あるいは巨大な建物の入口だったのだろうか。

 合わせ鏡のある飛騨(ひだ)城よりも遥かに大きい。

 山で育った加々見には、想像もできないほど光に満ちた世界。

 だが、光輝く世界には、長く暗い影がこびりついていた。

「よし」

 (ふもと)の店で買って来た、地味なトレーナーとスラックスという、ちぐはぐな(よそお)いに、彼は心の底から垢抜けたような気分が込み上げてきたのだった。

「街、それも飛騨とは比べ物にならないほどデカい」

 イメージは、彼の想像力を遥かに超えていたが、若い肉体に熱い血が(たぎ)るのを押さえきれなくなりそうだった。

 乞食(こじき)に化けるときに使う、大きな図他袋を肩にかけ、月の下を滑るように走る影は、次第に茂みの音に溶け込んでいく。

「お前は、戸上流忍術宗家の者となった。

 これからは己の欲を断ち、影として生きていくのだ。

 心してかかれ」

 耳の奥に、洛阿の言葉がこだましていた。


 天井に鏡が貼られ、壁にも鏡。

 まるで無限に広がるように、薄暗い部屋はどこまでも続いている。

 合わせ鏡になっているので、目の前の光景を背中の鏡が写し、前方へ投げた映像はまた背に跳ね返る。

 頭では分かっているのだが、少し眩暈(めまい)を感じるほどに天井や壁、テーブルの光が万華鏡のように取り巻いている。

 街の外にあるコンビニエンスストアや、自動販売機の飲み物を買い物袋に詰めた女は、カウンターにドスンと下ろすとソファにもたれた。

 そこらで買ってきた物を、客に飲み食いさせているのだからいい加減な商売である。

 仕入れも(もう)けも、ドンブリ勘定(かんじょう)だが、酒だけは毎日の配達を待っていた。

 だからと言って、上等な酒など一本もなく、安酒をかさ増しして出すのである。

 これで1人1万か2万になるのだから、まともではないのは始めから分かっている。

 人一人がやっと入れるスペースに身を押し込み、着替えを済ませると外に出ようとドアノブに手をかけた。

 手垢(てあか)でベトつく金属に、不快感から顔を歪めた彼女は、室内に淀む(かび)臭い空気に軽くむせた。

「こんな街 ───」

 小遣い欲しさに始めた仕事だったが、クラブやパチンコで()って、化粧品やアクセサリーに湯水のごとく吐き出した財布は、いつも帰りの交通費さえ怪しい有様である。

宵越(よいご)しの銭は持つな」

 まさか本当に真に受ける馬鹿はいるまいが、自分がそうなってしまったのが可笑(おか)しくもあり、苛々(いらいら)の種でもある。

 何も生み出さず、人の有り金をはたかせるために(うごめ)く寄生虫のような自分たちは、街の魔に飲まれてしまったのかも知れない。

 そんな気取った考えを巡らす自分も嫌いだった。

 往来に立つと、あちこちに立つ者がこちらを少しだけ意識するのを感じた。

 限界ギリギリまで短くしたスカートに、肩を露出したシャツ。

 胸にはリボンをつけて、長い髪を脱色した顔は少し黒ずむ。

 夜はファンデを濃く塗って、肌を白く見せる。

 どうせ何もかも作り物なのだ。

 店も、人も、そして自分の皮膚も。

 中身もないし、外見も分厚い皮を被っている。

 男が通ると口角を上げ、目尻をトロンと下げて猫なで声を出して近づく。

 視線を合わせて来る者は少ない。

 こんなに自分を飾っているのだから、一瞥(いちべつ)くらいして行ったらどうなんだ。

 ふんと鼻を鳴らした女は、ヒールの(かかと)で固いコンクリートを踏みしめた。


 暗いはずの夜でも、煌々(こうこう)と照らす明かりは、ケバケバしい色で何かを訴える看板や店から()れる光、そして車が放つ光。

 すべてに人の営みがあり、あまりにも(まぶ)しい。

 加々見が降り立ったのは、東京都の壺塾(つぼじゅく)というネオンが眩しい歓楽街である。

 日本でも屈指の規模を誇る壺塾には、怪しい空気が漂っていた。

 飛騨で見た光景に近い街、ただそれだけの理由で電車を降りたのだ。

 普通の人間ならば、こんなにも無計画な行動は取らないだろう。

 だが、彼には確信があった。

 山の中で(つちか)われた、感覚がそうさせるのである。

 道路があるのに車はほとんど通らない。

 なるほど、濃い影のある街には人を寄せ付けない空気がある。

 一人で納得した加々見は、滑るように足をコンクリートに擦って歩いて行く。

 物珍しさに、一軒一軒店やら雑居ビルやらを()めるように目で追いながら。

「お兄さん、遊んで行かない?」

「どこから来たの?」

「ねえねえ、ちょっと」

 客引きは、若い女が多い。

 しかも薄着で、肌をどこまで露出できるか挑戦しているかのように。

 飛騨の女たちは、こんな修行もしていたっけ。

 くノ一は、男に取り入って喉をかき切る。

 自分の身など(かえり)見ずに。

 その覚悟に、正面から剣を交える以上の修羅を感じたものだった。

 しかし、ここに立っている女は欲を軸にしているようにしか見えなかった。

「ねえ、お兄さん、カッコイイね。

 一緒にお酒飲んで盛り上がろうよ」

 加々見の腕を取った女は、身体を寄せて胸を押し付けていた。

 満面の笑みを向けるその女は、顔立ちが良く美人だったが心の琴線に触れる物がなかった。

「どこからって、西からだけど」

 相手に不快感を与えるほどではなかったが、加々見の調子には抑揚(よくよう)が欠けていた。

 言葉の(なま)りを極力消すための技術なのだが、どうしても語尾が伸びて上がり調子になる。

「西からって、アハハ!

 面白いね、お兄さん。

 ねえ、名前教えてよ」

「あんた、名前を名乗ってねえぞ」

 一本調子で言うから、(とが)めているのか聞き返しているのか分からない。

 感情を込めていないから意図がわからなかった。

「私、サキだよ」

「ああ、俺もサキだ」

 一瞬ピタリと動きを止めた彼女は、身体を「く」の字に曲げて、ゲラゲラと腹を抱えて身を(よじ)った。

「やっぱ、面白いねえ」

 目に涙を溜めて、女はチラリと加々見の目の奥を覗き込むようにしたのだった。


 往来の男たちは、歩き方や視線の動き、服やアクセサリーなどからある程度は素性がわかる。

 歓楽街には反社も多くて、すぐにそれと分かる者もいれば、やけにエリートっぽさをアピールする者もいる。

 ニセモノだから、胡散(うさん)臭さを隠しきれず、男を見る目が肥えてきた客引きにとっては、見破るのはさほど難しくなかった。

 若い女たちであっても、網にかかる者を探し続けていれば自然に身に着く感覚だった。

 遊び慣れた男は、調子を合わせてきたとしても(わな)に気づく。

 若い男は女の色香に(だま)されやすいとは言いきれない。

 精力は(みなぎ)っているのだが、危険を察知する勘は(あなど)れなかった。

 年輩の男の方が分かりやすい。

 若い女がキャピキャピしているだけで顔を(とろ)かせた。

 そいういう手合いには、罠を張るよりも取り入って小遣いをせびった方が手っ取り早い。

 店に9割以上のマージンをピンハネされるまでもなく、大金を手にして店じまいにできるのだ。

 金が手に入るならば、顔に貼った笑顔の仮面はいくらでも上塗りできた。

 そんな上客はめったにお目にかからない。

 きっと今日も、田舎者のお(のぼ)りさんを地獄(じごく)に引き込んで、大金を吹っ掛ける例のやり方で数万円稼ぐ程度だろうな、と自嘲気味に口元を歪めてから、作り笑顔を顔に貼り付けるのだった。

「俺も、サキだ」

 その男は、確かにそう言った。

 理解不能だった。

 男は、女の機嫌(きげん)を取るために共通の趣味をデッチ上げる。

 同じことを感じ、同じ思考回路を持つと女が安心して心を開くと思っているのだろうか。

 あまりにもシンクロしていたら、むしろ気持ち悪い。

 そんなこともわからない、頭の悪い男が多いなどと毒づくのは毎晩のことだ。

 だが、この男は抑揚のない声で「名前が同じ」とデッチ上げるのだ。

 これには(きょ)を突かれた。

 とりあえず笑うしかない。

 反応の仕方が分からない。

 何もかもが未知数な男。

 田舎者なのは間違いないが、まったく物怖じしていない。

 警戒も、迎合も、何もかも感情を捨て去ったかのような宇宙が広がっていた。


 佐紀の腕をきつく抱きしめ、顔を擦りつけるようにした彼女は雑居ビルの角を曲がって暗い路地へと入って行った。

 壁に寄りかかって煙草(たばこ)を吹かす男や、(ひざ)を抱えて身を縮めている女、トロンとした目でこちらを見ている者もいた。

「ねえねえ、こっちだよ。

 一緒に盛り上がろうよ」

顔をクシャッとして笑うと、ミルクを飲む猫みたいだな、などと思いながら足の力を(ゆる)めてされるがままに引っ張られていく佐紀。

 雑居ビルの一つに向かっているのがわかると、そちらを凝視した。

「まるで、口を開けた大蛇みたいだな」

 ボソリと呟いた言葉に、彼女は一瞬ハッとした。

 すぐに笑顔に戻し、なおも引っ張って暗い開口部へと消えて行った。

 カツン、カツンと、彼女の靴音が高く響くのとは対照的に、佐紀の動きは淀みがなく地面を踏みしめる気配を感じさせない。

「ねえ、故郷の話、聞きたいな」

 軽いノリで口にしたはずが、わずかに郷愁(きょうしゅう)の色を浮かべたのを、見逃さなかった。

「俺の、故郷の話で良ければしてやるよ」

 口元を緩め、始めて笑顔を見せた佐紀に、彼女は安堵(あんど)の色を見せた。

「なんだ、ちゃんと笑えるじゃんか。

 ねえ、飲もう」

 ドアリンを鳴らして彼女が薄暗い部屋へと手を引いた。

「いらっしゃい」

 頬を引き上げた、見事な営業スマイルを見せた、スーツ姿の中年の男が席へと促した。

「ビール、サワー、カクテル、ウイスキーもあるけど、何にする?」

 部屋の中をぐるりと見回して応えようとしない佐紀に、(しび)れを切らした彼女は、

「じゃ、ビールってことで。

 中生2つ!」

 (るび)をそろえてきちんと立つ男に言うと、無言で奥へと引っ込もうとした背中に声をかける。

「なあ、あんたは、戸茂組を知ってるか」

 射貫くような視線を向け、飛騨の忍の本性を垣間見せた瞬間だった。

「さあ、そんな組は ───」

 奥のカウンター席にいる男は白シャツを着崩し、酒を(あお)るように飲んでいた。

 そして、佐紀は確信した。

 壁も天井も、合わせ鏡のように無限に広がるこの空間は、彼を招いて引き入れたのだと。


 よく笑い、あまり飲まない佐紀に酒を次々に進めてくる女が、ふと鏡に視線を移した。

「どうかしたの?」

 相変わらずぶりっ子しながら顔を覗き込んでくる。

 テーブルの上には、皿に乗った大量のポテチや揚げ物、そしてビール、カクテル、ウイスキーが所狭しと並べられていた。

 鏡の向こうに、気配を感じたのだ。

 正確には、あちらの世界から誰かがこちらを伺っている。

 ヤクザが(たむろ)すバーへ連れ込まれて、まったく表情を変えない男。

 鈍感(どんかん)な田舎者でも、何も気づかぬはずはない。

 泰然自若(たいぜんじじゃく)として、背筋を伸ばしたまま酒を口に着けてはテーブルに置く音が響く。

 佐紀があまり異性を意識していないのだと、サキは思い知るばかりだった。

「鏡 ───」

 すっと背を立てて、ゆっくりを首を回す動作に、言い知れぬ迫力を感じた彼女は、思わず席を立った。

 飛騨の話を少し聞いて、それきり話題がなくなってきてから、無理をして笑っていた頬の肉が痙攣(けいれん)を始めていた。

 あまり手をつけなかったが、そろそろ頃合いだろうと思ったサキは、

「ちょっとトイレ」

 小声で告げて奥へと消えて行った。

 裏口へと続いていて、そのまま外へと逃げるいつもの手口だった。

「なあ、あんた7。

 まだ20歳じゃないな」

 もうこれきりで会うことはないと思ったので、限界に来ていた笑顔の仮面を()ぎ取って、振り向きざまに冷たい視線を一瞬投げた。

「何よ」

 初めて苛立ちを込めて、本来のトーンで喋ってみると、妙に落ち着いた態度の佐紀が口元を緩めて肩をゆすったいることに驚き、自分も可笑しくなって少し笑った。

「何でもないさ。

 また、会えるよな」

 それきり、プイと踵を返すと夜の闇へと帰って行ってしまった。


 サキが奥へ消えると、案内役の男が近づいてきた。

 そして、小さな紙をガラステーブルに滑らせる。

 壁の照明を映した表面は、濡れたように滑らかだった。

 手を伸ばすと、ヒヤリと冷たいガラスの上の紙切れを()まみ上げた。

 そのまま根が生えたように動かなくなった。

「32万だ」

 奥のカウンター席にいた男がこちらを向いた。

 佐紀の双眸(そうぼう)は、春の陽射しのように穏やかで、怒りも、苛立ちも、恐れもなかった。

 そして、天井を仰いで一つ伸びをした。

 すっくと立ち上がった彼は、小さく肩をすくめて言った。

「ないよ。

 財布には、4万くらいだ」

 ケロッとして、真っ直ぐにヤクザの目を突き抜けて奥の空間に視線は伸びていた。

「ナメてんのか、コラ」

 入口のドアの前に仁王立ちした若い衆が後ろで壁を蹴飛ばした。

 ガンッと乾いた音がして、怒鳴りつけた男の口角が歪む。

「お客さん、飲み食いしてお金ありませんなんて、冗談言っっちゃあいけないぞ」

 少し荒っぽさはあったが、まだ口調は静かだった。

 修羅場を創り出そうとしているヤクザに対峙(るび)する、佐紀の顔は晴れやかと表現するに相応(ふさわ)しいほど邪気がなかった。

 温厚で内向的な人には2種類ある。

 「一目置かれる人」と「すぐナメられる人」である。

 「胆力」と呼ばれる(はら)の座った者はナメられない。

 視線が泳ぎ、不安の色を見せる者は小さなことでも叱責を受け、攻撃的な人間の的になる。

 この男は、表情から何も読み取れなかった。

 いわば自然の石が転がっているかのように、気配さえなかった。

 ヤクザたちの悪意を、心地よい風のように受けて佇んでいた。

「なあ、あんた、戸茂(とも)組って知ってるかい」

 知人に聞くような軽い調子だった。

 これには奥からやって来た者も、ドアをふさいでいた者も目を吊り上げ髪を逆立て地面を蹴って突進した。

「この野郎!」

 ほとんど同時に2人の拳が佐紀の(ほお)と脇腹を捉えた …… かに見えた。

 しかし、拳を押さえて身体を「く」の字に曲げた2人はしゃがみ込んで(うめ)いていた。

 2人に背を向け、ゆったりとした所作でドアへと向かう佐紀は、もう一度横目で鏡を見た。

「真実は、目に映らない。

 まして、お前らのような者は盲目だ。

 道を尋ねにまた来るかも知れない ───

 そのときは、鏡に気をつけろ」

 最後の言葉は、鏡の中の気配を牽制(けんせい)する一言だった。


 裏通りからひょっこりと往来に出た佐紀は、客引きの女がいた辺りを見回していた。

 薄暗くて分かりにくいが、結構年配の女もいる。

 男の欲望を刺激しようとする裏には、先ほどのような結末が待っているのだ。

 彼は初めて人間の愚かさを目の当たりのしたのだが、心は澄み切っていた。

「ちょっと、あんた」

 道の先に目を凝らしていた彼に、後ろから声をかける者がいた。

「あんただよ、そこの田舎者!」

 最後は言葉を荒らげた。

 あまりにも無関心なので、無視された苛立ちが彼の眉間(mじけん)に深い縦皺(たてじわ)を刻ませた。

 ゆっくりと振り向くと、でっぷりと太って目を釣り上げたヤクザがこちらを(にら)んでいた。

 ヤクザではなかったのだが、どこから見ても「その筋」と変わらないいで立ちである。

 (ふところ)から手帳をちらりと(のぞ)かせると、身体を佐紀にすり寄せる。

「あんた、店から出てきたよな。

 何をしたんだ。

 無事に済むわけがねえ」

 客引きに連れられて消えて行くところから見ていたのだ。

 この警官は、顔に驚きと、少々の恐れの色を浮かべていた。

「ああ、友達を作りにね」

「おい、ふざけてるのか。

 ボッたくりバーからケロッとして帰ってくる奴なんざ、いるわけがねえんだ」

 佐紀に(つば)を飛ばし、簡単には帰さない覚悟を込めて苛立ちをぶつける。

 暴力には反応が薄かった彼も、少々顔を顰めた。

「あれ、サキじゃないか」

 ちょうど目の前を横切ろうとした女を呼び止めた。

「何よ、私はあんたなんか ───」

 言いかけた彼女に冷めた声が叩きつけられた。

「友達、あんたと俺、友達だから。

 初めてできた東京の友達」

「なんでよ」

「一緒に酒飲んだだろ」

 さも当たり前、という顔で言う佐紀を見て、彼女は声を荒らげた。

「いい加減にしてよ!

 私は客引きで、あんたはボッたくれる田舎者でしょ!

 何でケロッとしてるのよ!」

 立ち去ろうとする彼女に、佐紀の質問が飛ぶ。

「戸茂組、本当に知らないのか」

「何だって?」

 警官の比嘉は、2二の間に割って入った。

「戸茂組に何の用だ」

 佐紀の目が見開かれ、警官の眉間に視線が向けられた。

「俺の、祖父がいるはずだ。

 加々見 咲の介(かがみ さきのすけ)という。

 それと、親父の加々見 魯輝(かがみ ろき)の行方も追っているんだ」

 警官の情報網の方が、ヤクザを呼び止めて聞くより真相に近づく可能性が高い。

 彼は初めてそこに気づいた。

「ここじゃあ、何だ。

 交番へ行って落ち着いて話そう」

「あんたはどうするんだ。

 こんな仕事、もう辞めた方がいい。

 故郷に帰るんだ」

 妹を諭すような口調だった。

 それが彼女の心を閉ざさせた。

「帰るところなんかないわ。

 壺塾ユースって奴よ」

 その時、佐紀は横っ飛びに身体を投げ出しながら彼女の腰を抱え、地面に倒れ込んだ。

「ぐっ」

 呻き声と共に、後ろの壁にボコッという鈍器でコンクリートを殴ったような音が耳をかすめる。

「うちのオヤジに用があるってのは、そこのトンチキか」

「戸上流初伝、指弾。

 今宵の星屑を放つ、刹那の閃光が、お前の肉を(えぐ)る ───」

 一瞬遅れてその男は、血が滴る腕を押さえて腰を「く」の字に曲げた。

 後ろの壁から、鉄パイプが抜けて落ちる金属音を聞きながら、佐紀はつけ加えた。

「交番へ行くのだろう」

 放っておけば恐らく若い衆が彼を襲うだろう。

 それを知っているはずだが、顔には恐れも焦りも見いだせなかった。



この物語はフィクションです


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