第86話 女神が読めないこと
美羽は聴衆の「もう一曲だけ」というアンコールに応えて一人で歌っている。
クララとレーチェルは、それを見守っていたが、不意に自分たちの周りだけ音が聞こえないことに気がついた。
どういうことかと周りをキョロキョロと見回すと、いつの間にか女神レスフィーナがそこにいた。
「女神様!」
クララの声にレスフィーナが答える。
「神気結界で、周りには見えないし、気づかれないし、聞こえなくなってるわ。
こうすればゆっくり話せるでしょ。もっとも私はもういかないとだけどね」
「女神様、私たちに用とはなんでしょうか?」
「ええ、そんなに大したことではないの。あの子のことよ」
「おねえさまのことですの?」
「そう、美羽ちゃんの境遇のことは知っているわね」
「「はい」」
「あの子はまだこの世界に来て1ヶ月くらいしか経ってないの。
そして、父親に殺されかけたり、信頼していた大人に性的暴行を受けたり、最愛の母や妹を失ったのも、全て2ヶ月以内で起きているの」
「「……」」
クララとレーチェルは自分のことのように悔しそうで悲しそうな顔をする。
「元来、あの子は心がすごく優しい子なのよ。それはわかるでしょ」
「「はい」」
「でもね、優しいからこそ、あの子は弱い。母親の死や妹の死に耐えられない。妹の死は自分のせいだと思っているし。
それに、美羽ちゃんの父親の賢治の暴行や柏原の性的暴行も心に重くのしかかっている」
そこで、クララは言い返す。
「お言葉ですが、ミウちゃんは最近は吹っ切れたように笑顔を見せてくれますし、特定の男の人とは話すようにもなっているようですが」
「そうね、やっぱりあなたたちはよく見ているのね。
美羽ちゃんが最近よく笑ったり、特定の男の人とは話せるようになってきているのは、神気が緩やかに美羽ちゃんの心を癒やし続けているからなの。
でも、美羽ちゃんの心のために神気での根本解決はできないようにしてあるの。
自分の力で乗り越えれば、美羽ちゃんの心は強くなるから」
「でも、このまましんきがあれば、おねえさまはもんだいなく、いられるようにみえますが」
「ええ、そうよ。神気があればね」
レスフィーナの含みを持たせた言い方にクララとレーチェルは顔を固くする。
「神気が……無くなるのですか?」
「分からないわ。私の力でも読めないことが起きそうなの」
「読めないこと?」
「ええ、近いうちにこの辺りで何かが起きそうなの。
私が読めないということは美羽ちゃんの神気も発動していない可能性が高いわ。
それでどうなるか分からないけれど、一時的に神気が使えなくなる可能性もあるの」
クララとレーチェルは神気が使えなくなるという言葉にますます顔を強張らせる。
「使えないとどうなるのですか?」
「治癒や神気結界や女神の手などの神術が使えなくなるわ。
でも、それよりも、美羽ちゃんの最愛の家族を失ったことや過去のトラウマが吹き出して、心が耐えられないかもしれないの。
人に近づくことを極端に恐れたり、無力感から何もできなくなったりすると思うわ」
「「……」」
クララとレーチェルが俯く。
美羽のそんな姿など見たくない。美羽を悲しませたくない。そう思った。
そんな二人の思考を読んで、女神は微笑む。
「やっぱりあなたたちに話して正解だったわ。
その時に、あなたたちには美羽ちゃんを支えてもらいたいのよ」
クララとレーチェルは俯いた顔を上げ見合わせる。
その顔は決意に満ちている。
そして、さも当然のように女神に答える。
「失礼ですが、そんな事とっくに決めています」
「そうですわ。わたしはよわいですが、それでもおねえさまを、なにをしてでもおまもりしますわ」
「私たちは守り守られることを決めたのですから」
それを聞いたレスフィーナは優しい笑顔になった。
「そうだったわね。あなたたちがいれば安心ね。私が過保護だったかもしれないわ」
「おやくそくいたしますわ。かならずおねえさまはわたしたちがおまもりします」
笑顔でいうレーチェルの額にはうっすらと脂汗が滲んでいた。
クララが、レスフィーナに疑問に思ったことを聞く。クララも額から汗を流していた。
「それにしても、女神様が分からない未来なんてなにが起こるのでしょうか?」
「私が読めないことはだいたい決まっているわ。それは……ああ、レーチェル。限界ね」
レーチェルが膝をついていた。
「レーチェル!」
「大丈夫、私の神気に当てられているだけだから。私がいなくなれば治るわ。あなたもね。
それじゃあね。美羽ちゃんをよろしく」
レスフィーナは霞のように消えていった。
それと同時に周囲の雑音……美羽の歌声に熱狂した人々の声が聞こえてきた。
その中で、美羽の美しい歌声が一際目立って聞こえてくる。
もうアンコールの1曲も終盤のようだった。
レーチェルはすぐに立ち上がれるようになった。
クララも一安心する。
「それにしても、女神様が読めないことって、なんだろう」
クララの呟きは熱気と歓声の中に消えていった。
ライブ終了後の舞台。
聴衆たちは、硬貨をいつもの逆さまにした帽子の中に入れて帰っていった。
「儲かった! 儲かった! えへへ」
帽子の中の硬貨を見て、喜んでいる美羽のもとにマティアスが来た。
「君、このルナーレを貰ってくれないか?」
「え? これはあなたが一生懸命に作ったものでしょ。受け取れないわ」
「いや、これは君の歌に惚れ込んで作ったと言ったろ。君のために作ったんだ。
今日は試奏のためだったんだよ。十二分の完成度とわかった。だから君に貰ってほしい」
「……いいの?」
「貰ってくれないと困る」
「でも、私、弾けないよ」
「引き方は教えるよ。私の工房に来てくれるかい?」
美羽が上目遣いで聞く。
「変なことしない?」
「し、しないよ! だいたい君はまだ小さいだろう。何かするわけがない」
「そういう大人もいるんだよ」
「そ、そうか。それは許せない。そんな奴はぶっ飛ばしてやる。
でも安心してくれ。私は誓ってそんなことをしない」
「分かった。信じる」
「じゃあ、貰ってくれるんだね」
「うん、貰う」
美羽はルナーレを受け取った。
そして、ルナーレをまじまじと見つめると、花の開いたような笑顔になって言った。
「ありがとう!」
その笑顔にマティアスの顔が思わず赤くなる。
「ど、どういたしまして」
(変なことする大人が出るのもありうるのかもしれない……私は、自分をぶっ飛ばしたい)
マティアスはそんなことをするような大人にはならないと決心したのだった。
美羽がルナーレを収納リングに入れたのを見て、ロンドが話しかけてきた。
「嬢ちゃん、このカダレスももらってくれないかい? 指輪に入れていれば邪魔にならないだろう」
「え? いいの??」
「ああ、嬢ちゃんがそのうちこのカダレスを任せられそうなやつに出会えば、使わせてやればいい。
これは俺の作品の中でも一番の品だ。今日のお礼と、それと嬢ちゃんが歌でもっと羽ばたいてほしいからな」
「そんな大事なものを私に……、ありがとう。嬉しい」
「使い方は工房に来てくれたら教えてやる。いつでも来てくれ」
そう言って、ロンドはカダレスを置いて、さっさと帰ってしまった。
「あ、ロンド。工房の場所知らないのに……」
「ああ、ロンドの工房は俺の工房の隣だ。それで、これが俺の工房」
マティアスが地図を書いた紙切れを渡してきた。
「ここにきてくれ。君ならいつでも歓迎する。それじゃあな」
そう言って、マティアスも帰って行った。
「おねえさま」
「ミウちゃん」
ちょうど一人になったタイミングでクララとレーチェルが来た。
「あ、二人とも。ありがとうね。どうだった?」
「最高だったわ。桜の花の演出も素敵だったし、女神様とミウちゃんの声が素敵すぎて」
「そうですわ。ほんとうになにもかもがうつくしかったですわ」
美羽は嬉しそうに笑う。
「二人がそう喜んでくれて嬉しい。あ、ねえ、私お腹すいちゃった」
「そうね、私もよ」
「わたしもですわ」
「じゃあ、食べに行かない? 昨日シアとアミと一緒に行ったオープンカフェがなかなか良かったの。
そこに行こうよ?」
「賛成!」
「いきたいですわ」
3人は腕を組んで、押し合ったり引き合ったり、笑ったりじゃれ合いながら広場を後にした。




