第3話 ローズクウォーツ
「美羽さーん、ちょっとついてきてくれるかな?」
「はい」
金魚ちょうちん祭りから1ヶ月ほど経った頃、美羽は保育園の保育士、柏原という青年に呼ばれてついていった。
美羽は柏原が好きだし信頼していた。
純粋にかっこいいということもある。
だが、いつも優しい笑顔で見ていてくれるのが、うれしい。
同じくらいの歳の父親のあの恐ろしい顔と比べたら、天使様だと思う。
よく抱っこをしてくれたり、着替えを手伝ってくれたりする。
すごく丁寧な手つきに安心する。
美羽に特別優しくしてくれる気がする。
柏原が美羽に尽くしてくれるので、美羽は柏原によく懐いていた。
だから、何も心配なく柏原の言う通りに呼ばれた部屋に入った。
カチャリ
鍵を閉めた音がした。
しかし、美羽にはなんの音か分からなかった。
「美羽さん。美羽さんが元気か確認するから見せて。健康診断って言うんだよ」
「え、はずかしいよ、かしわばらさん」
「でもそうじゃないと元気か見れないんだよ。ほら、早く」
「うん、わかった」
美羽は、柏原の優しい笑顔に釣られて、言われた通りにした。
柏原は優しいから、自分のことを心配しているのだ。だから早く言われた通りにしないといけないと思って……。
柏原はニターと笑い、美羽の全身を眺める。
美羽の体についているあざを見てますます嬉しそうな顔になる。
「パパとママは美羽さんのことが嫌いなのかな?」
そう言って、お腹のあざにふれた。
「そんなことないよ。ママはとってもやさしいの」
「こんなにあざがあるのに?」
「これは……ころんだの」
「ふーん、そうなんだ。
パパにやられたんでしょ。言わなくてもいいよ」
言わなくていいと言われてほっとした。
「僕が美羽ちゃんのことを慰めてあげるからねぇ」
そう言うと、美羽の全身をくまなく触ってきた。
美羽は今まで感じたことのない不快さを感じていた。
柏原のしていることが、どういうことかわからないが、とにかくいけないことだと思った。
(なんでこんなことするの?)
美羽は次第に恐怖を感じながら、床を見る。
自分の服と柏原の服が散らばっていた。
柏原に変貌した悍ましいものが見えた。
柏原の目が手が体の動きが、何もかもが気持ち悪かった。
今まで好きだった柏原に嫌悪感を強く抱いた。
嫌悪感は恐怖も生み出した。
「かしわばらさん、やめて!」
「えー、君のためなんだよ。我慢してね」
柏原が、美羽が逃げないように抱きしめてきた。
柏原が密着する。
美羽の背筋がゾーッとした。
「いやあああああ」
「美羽さん、静かにしようねぇ」
美羽は大声を出した。
それを柏原が手で口を塞いだ。
恐怖が増す。逃げたくても逃げられない。
「うーうーうー」
それでも、美羽は叫んだ。
叫んでも叫んでも柏原の悍ましさは止まらない。
しばらく続き、ようやく満足したのか、柏原の手は止まり、その表情が恐ろしく歪んだ。
美羽にはそれが、美玲に隠れて暴力を振るう、賢治そっくりに見えて、恐怖は最高潮に達した。
「ううう」
「おい、美羽。このことはママや他の人には内緒だぞ。分かったな」
「ううう」
「もし、誰かに言ったら、お前の妹の美奈を酷い目に合わせてやるからな」
美羽の目からボロボロ涙が溢れてきた。
なんでこんな酷いことをするんだろうと思った。
柏原は続ける。
「俺が、お前たち姉妹を殺すことなんて簡単なんだぞ。絶対に言うなよ。言っても無駄だけどな。
お前の親は虐待するだけで守ってくれないからな。分かったか」
美羽は口を押さえられたままブンブンと頭を縦に振る。
「じゃあ、早く戻る準備しろ」
そこで、ようやく柏原の手から解放された。
「ふぐ、ふぐ。ふえーん」
美羽が泣き出すが、柏原が恐ろしい顔で釘をさす。
「泣くな。泣いているところを他の人に見られても、美奈が酷い目に遭うぞ」
「ヒ……」
美羽は無理やり泣き止んだ。
調子に乗った柏原はさらに言った。
「また呼ぶから来いよ。逃げたりしたら、美奈を酷い目に遭わせるぞ」
美羽はまた顔をブンブン縦に振るしかなかった。
解放された美羽は、呆然と歩きながらも誰とも関わりたくなくて、一人で園庭の隅っこに向かった。
柏原の顔が怖かった。触られた全身も気持ち悪かったし、怖かった。
また、呼ばれるのが怖かった。
美奈まで酷いことをされるかもしれないのが怖かった。
あんなに優しいと思っていた大人がまるで別人のように変わるのが怖かった。
怖い賢治も男だし、優しいと思っていたが本当は怖かった柏原も男だった。
美羽は男というものが怖いと思った。
(こわいよぉ……。でも、ないちゃダメなの。みなちゃんのためにがまんしないと)
一人で、壁際に座っていると、大好きな声が聞こえてきた。
「おねえちゃん、どうしたの?」
心配そうな顔をしている美奈だった。
一人でいる美羽を見つけてきたのだ。
「おねえちゃん、おなかいたいの?」
「だいじょうぶだよ」
「でも、なおしてあげるね。いたいのいたいのとんでいけー」
美奈の無邪気な優しさに触れると、我慢していた思いが溢れてくる。
「ふ、ぐ、ふぇーん」
(ダメ、ないちゃ。あいつにみられちゃう)
美羽は泣いてはいけないと思っていたのに泣いてしまった。
立っている美奈のお腹に顔を埋めて泣いた。
「おねえちゃん、だいじょうぶだよ」
美奈がいつも美玲にやってもらっているのを真似して、美羽の頭を優しく撫でた。
美奈が優しくてほっとして、余計に泣いてしまった。
「みなちゃーん。うえーん」
「おねえちゃん、いつもあーと」
「うえーん」
しばらく、美羽は泣き止むことができなかった。
泣きながら、美奈は自分が守らないとと、より強く思った。
その姿を女性の保育士が見ていた。
その保育士は、すぐに美羽に事情を聞いたが、美羽は答えなかった。
(いったら、みなちゃんがひどいめにあわされちゃう。わたしがみなちゃんをまもるの)
美羽からこれ以上聞き取ることはできないと判断した保育士は、美玲が迎えにきた時に事情を話した。
事情を聞いた美玲は、うちに帰った後、普段と同じように食事をし、美奈が寝た後、美羽に事情を聞いた。
しかし、美羽は一貫して何もなかったとしか言わない。
「美羽ちゃん。美羽ちゃんと美奈ちゃんは私が世界で一番大切な子たちなの。だから、何があっても必ず守るわ。
それを信じて欲しいの。何があったか話してくれる?」
美羽はそれを聞くと、ボロボロと泣きながら、喋り出す。
「ほんとうにほんとうにまもってくれる?」
「ええ、もちろんよ」
「わたしはいいからみなちゃんをまもってほしいの」
「美羽ちゃん、そんな悲しいこと言わないで。私は美羽ちゃんも大切よ。だから、美羽ちゃんも美奈ちゃんも守るわ。
約束よ」
「ふぐ、ふぐ」
「まず、いっぱい泣いちゃおうか」
「うえーん。マァマァー、こわかったよー」
泣くのを我慢していた美羽は、美玲に促されて思い切り泣いた。
美玲は泣き続ける我が子の背中を優しく撫で続けた。
泣き止んだ美羽は、今日あったことを話した。
それを聞いた美玲は賢治を床に押し付けた時くらい怒っていた。
(柏原。許さない! 美羽ちゃんにこんなことをしたこと、絶対後悔させてやるわ)
「美羽ちゃん、あとは任せておいてね。ここから先は大人の仕事だからね」
美羽は安心した。このままならなんとかしてくれると思った。
だからか、次の質問にも、自然に答えていた。
「美羽ちゃん、パパに殴られたりしてるかな?」
「うん、ママがいないときにわたしのことをなぐったりけったりしてくるの。かみのけひっぱってふりまわすの。
みなちゃんのことをわたしがまもるとわたしにそのぶんなぐってくるの。
ママにいったら、みんなころすっていうから、ママにはいえなかったの。でも、ママまもってくれる?」
「そうなのね。安心して、二人は私が守るからね。ごめんね、今まで気づいてあげられなくて」
「ううん、ママきづいてくれたよ。ママ、だいすき」
「私も大好きよ」
「ママ、わたし、おとこのひとこわいな。パパみたいにずっとこわいひともいるし、やさしいとおもったら、きもちわるいしこわいひともいるの。」
「そうね、明日保育園に行ったら、男の人は美羽ちゃんの担当から外すように言っておくから大丈夫よ。あの柏原はもう保育園には来ないだろうしね」
「よかった。わたしほいくえんでもほかのおとこのほいくしさんも、ほかのこのおとうさんもこわかったの。なにするかわからないから」
「ほんとうに怖かったわね。頑張ったわ」
そう言うと、美玲は首からペンダントを外す。
「ねえ、美羽ちゃん。今日はよく話してくれたわ。必ず守るからね。その証拠にこれをあげるわ。私がいつも守っているって信じてほしいの」
「それ、ママがたいせつにしているペンダント」
「そうよ。ローズクウォーツっていうの。石には意味があるんだけど、これは愛と健康と美しさよ。あなたにピッタリでしょ」
「そうなの? うれしいな」
「この石は、綺麗な桜色でしょ」
「うん」
「私の元の名前は小桜美玲っていうの」
「なまえにさくらがついているからさくらいろのいし?」
「そうよ。お仕事をするようになって初めての給料で買ったの。それから大切にしてるのよ」
「そんなママのたいせつ、いいの?」
「いいのよ。美羽ちゃんの力になってくれれば私は嬉しいわ。それに、あなたももう少しで小桜美羽になるわ」
「なんでわたしがこざくらみうになるの? わたしはおおやまみうでしょ」
「うん、パパとは別れることを決めたの。そうしたら、美羽ちゃんと美奈ちゃんも小桜ってなるわ」
「ほんとう?パパとはなれられるの?」
「ええ、もうすぐ安心できるからね」
「うん。こざくらってかわいいなまえだね」
「そうでしょ。だから、このペンダントは美羽ちゃんが持っていてね」
「うん! ありがとう。ママ」
「どういたしまして」
「ママ……。一緒に寝よ」
「いいわよ。3人で寝ましょうね」
「うん」
その夜は昼間に嫌なことがあったのに、幸せな気分で眠りについた。