灰色の世界
目を開けた時、教授の姿は消えていた。
つい先ほどまで、教授はずっと僕の隣にいた。でも、いま突然、スフィンクスと一緒に目の前からいなくなった。何が起こっているのか、暫く分からなかった。
「教授・・・何で」
僕は屋上の縁にむかって歩いた。
恐る恐る、屋上の外を見下ろす。さっきと同じように道路には車が走っていて、人間たちが歩いている。教授やスフィンクスがいまどこにいるのか全く分からなかった。僕は暫くその場に茫然とたちすくんでいた。現実が受け入れられなかった。
「あ、あの。一体、何が・・・」
今、目の前で起こったことの話をしたくても、肝心の教授は横にいなかった。
教授が横にいない。
たった、それだけで僕はもうどうすればいいのか全く分からなくなった。
思えば教授はいつも隣にいてくれた。
昔から僕は教授に甘えていた。沢山質問すると教授から褒められて、尻尾で撫でられるのが何よりも嬉しかった。教授の話は難しくて眠ってしまったことも沢山あったけど、質問することだけは忘れなかった。教授は僕が飛躍した質問するといつも困っていた。でも、最後、教授はありがとうと言ってくれた。逆に教えられたと言ってくれた。
教授はいつも何でも真摯に答えてくれた。
「これから、どうすれば・・・」
でも・・・今、教授は何も答えてくれない。
屋上をぐるりと見回した。どこかに隠れているのではないか、と隅々まで探し回った。
しかし、教授はどこにもいなかった。
勇気と無謀は違う。
教授が言っていた言葉をふと思い出す。
でも・・・でもね、教授。命は大切だって言ったのはあなたじゃないですか。何で、こんなことを・・・。溢れる思いが身体の内側から、ぐっとこみあげてくる。必死に抑え込んでいたが、もう止めることが出来なかった。
思わず鳴いてしまった。
僕は何て弱いのであろう。
教授がいなければ、何もできない。僕は僕だけでは何もできない。
何度も何度も鳴いてしまった。
でも、教授は戻ってきてくれなかった。
暫く鳴いた後、ふと空を見上げた。
空は、何故か灰色だった。さっきまで雲一つない青色だったのに。鴨川や遠くの山を見た。同じく灰色だった。そこで僕は初めて理解した。
心を失ったら、まず最初に色を失う。
僕は屋上から立ち去った。建物の階段を一つずつ降りていく。もう足がおぼつかなくて、時々、階段から転げ落ちた。でも、不思議と痛みはなかった。
特にどこに行こうというつもりはなかった。建物を出た後、僕はよろよろと四条河原町の駅を通り過ぎていた。あんなに興味があった電車でさえ、いまの僕にとっては灰色に見える。
行き交う人間、車、信号でさえも全部、灰色に見えた。教授は赤信号の時は横断歩道を渡ってはいけないと言っていたけど、既にその色が何なのか、分からなくなっていた。
よろよろと歩いていると轟音が聞こえる。もしかしたら、いま、僕は赤信号を渡っているのかもれない。でも、そんなことはどうでもいい。段々と、轟音さえも次第に聞こえなくなってきた。
色を失い、音もなくなってきた。
ああ、そうか。ついに耳も失うのか。
もしかしたら、もうすぐ僕は死ぬのだろう、何となく思った。だったら納得がいく。
どこかに行きたいというつもりはなかったが、自然と足は鴨川に向いていた。あんなに水のことが嫌いだったのに、いまはどこか知らないところに流されたいとさえ思っていた。
よろよろと歩き、何とか鴨川の河原にたどり着いた。
鴨川の水面は太陽の光で眩しいほど輝いていた。僕は思わず目を瞑った。いい加減、疲れた、もう横になろう。
僕は瞑ったまま黙っていた。もうどうでもいい、疲れた。このまま眠りたい。
『諦めるな。まだ終わっていない。いいか、よく聞くのだ・・・』
声が遠くなる。ずっと何者かが近くにいた雰囲気が急になくなった。
そう思った時、どこか見覚えのある景色が目に入ってきた。それは祇園へ行く前に教授、花音と夜を明かした場所だ。僕は鴨川を海だと言い張ったのに対して、教授は呆れていた。
たった数日前なのに、随分、昔のように感じる。
そういえば、あの時、教授は必死に自分の寝床をつくっていた。どうせなら、同じ場所で横になろうと思って探すとすぐに見つかった。まだ不自然に雑草が倒されている場所があったからだ。
ごろん、と横になる。もちろん、教授のぬくもりなどなかった。冷たい寝床でゆっくりと目を閉じた。
色々と思い出す。知恩院で僕たちは何もできなかった。五郎丸と出会い、祇園で京極様と会った。嵐山では天龍様や雲龍殿、オロチ殿とも出会った。
でも観音様を救えなかった。いま、僕は教授さえも失ってしまった。
ふと僕は呟いてしまった。
「教授・・・僕はこれからどうしたら、いいのですか?」
でも、肝心の教授は今、ここにはいない。




