観音様
僕は目を閉じていた。
一瞬、意識がとんでいて、つい過去の記憶に逃げていた。
ゆっくりと目を開く。
今、目の前の観音寺の様子が徐々に明らかになっていく。
まず目についたのは、敷地内を覆っていた、ススキが何箇所、いや何十箇所もなぎ倒されていたということ。
ゆっくりと近づくとなぎ倒されたススキと共に観音町の見覚えのある猫が横たわっていた。しかし、所々、身体から血が流れていて、ススキは赤く染まっていた。
みな、執拗に傷みつけられていて、簡単に動けぬよう手足の腱は切られている。中には言葉を発せられるぬよう喉まで切り裂かれている猫もいた。
「・・・ひどすぎる」
思わず、呟いてしまった。
オロチ、五郎丸、外資系、教授も同じ思いだったと思う。言葉は発しないが、毛は震えて怒りなのか恐怖なのか分からない不穏な空気が漂っていた。
「観音様!」
その時、花音が境内へと駆けて行った。
視線の先には、ふさふさとした鈍色の毛並みの猫が横たわっていた。
毛並みを見ただけで、明らかに観音様ということは分かった。
観音様の周囲には血だまりが出来ていた。観音様はうつぶせに倒れていて、前足、後ろ足が変な方向に曲がっていた。
きっと凄惨な暴力を受けたのだろう、僕でも想像できた。こんな悲惨なこと、これ以上、見ていられない。
僕は黙って目を閉じようとした。
「目を開けるんだ、山田電機君」
教授は察して声をかけてくれた。
「・・・私たちに今、出来ることは恐らく何もない。でも、目を逸らしてはいけない」
教授は珍しく声を荒げていた。
「今、ここで起こっていること。これから、起こることをあますことなく見るのだ。記憶をするのだ」
教授はじっと僕のことを見ていた。
「それが今、我々の役割なのだと思うのだよ」
教授の言葉に僕はかろうじて尻尾を振った。
確かに教授の言うことはもっともだ。心から賛同したい。でも、本心ではこの恐怖から逃れたい。それもまた事実だった。
その時、花音はすっと僕たちの間を縫って、横たわっている花音様の傍らに座った。
「・・・観音様」
何度も前足で観音様の身体を揺らすが、ごろんごろんとしているだけで、ただ観音様は無機質に揺れているだけだった。
「観音様・・・観音様」
花音は今までよりも強く揺さぶった。でも、観音様は、ただなすがままに揺れていた。
見ているだけでも辛くなってきた。
僕と教授は花音の傍に座った。
「花音・・・もう、観音様は」
「分かってる」
花音は、ぎっ、と僕と教授のことを睨んだ。
「許せないの」
花音は震えていた。
「徳川家は許せない。でも、何よりも自分が許せない。徳川家との交渉を任せれたのに、何もできなかった。天龍様やオロチ殿の助けを借りたのに、結局、何もできなかった」
花音の言葉は僕や教授にも突き刺さった、全く同感だ。
「私はこれまで何のために・・・」
僕たちは戦争を止めようとした。でも、結局何もできなくて、最悪の事態となった。
「・・・ごめんなさい、観音様」
花音の悲痛な叫びが観音寺の境内に響いた。
観音寺を覆う月の光が雲に覆われた。
その瞬間、世界は暗闇に包まれた。
オロチや五郎丸は傷を負った松虫を落ち着く場所に寝かせて、松虫の傷の処置を行っていた。
ただ、それ以外の猫はただ、花音の叫びを聞いていることしかできなかった。
花音は、ずっと動かない観音様に寄り添い、乱れた毛並みを少しずつ整えてあげていた。
まるでそれが観音様に対する贖罪かのように僕たちはそれを見ていることしか出来なかった。
徳川家との戦争の代償は、いま、目の前の現実だった。
その時、誰もが完全に戦意を喪失していたと思う。少なくとも僕はそうだった。
こんな悲しくて辛い思いをするなら・・・もう何もかもなかったことにするのが気が楽だ。
観音寺の敷地内にいる猫は、もはや自ら動くことを拒否しているような状態だった。
中にはまだ意識がある猫はいたが、この状況で立ち上がる気力はもうないようだった。
「観音様・・・観音様・・・」
花音は周りを気にすることなく、ただ同じ言葉をずっと呟いてた。
教授は僕たちの役割は、この出来事を見届けること、と言った。でも、何もできずに傍観していることほど辛いことはない。
僕は今、何かをしたい。花音のため、観音町のため・・・でも、何をすればいいのか分からない。それが一番辛い。
観音寺の敷地内は今、まるで沼のようだった。このままではダメだ。それは皆、同じく思っている。でもどうしていいのか分からない。だから何とか行動しようとする。しかし、それが逆効果となり、あがけばあがくほど沈んでいく。
どんどん深く深く沈んでいく・・・。




