桜
山を下りる時でもオロチは迷うことなく、最短経路を下っていった。猫は多少、夜目が効くとはいえ、少なくとも僕は周囲の景色、足元がどういう状況なのか認識することさえ出来なかった。
舗装されている道ではなく自然の山道をオロチはどんどんと進んでいった。少しでも足を取られれば転んでしまう。いや、時々、転んでしまったが、すぐに起き上がってオロチたちを追っていった。
僕たちは、文句を言わず必死に走り続けた。
オロチが運んでいる松虫は段々と呼吸の音が弱くなっていた。
普段は憎たらしいけど、こんなに小さい身体で戦って傷ついている姿を見ると、さすがの僕でも何とかしてあげたいと思えてくる。
「松虫殿、松虫殿・・・」
外資系はずっと声をかけていた。
そんなに意気投合していたのか。意外と外資系もいいところがあるのかもしれない。
しかし、僕たちはまだ一向に伏見稲荷の山から抜け出せずにいた。
「オロチ殿、観音町はまだ先なのですか?」
僕は思わず声をあげた。
オロチは松虫を咥えながら、道を探っていた。やがて、道なき道へと進路を変えて駆けていく。
その先は・・・建物二階分ぐらいの高さの崖だった。オロチは躊躇せずに跳んだ。僕たちもまた、引きずられるように跳んだ。
たった数秒の間だけだが、僕は空を飛んでいるような気がした。ふと顔をあげると月がいつもより近くに見える。このまま、ずっと遠くに飛んでいけるかもしれない、と思った瞬間に、激しく地面に打ちつけられた。猫の運動神経が成せる技のせいか、一瞬、衝撃に目が眩んだが、何とかそのまま走り続けることが出来た。
そのまま山を抜けるとオロチは道路をひたすら走り続けた。
段々と見慣れた道が目に入ってくる。
確か、この道は徳川家に行くときに、右京に乗せられて走った道だ。
つまり、観音町まで後、少しということだ。
その時、僕は何だか嫌な予感がした。
伏見稲荷では、エルフキャット、ボンベイ、メインクーンが僕たちのことを襲ってきた。しかし、恐らくは足止めだ。現に太陽が暮れたのが合図かのように、すっといなくなった。
徳川家の猫で、今回遭遇しなかったのはスフィンクス。もしかしたら、スフィンクスは単独で観音町に向かっていたのではないか。
「教授・・・すごく嫌な予感がするのです。あのスフィンクスがもしかして、今、観音町を・・・」
「ああ、私も同感だ」
教授は走りながら口を開いた。
「でも、いまはどうすることができない。私たちに出来ることは、少しでも早く観音町につくこと」
僕は走りながら、頷いた。
確かにその通りだ。少なくとも今、できることはそれぐらいだ。
段々と懐かしい景色が見えてきた。国道を曲がると商店街だ。ふと山田電機の主は元気であろうか、と頭によぎったが今はそれどころではない。商店街を抜けると観音寺の敷地まで、あと少しだ。
たった数日、離れていただけなのに、何だか随分と懐かしく感じた・・・。
観音寺の周囲はぼろぼろの石の塀に囲まれている。敷地内は手入れが行き届いておらず、雑草やススキが伸び放題だが、僕はそんな観音寺の雰囲気が大好きだった。
夏の暑い時は、伸びすぎた雑草は日陰となって休憩するには絶好の場所だ。
ススキは夏から秋にかけると、まるで猫の毛のようにふさふさとしてくる。太陽や月に照らされると、時間によっては別の生き物かのように色々な顔を見せてくれる。
寒い冬でも、観音寺のススキや雑草が生えている場所は暖かくて、その場所はいつも誰かの特等席だった。
春になると敷地内は桜という花が何だか偉そうに咲き誇っていた。
「桜って、何でこんなに偉そうなんですかね?」
一度、教授に聞いたことがある。
「私もよく分からないが、桜を見ると皆、ほんわかと機嫌がよくなる。だからめでたいものなのだろう」
「そういうものなのですかね」
僕は観音寺の境内に登って、桜の木を見上げた。いつもは寒々しい木が、桜の花びらをつけていると途端、偉そうに思えてくる。
ふと一枚の花びらが、ひらひらと落ちてきた。右へ左へと不安定に、ゆっくりと落ちてくる。何だか妙にイライラして僕は花びらに向かって跳んだ。
しかし、花びらはひらひら、ひらひら、と何事もなかったように僕をかわして、地面に落ちていった。




