いざ、知恩院
その夜、夢を見た。最近、何度も見ているおどろおどろしい夢だ。
人間たちが見たこともないモノを身にまとって鈍く光る細長い棒を振り回している。その棒は人間を切り裂いた。真っ赤な血が飛び散る。きっと猫の爪よりも鋭いモノなのだろう。僕は叫び声をあげて慌てて逃げた。山を越え、川を渡り、ひたすらに逃げ続けた。険しい山道では足がもつれ、冷たい川の水が靴を濡らした。それでも後ろを振り返ることなく、前へと進んだ。
やがて見慣れた景色が見えてきた。観音寺だ。いや、少し違うかもしれない。でも、月明りに照らされたススキの中にある建物は観音寺そのままだった。
僕は建物の中に入っていく。安心したせいか急に眠くなった。夢の中でまた寝るなんて、よく分からないけど段々と身体がずんと重くなっていく。
・・・どこからか、声が聞こえる。
元来、猫より犬の方が歴史は深い。日本人が犬と暮らしていたのは縄文時代と言われている。狩猟で生活をしていた縄文人は、犬と暮らし、家族として扱っていた。『日本書紀』にも犬は神として登場することから、人間にとって有用な存在と考えられていたことがわかる。また、犬は泳げることから時には海を渡り、勢力は世界各地に広がっている。
一方、猫が日本の歴史に登場するのは奈良時代から平安時代とされている。この時代、中国からさまざまな経典が海を渡って輸入されていたが、鼠が紙を食い荒らして、それを防ぐため、猫も一緒に連れてこられたというのが有力な説だ。猫は海を渡れないから、移動するにも人間頼みなのだ。猫は人間を利用した。しかし、人間もまた猫を利用した。気高く不思議な容姿の猫は人間から愛でられ、時には崇められることもあった。猫の『ご利益』を巡って人間同士が争うこともあったのだ。しろがねの猫の逸話は恐らくこの時期だと思われ・・・。
不思議な声だった。懐かしくもあり、はじめて聞くような声。その声に身を委ねているだけでいつまでも寝ていられる。しかし、次第に不思議な声と教授の声が混ざりあってきた。僕は、ハッと身を起こした。
「つまりだな。今はさいわい猫はペットとして地位を確立しているかもしれないが、犬よりも遅れをとっているのは歴史からみても事実なのだよ。って、聞いているのか、山田電機クン?」
僕はビクンと身体を震わせた。まずい、寝ていたのがバレたのか。恐る恐る様子を伺うが教授は話をするのに夢中で何も気づいていない。正直、ほとんど聞いてなかったが、最後の話だけは少し気になった。
「あの、さっきから何度か出てきた『海』って何ですか?」
「ああ、そうだな・・・とんでもなく広い、誰かの縄張りみたいなもんだ・・・色々な生き物が住んでいる恐ろしい場所、らしい」
「色々な生き物が住んでいる?」
いったいどんな場所なのだろう。よく想像ができなかった。想定外の質問だったのだろうか。教授は急に口をもごごもとさせた後、黙り込み不機嫌になったので、僕は慌てて尻尾を縦に振った。
知恩院の徳川家への選抜隊が結成された後、教授とは二日に一回は会っていた。教授発案の勉強会をするといって花音や外資系にも声をかけていたが、忙しいのか、面倒くさいのか、それとも別に理由があるのか分からないが、実質、教授による個別指導の場と化していた。外資系はともかく、花音が来ないと聞いて僕のやる気は、ほぼゼロに近かった。
しかし、教授は淡々と僕に講義を続けた。僕は眠気を押し殺して教授の講義を受け続けた。しかし、ただ聞いているだけでは身がもたない。
「では、なぜ今の日本は犬と猫は比較的良好な関係を築けているのでしょうか? 猫はまだしも犬がそれを続ける理由は皆無と思いますが?」
僕は無い知恵を絞って質問を頻繁にするように心がけていた。正直、話は難しく、だから何? という内容が大半だったが、聞きっぱなしは失礼にあたるし、何より何か言葉を発しないとすぐにでも寝てしまう自信がある。そんな苦し紛れの質問に教授は少し黙り込んで、ゴロゴロと喉を鳴らしていた。
やばい、ついに教授をキレさせてしまったかと焦ったが教授は思いのほか、上機嫌だった。
「うむ、今度はなかなかいい質問だ。実にいい・・・今までの講義が結実している感じがおおいにあるよ」
僕は教授に分かりやすく尻尾を振り、迎合しながら次の言葉を待った。
「そうなんだ。問題はそこなんだ。なぜ犬は我々に寛容なのか。合理的に考えると彼らにその理由はない・・・分かる?」
「たしかに・・・はい」
今は頷くしか選択肢がない。
「しかし、私の調査によると犬と猫はよく同盟を結んでいるんだ」
教授は珍しく髭をピクピクとさせていた。自分で自分に興奮している、たぶん、よほどこの話を誰かにしたかったのだろう。
「・・・それは何故に?」
教授から急かされるように質問した。
「そんな簡単なことも分からないのか君は、ったく」
と言いながら教授は早く解説をしたくてウズウズとしているようだった。
「だから教えてくださいって言ってるんですよ」
もったいぶる教授に、少しイライラした。
「そうだな。つまりは自然の摂理だ。犬は狩猟を生業とする。我々猫は、穀物を守る・・・つまり防御を生業とする。昔から生きるための範囲が異なる。こういうと分かるかな
「ええ、とても」
「だからそもそも、親和性は高いのだよ。昔から犬猫はうまく生業をわけていた。現代に話を置き換えよう。猫は家で飼える。小さいからな。一方、犬の飼育は人間にとって面倒がある。餌は大量に必要だし、散歩が必要など面倒は沢山。だから必然的に野良犬の割合は多くなる。その弱みに付け込んだのが我らが観音様なのだ」
「観音様が・・・?」
突然、観音様の名前が出てきて混乱した。教授の自慢の猫眼鏡の模様はいつもより斜め上に吊り上がっていた。すると後ろから声が聞こえた。
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