五郎丸
「あなた・・・五郎丸だよね。昔、京極様と一緒に観音町に来た時から、その毛並みは覚えている。確か、あの後、京極様の側近になったんだよね?」
五郎丸という猫は、花音の言葉に一瞬、緊張感を緩めた。額から垂れる長い毛を揺らして花音に近づいた。
「・・・花音か? 実に懐かしいな。今も観音町に?」
「ええ、実は困ったことになっていて。徳川家って当然知ってるよね?」
気のせいか、徳川家という言葉が出た途端、五郎丸の表情は再び、険しくなった。
「徳川家が観音町を狙っている。京極様に相談にのって頂きたくて・・・」
「京極様は今、ここにはおらぬ」
「では、いつお戻りに」
「・・・分からぬ」
「分からぬって・・・側近なのに?」
五郎丸は花音から目を逸らした。
「何があったの、教えて」
しかし、五郎丸は黙ったままだった。
「五郎丸・・・」
花音はじっと五郎丸を見つめた。五郎丸は観念してゆっくりと口を開いた。
「・・・京極様が祇園にいったまま帰ってこないのだ。一向に連絡がとれない」
「祇園といえば花街。多少羽目を外して遊んでいるだけでは?」
「それはない」
しかし、五郎丸はそれ以上、深く説明しようとはしなかった。
「一つ質問があります」
僕はすぐに思ったことを口にする。
「尻尾一振りで京都の一万匹の猫を動かせるという御方なら、それこそ今、その力を使った方がいいのではないでしょうか?」
五郎丸は額からは垂れ下がる毛並みを整えながら、淡々と応えた。
「それは出来ない」
「何で、ですか?」
「・・・その理由はいえぬ。だから私自身で解決しないといけないのだ」
何だかよく分からなくなってきた。困っているのに助けは求められない。京極様はどんな御方なのだろうか。その時、今まで寝てたのかと思うぐらい黙っていた教授がやっと口を開いた。
「だったら私たちがお手伝いしましょうか?」
五郎丸の髭がぴくっと動いた。
「何やら事情がある様子。見ず知らずの猫に頼めなくとも花音殿なら信用ができるのではないでしょうか?」
突然、話を振られたまた花音もまた話の要領を掴んでいないようだった。
「・・・何か考えがあるようだが、観音町の猫に何が出来るというのか?」
五郎丸は淡々とした口調だったが目つきは鋭く、まるで教授のことを値踏みするかのように黒目が小刻みに動いた。
「え、あの。それは・・・」
教授はまたもごもごとしてしまう。こういった重圧に弱いのだ。
「私たちも一緒に京極様を探す。その代わり、無事京極様を見つけたら、私たちのお願いを聞いてくれないかしら?」
花音の申し出に五郎丸は一瞬、驚いた表情をした。
「そこまでは約束できない」
「だったら一人でどうするつもり?」
「それは・・・」
「話を聞いてもらうだけでもいいの。協力を約束してほしいとまでは言っていない」
「いや、だからだな・・・」
どうやら五郎丸は花音には滅法弱いようだ。
花音は強引に話を進めた。
「じゃあ、決まりね。これから私たちは祇園に京極様を探しに行く。無事、ここまでお連れすることが出来たら、徳川家との件、とりあえず相談には乗ってもらうことでいいよね?」
五郎丸の表情は納得はしていなかったが、尻尾を大きく縦に揺らした。しぶしぶ了承してくれた、ということであろう。
その後、五郎丸は助走をつけて走ったと思ったら近くの木にあっという間に登り、木の枝からぴょんと撥ねて門を軽々しく越えていった。その鮮やかな動きに僕も教授も花音も、尻尾を動かすことすら忘れてぼおっと見ていた。しかし、僕はすぐに我に返った。肝心なことを聞くのを忘れていたからだ。
「ところで、教授。質問してもいいですか?」
「手短にな」
「さっきから話に出てくる『ギオン』とは何のことでしょうか? 京極様がわざわざ行くほど特別な場所なのですか?」
教授に代わって、花音が説明をしてくれた。
「簡単に言えば京都で古くから栄えている繁華街。高級な料亭が多くて、飼い猫もまた上品で綺麗な猫たちが多いのが特徴ね。祇園には京都で一番美しい猫がいると言われている。普通ならその姿を見ることすら叶わない」
「京都で一番美しい猫・・・」
思わず想像してしまう。美しい猫とは一体、どういう猫だろう。観音町で一番美しい猫は恐らく花音だ。僕は思ったことをそのまま口にしてしまった。
「観音町で一番綺麗な花音より美しいって、いったいどういう猫なのでしょうかね?」
「え、ちょっといきなり何いっているの。嫌だわ、もう」
花音は明らかに急にもぞもぞとして落ち着きがなくなった。
「いつもぼんやりしていると見せかけて、なかなかやるじゃないか、山田電機君」
「よく分からないけど、そんなに美しい猫ならすぐに見つかりそうですね」
「確かにそう思うのは無理ないわ。でも、祇園は思ったより、ややこしい場所なの」
花音はちらりと僕の方を見て、目が合ったら慌てて視線を外して説明してくれた。
「美しい猫ほど建物の奥に囲われて、目にすることは出来ない。まずは祇園の建物の中にどうやって潜り込むか、それが問題ね」
「そうこうしているうちに日も暮れそうだ。急いで走るか」
「え、また走るのですか?」
教授の言葉に思わず僕は声をあげてしまった。正直、僕の足腰は限界だ。
「そういえば、天音さんや右京や左京たちは、もう協力してくれないのでしょうか?」
彼らがいれば移動の苦労がないにも等しい。
心なしか花音はいつもより少しだけ優しく答えてくれた。
「ごめんね。天音との約束は、観音町からここまでだけの約束だったの。決して猫のいざこざに犬を介入させてはいけない。それが観音様が昔、つくった約束ごと。行きだけならまだしも徳川家との交渉がこじれたら天音たちもいざこざに巻き込むかもしれない。だから、これがギリギリの境界線だった・・・」
「それは妥当な判断だと思いますな」
「教授・・・」
教授はそれ以上、何もいうことはなかった。僕も大人しくした。これ以上走るのは正直ごめんだが教授には逆らえない。
「では、参りましょうか、祇園へ」
花音の力強い言葉に教授と僕は尻尾を振った。こうして僕たちは祇園へと向かった。
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