表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜明け  作者: 薬袋丞
1/5

 紡星歴七百八十八年、タインナケ地方。夜の帳が明ける前、老兵は静かに歩く。大きな旗を握りしめて。冷たい風にはためくその布切れは、嘗て清廉な白だった。


 戦場において降伏を意味する純白。それがいまや静かに滴り落ちる鮮血に染まり、深紅の闇へと変わり果てていた。絶望、執念、生き様と死に様の全てが溶け込んだかのように暗く、重い色。齢六十三を数える老いた男が、その年齢に見合わぬ引き締まった体で歩を進めるたび、空を斬るような音が響く。ふと、空を見上げる。


 空は未だ暗く、夜の名残を惜しむかのようにわずかな星がまばらに瞬いていた。畦道の泥濘は男の足を重たく引き留めるように粘り、踏みしめるたびに湿った音を立て、冷えた泥がじんわりと彼の靴を侵していく。だが、男はそれに構う素振りも見せず、ただ前に向き直った。


 目線の先には、小高い丘の上に広がる駐屯地。月明かりに照らされたテントの群れ、その隙間を行き交う人の群れ。見張り台に揺れる幾つもの影と、わずかに聞こえる兵士たちの声が、静寂の中に微かな緊張を生んでいた。男の視界に映るそれらは、しかし何の感慨も呼び起こさない。ただの目指すべき場所でしかなかったから。


「おいっ、止まれ! 貴様……何者だ。所属は何処か!?」


 男を視認した見張りの兵が怒号を飛ばした。気付けばかなり近づいていたのか、駐屯地のざわめきが遠くから聞こえてくる。兵士たちの声、警鐘の音、それに応じて揺れる炎の光。それらが夜の静寂を塗りつぶしていく中で、男はひとつ深い息を吐いた。長かった。ここまで来るのに、どれだけの時間が必要だっただろう。あの日から、今日のことだけを心の支えにして生きてきた。そのために失ったもの、そのために捨てたもの。数え切れないほどの犠牲がこの道に積み重なっている。男の手の中で旗が微かに震えた。指先にこびりつく血の感触。振り返らないと決めた。あの日からどれだけ悔いがあろうと、この道を歩み続けると誓ったのだ。


「もう少し……」


 低く呟いた声は、自分に言い聞かせるようだった。そう、もう少しで全てが終わる。もう少しで、鎮められる。そして――胸の奥に浮かぶのは、かつての家族の面影だった。妻の微笑み。子供の手。過去に置き去りにした幸せの残響が、浮かんでは闇の中に溶けていく。彼はその幻に手を伸ばそうとはしなかった。ただ、そこに浮かぶ彼らの顔を目に焼き付けるように、静かに瞼を閉じるだけで。


「ニール、急いで食べると喉に詰まるわよ」


 カイエ村の朝は静寂に包まれていた。鳥の囀りが木立をくぐり抜け、小川のせせらぎが遠くから穏やかに響く。その静けさの中、台所から聞こえるファランの声が、家の中に温もりを添えていた。彼女は朝食のパンを手際よく切り分け、ふと息子に目を向ける。


 ファランは寡黙な女だった。しかし、その佇まいには確かな芯の強さがあり、彼女の動きの一つひとつに迷いがない。料理をする手つきは熟練の職人のように滑らかで、家事をこなす姿はどこか誇らしげですらあった。時折浮かぶ微笑みには、家族への深い愛情が滲み出ている。


 そんな彼女を見つめながら、男は何度目かの感慨にふける。「自分には過ぎた存在だ」と。その思いは、いつも胸の奥で暖かな重みとなっていた。そして視線はふと少年へと移る。息子のニールは陽気で無邪気なものだった。今日も狩りに出かけるという期待に顔を輝かせ、パンを勢いよく頬張っている。その瞳は純粋な喜びに満ちており、食卓に座る彼の姿は、まるでこの家の生命力そのもののようだった。ニールが母を見上げる。その視線には、子どもが持つ無垢な尊敬と愛情が溢れていた。


「いいんだ、母さん! 今日は父さんと狩りに行くんだから。お腹を空かせたままじゃ狼に笑われちゃうよ!」

「……笑われるかどうかはお前の腕次第だ。しっかり準備しておけ」


 男はテーブルに腰を据えたまま、スープをゆっくりと口に運んでいた。その姿には長年の戦場経験が刻んだ重みと冷静さが漂っていて、短い言葉で応じた口調には信頼とわずかな戒めが込められていた。決して多くを語らない。だが、その一言一言が、子を導く確かな柱となっている。


 ファランがテーブルの片付けを進めながら、「日暮れまでには戻ってきて」と穏やかに促した。その声は、ただの注意ではない。彼を気遣いながらも、背中を押すような優しさを感じさせる。男は短く頷くだけで彼女に応えていた。言葉はなかったが、二人にはそれで十分だった。ニールはそんな二人を気にも留めず、獲物への期待に胸を膨らませている様子で、少年の顔には父と共に過ごす時間が何よりの喜びであることがはっきりと浮かび上がっている。小さな手でナイフを握り、その瞳を輝かせながら狩りへの準備を始める姿は、紛れもない純粋さと勇敢さを象徴しているようだった。


「父さん、今日は僕も弓を使っていい?」

「そうだな、そろそろ試してもいい頃合いだろう。だが、気を抜くんじゃないぞ」

「もちろんさ!」


 それから二人は狩りへと赴き、暫し芳醇な山の香りを楽しんだ。小さな足音が枯葉を踏みしめるたび、乾いた音が静かな森に響いては吸い込まれていく。男と息子は、草むらを掻き分けながら山の麓へと進む。周囲には背の高い木々が連なり、濃い緑の影が昼間の陽光を遮っている。耳を澄ませば、風に揺れる枝葉の音に混じって、かすかな足音――いや、蹄音が聞こえていた。ふと、男が立ち止まって顔をわずかに上げると、音が聞こえるその方向を指差しながら、視線でニールに合図を送った。ニールは喉を鳴らしながら小さく頷き、そっとしゃがみ込んで息を潜め、音の先を見据える。やがて、木々の間から姿を現したのは、一匹の立派な鹿だった。


 ニールの胸が高鳴る。目の前にいるのは、自分が仕留めるべき獲物。父の背中を追い続けてきた自分の技量が試される瞬間だ。彼はゆっくりと弓を引いた。手が微かに震え、指先が弦を引き絞る力に負けそうになるが、ニールは必死に耐える。だが、その緊張が仇となったのか、不審を感じ取ったかのように鹿が耳をピクピクと動かした。それを見たニールは焦りから矢を放つが、その矢は鹿の脇を掠め遠くの木に突き刺さってしまう。音に驚いた鹿は一瞬だけ体を震わせると、脱兎の如く全速力で逃げていった。


「ああっ……くそっ!」


 悔しさを漏らすニールの肩に、男が手を置いた。短く頷き、言葉なく前を促す。少年は逃げていく鹿を追いながら、心を落ち着けるように新たな矢を取り出した。暫く散策したのち、茂みの向こうで静かに水を飲む鹿の姿を捉える。その瞬間、男は矢を構えず、後ろに立つニールに視線を送るだけだった。顎を引く合図を受けて、少年は弓を滑らかに引き絞り、今度は迷わずに放つ。矢が命中し、短い悲鳴を残して鹿が倒れると、静寂の中にその音が深く響いた。


「やった!父さん、やったよ!」


 叫ぶや否や、ニールは息をつく間もなく走り出す。自分が仕留めた獲物を前にしたその顔は、興奮と誇らしさで輝いていた。すぐに父に教わった通りに解体を始める。動きはまだぎこちないが、その手つきには確かな成長の兆しがあった。


 男は少し離れた場所でその姿を静かに見守っていた。解体を終えたニールが顔を上げる。その表情には、無邪気さとどこか大人びた決意、そして父への憧れが入り混じっている。それを見て、男は短く頷いた。胸に広がるのは、深い安堵と誇りだった。


「僕、いつか父さんみたいな軍人になるよ。強くて、みんなに頼られる立派な軍人に」


 男はその言葉を聞き一瞬だけ動きを止めた。視線を下ろすと、ニールの瞳に自分の姿が映し出されているのがわかる。男は短く息を吐き、慎重に言葉を選ぶようにして答えた。


「簡単な道ではない――強いだけでは務まらん。覚悟と責任、そして何より……大切なものを守る強い意思が必要だ」


 男の言葉に、少年は真剣な顔で頷いた。その姿を見ながら、男は内心で何か温かいものが湧き上がるのを感じていたが、それを言葉にすることはしなかった。ただ、手を伸ばして少年の頭を軽く撫でると、口の端を僅かに上げて言う。


「よくやった」


 既に一線を退いたとはいえ、元軍人らしく労いの言葉は短い。ただ、それでもニールは嬉しそうに笑い、肩に担いだ獲物を見せびらかすようにして歩き出した。男はその背中を少し見つめてから、周囲を警戒しつつ帰り支度を始める。山道を下る頃には日が傾き始めていて、西の空は赤く染まり、木々の影が足元を覆い尽くしていた。狩りを終えた親子は肩に獲物を担いで家路を急ぐ。道の先に見える夕日の光が、二人の影を際立たせていた。


 玄関の扉を開けると、台所から立ち上る湯気とともに、パンを焼く香ばしい香りが迎えてくれた。息子ニールは、その匂いに鼻をひくつかせながら荷物を下ろす。家の中は明かりがともり、外の冷たい空気とは打って変わって、穏やかな温もりに満ちていた。


「おかえりなさい。……まぁ、立派な鹿ね。大金星を挙げたのは誰かしら?」


 台所からファランの声が聞こえた。振り返ると、エプロン姿の彼女が手を止めてこちらを見ながら歩み寄ってくる。そっと膝をついて獲物を観察する彼女の表情は、驚きと感心が入り混じったような顔つきだったが、鹿の角の形や大きさをじっと見つめるその瞳はだんだんと、どこか誇らしげな色を宿していった。


「僕が仕留めたんだ! ほんとだよ、父さんだって見てた!」


 ニールが力強く言い放ったその言葉は、彼がどれほどこの瞬間を誇りに思っているかを物語っていた。初めて自分の力で成し遂げた狩り、その成果をこうして家族に報告することに、少年は興奮を隠せない。男は背後で黙ってそのやり取りを見守っていた。その表情にはわずかな満足感が浮かんでいる。ファランが鹿をもう一度見てから立ち上がり、男に短い視線を送った。その目には何かを確かめるような色がある。男は察したように笑うと、息子の肩に両手を乗せて妻に言った。


「ニールの手柄だ。私は見ていただけだった」

「そう……あなたが見守ってくれていたのね」


 ファランは振り返り、男に視線を送る。男はやはり、その目に静かに頷き返しただけだった。彼女は再び息子に向き直ると、にこりと笑みを浮かべ台所へと戻っていく。相も変わらず互いに交わした言葉は少なかったが、そこには息子の成長をともに喜ぶ気持ちが確かに込められていた。


 夕食の準備が整うと、家族三人がテーブルを囲んだ。ニールは父と母の間で、今日の狩りの話を興奮気味に語り続ける。時には大げさに手を振り回し、父の指示でどうやって鹿に近づいたか、弓を引いた瞬間の緊張感などを繰り返し話した。その様子にファランは時折微笑みながら耳を傾け、男は静かに頷いて相槌を打つ。


「父さんが後ろでじっと見ててさ、すっごく緊張したんだ。だから一回外しちゃって……でも僕、二回目でちゃんと当てたんだよ!」


 ニールはパンを片手に話を続けながら、もう片方の手を何度も振り上げる。勢いに押されたパン屑がテーブルに散らばるのもお構いなしで、少年の目は誇りに輝いていた。


「ほらほら、零れてる」


 ファランが笑いながらそう言うと、ニールはさらに胸を張った。その姿は、まだ幼さの残る少年でありながら、大人への階段を一歩上がったばかりの誇り高い表情をしていた。男はそんな二人を静かに見つめる。皿に手を伸ばしながらも、その心はどこか安堵と幸福に満ちていた。息子の成長を見守るこの瞬間、家族の笑顔が揃うこの時間が、彼にとって何よりも大切だった。戦場で過ごした日々の記憶は、ここではただ遠い夢のように霞んでいく。食後にも会話は続き、ニールの声が絶え間なく響き、それに応える母の柔らかな声と、父の時折交える短い返事。その音が重なり、家族の穏やかな時間が流れていく。


 だが――。


 その時間が、永遠に続くものだと思っていた。家族の団らんが、変わらずに明日も明後日も訪れると信じていた。あの日までは。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ