ツールーPCと辞書のはなしー
今日は物語の中身でなくて、創作道具の話。
僕が気になる二つのツールの話。ひとつは電子辞書。もうひとつは当たり前だがPCだ。
少し前になるがPCをようやく「変えた」。「買えた」とも言える(買うことができたという意味だ。まだ現時点では正式に全部僕のものではないけどね)。最近までWindows10が終いになってからも、旧式のPCをしばらく使っていたのだが、とても申し訳なさと劣等感のなかで使い続けていた。
その古いPCはもともとWindows7だったものでやっとこさWindows10が動いていたような環境だった。なのでWindows11などインストールするのは無理だった。しかも恐ろしいのはハードの操作関連、PCのポインターを動かすタッチパッド付近(横や上下なのでタッチパッドそのものではない)で、知らずに軽く服の袖などが接触しまうだけで、画面上のポインターやカーソルが磁石で反発するようにどっかに飛んで行ってしまうような代物だった。製品上の仕様なのか、個体差なのかは不明である。
また漢字変換の際に、画面上の変換候補リストで自分が選択、変換したと思って、選んだ候補の単語に合わせてenterkeyを押す。そして実際に変換されたの見届けたのに、なぜか次にそのファイルを立ち上げると、二番目、三番目にあった候補の漢字に変換されいるということも多かった。正直泣かされた(笑)。それでも「バカほどかわいい」という感情なのかな? きわめて合理的とは思えない愛着心と懐事情で使い続けていたが、Windows10のサポート終了もあり、思い切って少し前にマシンを変えるにいたったのだ。
新しいマシン(といってもセカンドハンズである)は快適だ。二万円台後半でこんなに快適なマシンに出会えて満足である。僕のせいではない、原因不明のおかしな動きも、謎のミスタッチもなく(笑)、書き物がスムーズに仕上がっている。しかも駆動ドライブ類がないのですごく小さくて軽い。パッドやタブレット端末並みの仕様で、軽量化、小型化の面でも大変気に入っている。何よりもきれいなのが画面で、見やすいのだ。最近はいつも一緒で仲良しである。このところの僕の仕上げている執筆作品数を見ていただければ、使いやすさがその進捗具合でわかるだろう。あとは長持ちしてくれることが願いである。
そんなわけで最近は道具を変えたことが起因で、書き物作業が捗っているというわけだ。道具ってすごく大切なんだなという改めての実感である。かつて専用ワープロ機に執筆装置を変えた時は、手書きの原稿と比べていたので、それはもう画期的な変化だった。
そして八十年代の終わり、エプソン機、PC486でのМSーDOSと一太郎、九十年代半ばからMacのPerforma、powerMacというマックユーザー時代を経て、2000年前後Macminiを使い始めたころと同時にWindowsMeやWindows7あたりからWordとWindowsに乗り替えて、今に至るのだ。今もMacはたまに使うこともあるが、完全にWindowsの出番が九割以上である。
もうひとつの道具、電子辞書。「今更感」は否めないだろう。でもネット環境に依存しない存在は、結構僕の中で重要だ。それに凡例の多さも助かっている。こちらももとをただせば、角川の『国語辞書』と岩波の『広辞苑』を使っていた。これ一台でかのサイズの辞書が持ち運べるのだ。画期的である。マルチタスクPCで、原稿の傍ら、ネット上の辞書を開くことももちろん可能だが、画面上にいくつも窓が開くのは狭くなるし、なにより見づらい。仕方なく使うこともあるが、電子辞書を持っているときはこっちを優先する。
英和のほうは、僕は習い始めが三省堂の『コンサイス』。あの当時の定番だった。大学受験は学研の『アンカー』。受験に必要な例文やソートに工夫がなされていた。大学院では中辞典レベルが必要だったので小学館の『プログレッシブ』。僕のようにどんくさい人には、『プログレッシブ』の語彙の多さと見た目の素人に優しい編集、単語の歴史(借用語や変化のルール)や変遷までを教えてくれるこの辞書は素晴らしかった。まあこんな素晴らしい辞書を使いこなせていたか、といえば、さほどではないのも僕のウイークポイントである。そこはご愛敬。
困っているのは電子辞書も最近一台が天命を全うした。二台体制だったのが、稼働できるものは一台になっている。部屋の机上用と持ち運び用にどうしても二台は必要だ。まあ、折を見て中古か、型落ち品、セールで安くなったものなどを探してみよう。電化製品ゆえ入れ替え時期が来るのは必須の運命である。
そんなわけで道具の大切さが痛み入る今日この頃というわけだ。のび太君ではないが道具がないと生きていけないというのも事実である。もちろん彼のアテにしている道具は実在しないが、うらやましくは思う。ではまた。




