ハッピーエンドとバッドエンド
今回は馴染みある章タイトルなので僕もありがたい。「ハッピーエンドとバッドエンド」だ。
巷でよく聞くどっちが好きという話は会話のネタにいいのだが、たぶん僕にとっては意味が無い。
「ハッピーエンドばかりでつまらない」という声や「胸くそ悪くなるからバッドエンドの物語は目にしない」なんて声もある。二極化の意見ってどの世界でも両極端で、必ず割れる。王道な評価が付く一方で意見をまとめづらい。
陽キャと陰キャとか、体育会系と文化部系、文科系と理科系、保守系と革新系。これらの中身を吟味しようとしても共通点などないのだ。これらからも分かる通り、ほぼ比べることに大きな意味ない。だって中身が全然違うから比較のしようもないし、僕のような物語をつくる人間には無意味だ。
じゃあハッピーエンドとバッドエンドをプロットや世界観が一緒ならどっちも面白くなるのか、というどうでも良い話。これもケースバイケースで、まとまった理論めいたモノなどあまり意味が無い。どちらが好まれる筋書きか、というだけのことだ。
それは例えばハッピーエンドが似合う話の場合。ヒーローが大活躍をする物語は、勧善懲悪でスカッとするからというモノが多い。これはハリウッド映画や時代劇などによく見られる。お姫様や領民を助けてめでたしめでたしの中身だ。ヒーローが倒されちゃったら「金返せ」と言われかねない。少なくとも僕は返却して欲しい派だ(笑)。スーパーマンも、水戸黄門も、ジェダイの騎士も最後には勝ってハッピーエンドだから喜んでお金を払って観るのである。
次は事が何故か主人公の願うように運んで「良かったね」の共感を得るパターンだ。この類いはテレビドラマや少女マンガの物語でよく見たな。たいした努力もせずに友人や知人がおせっかいを焼いたり、たまたま状況が主人公に有利なほうに好転してミラクル級の漁夫の利を得るという流れが多い。挙げ句の果てには、やらなくても出来てしまう天才に設定をして主人公の都合の良いように物語が進む。最近ではこのパターンを「ご都合主義」と言うらしいので軽く触れておこう。
だって普通に考えて野田恵(『のだめカンタービレ』)は王子さまと言われる千秋真一君と恋人になれるレベルの生活をしているかという疑問だ。たしか部屋がゴミ屋敷だったよな? この時点で僕は嫌だ(笑)。またこれは黒沼爽子(『君に届け!』)だって一緒だ。怪奇現象に周りからどん引きされている女性が、超一級の男性をつり上げるという快挙。人生が三度回っても超弩級ミラクルが起きないとあり得ない事態だ。しかも超絶美少女の胡桃沢梅を打ち負かしてなのだ。同様に花村紅緒(『はいからさんが通る』)だって店の中での喧嘩に、許嫁の家中を引っかき回してドタバタをする迷惑人間だ。友人の環だって彼女には迷惑かけられまくりである。しかも最後には環の愛しの君だった少尉は取られるし、あっちこっちでしっちゃかめっちゃかである。キャッチ通りの波瀾万丈は確かにその通りで、全くもってそうだろう。まあ、物語の中でちゃんと共感が得られるので、楽しいから許してしまうのだが、冷静に考えたときに、とか、実際にこんな人が自分の近くにいたら僕は近づきません(笑)。
でもそんなリアリティの中に彼女たちを置くのではなくて、プロット上の物語の中の彼女たちに視点を変えてみる。そう、ノダメちゃんも、紅緒さんも、爽子ちゃんも王子様に見初められてカップルになれるから、応援したくなるキャラだ。だから続きを見たいと思うのである。職業で描いている作者の方々の素晴らしさはここにある。もし彼女たちが振られて陰キャ引きこもり生活で、家でゲームをやってばかりの最終回だったら、嫌な気分で読む気が失せるというものだ(笑)。それこそバッドエンドになる。
ちょっと昔の生真面目な話になる。
説話などにおいてハッピーエンドもバッドエンドもおおよそは教訓である。こういうことをすると幸せになれるよ、とか、悪事をはたらくとこんな酷いバツや結果が待っているよ、なんていう戒めや奨励から説話の主題の多くは来ている。まあ、説話自体が宗教観の世界を一般民衆に分かり易く言語化や文章化などをしたものなのであるから、目的を考えれば当然と言えば当然なのだ。これは現代の小説とは目的が違う。創作と言うよりも教訓がメインになる。なので著作者なる創った人のことなどさほど気にせず、小説ほどそこを重要視しない場合が多い。
一方の現代では作者は大切だ。実際、僕は筒井康隆さんの名前を本屋などで背表紙で見つけてしまうと、購入するかどうかは別としてとりあえず手には取る。これは東野圭吾さん、阿刀田高さんなんかも同じだ。本好きにはお気に入りの作家というのは必ずいるのである。
次は感情としてのハッピーエンドとバッドエンド。多分この角度からの考察は読み手の気持ちに近い。まずは最初の例からだ。映画版の『銀河鉄道999』はバッドエンドともハッピーエンドとも考えられる。「なんだそれ」って思う方は二面性で考えて見よう。
恋愛作品としてはバッドエンドだが、勧善懲悪としてはハッピーエンドなのだ。鉄郎とメーテルは結ばれない運命である。でも機械化母星の破壊は成功する。このパターンって、よく鑑賞視点の目安として言われるのが物語の中で「誰が得をして、誰が損をしたか」である。
一番得をしたのは松本零士先生(笑)。大ヒットでしたしね。なんてジョークはさておき、メーテルは鉄郎と別れ、ペンダントの父の意識をなくし、母を亡くしたという意味では一番損をしている。後に分かるがエメラルダスとは姉妹なので肉親はまだいる。でもこの映画の公開当時はまだ不明だったけどね。
鉄郎は天涯孤独の孤児になってしまう。ただ映画の冒頭でのことだ。しかも続編では父が生きていることになった。でもこれもこの映画の公開当時の設定だけでいこう。
プロメシュームはやっとの事で築きあげた機械化母星を鉄郎に叩きつぶされる。ガラスのクレアも冥王星のシャドーもあまり得していないと思う。
そう、ほぼ登場人物の誰も得をしていないと、僕の目には映るんだ(笑)。じゃあ、なんであんなに派手にやったの? 青春だから? 男はいつでも……、ってハーロックに言われたから? 凄い、若き日の記憶に残る若きヒーローの大暴れ、これって「あばれはっちゃく」もビックリだ。
でもハードボイルドの世界と穏やかな憧憬の心情を併せ持つ世界観に、そして世の中の理不尽と戦う「男のロマン」は多くの人の心を魅了したのは言うまでも無い。幼心に作者の持つ創造力の大きさには納得したモノだ。
次は全員得をする話。映画『ラジオの時間』に出てくる新米ラジオドラマ脚本家。劇中では彼女の奮闘を物語にしている。そのラジオドラマのシナリオ製作過程の描写が実に面白い。好き勝手にシナリオをいじられまくって、口論がここかしこで飛び交い、めちゃくちゃな設定にリスナーのトラック運転手もビックリだ。でも最終的には皆、脚本家に悪いと思って、反省して、ラストシーンは台本通りのシーンになんとか戻して終わるという感じだ。劇中劇でシナリオが出来ていく過程が面白い。これって僕は結構勉強になったから鑑賞しても無駄にならなかった。お金払っても無駄にならない物語だ。鈴木京香さん扮する脚本家と意見が対立するピークが終わったタレントに扮する戸田恵子さん。そこを取り巻く効果音担当やミキサー担当のプロフェッショナル。またCMのスポンサーばかりを気にするプロデューサー、好き勝手な方向を向いていたおのおのが最後のラストシーンで素晴らしい展開の物語で終わらせるという嘘のような話。これは名実ともに満場一致のハッピーエンドである。僕の一押しかな? 三谷幸喜さん凄いって思った。
僕は皆が創るモノは、ハッピーでもバッドでもどっちでも良いとは思うが、自分が創るモノはやはりなるべくならハッピーエンドが良いと思っている。読んだあと、観たあとのすっきり感があったほうがいい。全体のまとまりと文章の余韻とオチ、それに心の綺麗な世界があればそれで良いのである。その人なりのこだわりとハッピーエンドとバッドエンド。皆さんも自分はどっちが書きやすいのか、なんていうのを考えてみてはいかがだろう。ではまた。




