好きなタイプの物語考-キャラとインプットの話-
このエッセイで僕は、よくインプットという言い方をするがいわゆる技能と知識の吸収である。影響を受けた作品という換言も世間ではする。
昔、よく創作術は自分で磨いていくモノで、誰かに教わるモノでは無い。なんて偉い先生方が仰っていたのをわりかし見かけたが、これは優しい意見だ。だって嗜好性の違う人間に教わっても同調が少ないため向上しづらいし、そんな下地で書いても的を射た物語に辿り着かないというのをその先達は知っているからだろう、と僕なりに解釈している。逆に嗜好性が一緒だからと言ってその人の作品を丸写ししても多分オリジナリティに欠けた駄作量産機の作者になるのだろうな、と門外漢で素人の僕でさえ分かる。また今の時代、文体の個性は重要視されるが、独りよがりのおかしな言葉を紡いで文章を編んでも、他者に意味が伝わらないだろう。それをナンセンス文学とは見てくれないだろう。そんなものは言語本来の目的であるコミュニケーションの役割が放棄されてしまい、ただの個人的幼児語や勝手な口癖である。脳内擬音にすぎない。
『マンガの神さま』である手塚治虫は「映画を見て、そして本を読んで、そこから着想をしなさい」といたる所で仰っていた。それは門下であるトキワ荘のメンバーや後進の証言にも数多く残る。その理由はマンガ家がマンガを読むのよりも、別の場所で想像力を養うことだ。発想力や媒体手法の置き換えに対応するキャパシティを鍛錬するのだという。
そうで無くとも模写からスタートするマンガ家という職業の場合は、絵の技法が師弟関係上似てくるが、小説や詩歌の時には絵がない分、類似箇所のパラメーターは何に変わるのか、という見解が生まれる。その構成部品は文体や視点などで、それらが似てきたり一緒になるのだろう。
まあ、その昔の話だが「イズム」や「主義」という芸術思想や『様式論』に興味を持った僕は、結構それを軸に作家の作品を読んでいたのは確かだ。個人的な感想だけれど、田山花袋と国木田独歩の文体は似ていたなあと思い出す。『東京の三十年』や『牛肉と馬鈴薯』、「蒲団」などは自然主義作家特有の文章の香りと視点があったことを覚えている。
またアンデルセンに影響を受けた森鴎外もロマン主義の少々大袈裟で、今の時代だと、「しょってるなあ」、「くさいなあ」と言われる文章で書くこともしばしばだったと個人的には感じている。同じロマン主義の与謝野晶子も短歌ながら勇ましい文体だと勝手に感じていた。近代や現代小説に対しては、そういう僕の感じ方だった。
絵画を考察するときの様式論は「印象主義」、「写実主義」、「ロマン主義」、「新古典主義」などのグループを目安にしていた。文学と同じようにテイストを探して鑑賞していたのも事実だ。ほかにも「アールヌーヴォー」や「ナビ派」なども同じ視点、筆致の作家の集合体だったと感じている。
対して中世の画家は、アカデミーの制約もあったので基本は神話や古典文学、あとは風景などを描いている。それ以外は日銭稼ぎや生活のための肖像画などが多かった。顔料の関係で色合いはみな似たような感じだが、神話でもアルカディア様式やルネサンス様式によってやはり主題の違いは現れていた。
さて現在に話を戻すとマンガならトキワ荘のグループがそういう意味で似た感じのタッチを描くし、劇画なら『ガロ』のグループだろう。勿論SF小説では星新一と小松左京がグループのトップで、前者はコミカルSF、後者はロマンSFの先駆者であり、この二人はそれぞれのグループの頂点にいた。この二者を跨いでいたのが眉村卓や筒井康隆さんと僕は捉えている。ただ後者二者はやや星新一よりに感じている。その根拠は作品内にあるユーモアの存在だ。
これらは勿論僕の勝手な感想に過ぎない。だがどこかに作品群としての接点や類似点が存在しているような気もする。
ここで手塚治虫の考え方を見習った僕自身を分析してみよう。
僕の好きな物語作品をいくつかピックアップしてみる。
洋画
『ニューヨーク東八番街の奇跡』(1987)、『抱きしめたい』(1978)、『トワイライトゾーン/超次元の体験』(1983)『E.T.』(1982)などのスピルバーグとそのお弟子さんの作品が多かったSF。
邦画
『いま、会いに行きます』(2004)、『エンジェル 僕の歌は君の歌』(1992)、『くちびるに歌を』(2015)などの日常系ファンタジーや回想風などが多い。
マンガ
『アルテ』大久保圭、『ハーフな分だけ』星里もちる、『はいからさんが通る』大和和紀、『みゆき』あだち充、『めぞん一刻』高橋留美子、『夏子の酒』尾瀬あきら、『部屋においでよ』原秀則、『サイボーグ007』石森章太郎、『銀河鉄道999』松本零士、『パーマン』藤子不二雄、『夏目友人帳』緑川ゆき、って感じかなあ。意外に小説と違ってマンガに占めるSFの嗜好性は低い。
これらの大多数は感性や生活考察の多感な時期にインプットしたので、はき出した僕の作品にそんな時代感が残っているのかも知れないなあ。でも『アルテ』と『夏目友人帳』はつい最近だし、最近のモノって言えばマンガや小説に関してはまだまだ吸収しているのだと思う。ただしそれらを読んでいても、それらに近い作品にはならない。どっかで色々なモノが活きているんだろうけど、根幹、土台、つまり創作のベースにはならないって感じだ。だからその人が一番物事に多感な時期に吸収したものが、創作作品の土台や本体になっているのだと思う。それが現代のパラダイム上に上手く乗っかると好評になるのかなと思う。ひとつの作品の中で構成要素は、多種多様なアイテムや思想が複雑に絡み合っているので「一周回って」とかそんな簡単なものではないと感じている。
次の主題はキャラ。僕はどちらかと言えば筋書き重視な創作方法で、あまりキャラを楽しく描くことが上手ではない。創作上がんばってはいるが、自己評価は低い。最近のプロの著作家を見ていると、「やっぱりお金もらっている人は上手だなあ」というのが本音。上述でマンガの話に準えた意見で書いているので、続けて具体例をマンガに準えて自己分析をしてみる。
僕が本当に好きだなと言うキャラはマスキャラ、そうマスコットキャラクターが多い。「こたつねこ(うる星やつら)」、「にゃんこ先生(夏目友人帳)」、「ちとさん(ふらいんぐうぃっち)」かな? 全部ネコなのだが、まあ自作の『時空魔女マリン嬢の回想日記』でも「サリー」として出している。これはキャラクター設定上、性格のルールを見つけ出しやすいからだ。
「こたつねこ」は錯乱坊や校長先生あっての活きてくるキャラだし、「にゃんこ先生」は主人公をいざと言うときに助けるという役目を担った登場人物なので、本当の姿になってお助けキャラとして柱になるキャラだ。でも、もふもふの、つるふわにやられた多軌との絡みで、平常時のキャラが立っている。
「ちとさん」も知恵袋ではあるがほぼ役割は一緒である。ねこではあるが立ち位置は『めぞん一刻』の四谷さんと同じと僕は考えている。皆が正体を知りたくなったり、追いかけたくなる不明なミステリアスでいながら日常を纏う不思議ちゃんである。まとめれば、ここに挙げたキャラクターは絡みや相棒の存在があってキャラの特性が活きているという登場人物だ。
では真面目なヒーローやヒロインの場合はどうだろう。ここではほぼ主人公を意味している。一番無難なのがヒーローなら勇敢、頭脳明晰、孤高の生活、物語の設定上なぜか協力者がわいてくる。そんな感じでどうかな?
星飛雄馬、バビル二世、デビルマン(不動明)、キートン、工藤新一、千秋真一、古代進、星野鉄郎などが挙がる。冒険や勇気が見せ場の完全無欠の英雄キャラなのだ。だが一九九〇年代以降はここに普段日常でのダメさや親しみやすさを投入して人間くささや親近感を混ぜたヒーローが多くなったように思う。これを僕は勝手に「パーマン一号化」と呼んでいる。イザというときだけ格好良いヒーローだ。冴羽 獠とルパン三世、『ドラゴンボール』や『ウイングマン』などが良い例である。あと『XXXHOLIC』の四月一日くんも入れても良いと思う。
また少女マンガ風の王子さま系なら風早翔太、白銀御行なども挙げられる。
ヒロインなら、清楚、可憐、グラマー、セックスアピール、影ある美女、一途、元気、健気、などだろう。古くはグラマー系なら峰不二子や『Dr.スランプ』の山吹みどり、『キャッツ・アイ』のひとみ。清楚なら鹿島みゆきや朝倉南、『冬物語』の雨宮しおり、『750ライダー』の委員長久美子、毛利蘭。影ある美女なら鮎川まどか、一ノ瀬千鶴だろう。でもこのテで一番多いのは、圧倒的にニーズもあるからなのだろうが、朝ドラヒロインのような明るく、快活で、少しドジあるいは天然ボケ。でもひたむきな性格という共感の得られるキャラクターだ。世間一般の読者には一番身近で魅力的な存在のだろうなと鈍感な僕でも想像がつく。
古くは花村紅緒、岡ひろみで、『夏子の酒』の佐伯夏子、アルテや『ふらいんぐういっち』の木幡真琴、綾瀬千早(『ちはやふる』)なども挙げて良いかな。
そして何と言っても、ド定番、一番の楽しい金持ちキャラを加えることで物語は活きてくるのは間違いない。最後はそれを挙げて総括としよう。
『うる星やつら』の面堂終太郎、『おぼっちゃまくん』のちゃま、『白鳥麗子でございます!』の麗子、「こちかめ」の中川巡査、『エースをねらえ!』の竜崎麗華、『かぐや様は告らせたい』の四宮かぐや、『名探偵コナン』の鈴木園子などなど。実際には有り得ないほどの資産を武器に実際にはあり得ない問題を起こすところが物語を楽しくしてくれるのは言うまでも無い。またご都合主義でやり過ぎたあとの展開初期化や広げすぎた話から逃げるときの布石回収にも役立ってくれる便利なキャラクターだ。すなわち「つじつま合わせ」にも使えると僕は踏んでいる。今のところ、このキャラの類いが一番の物語の調味料(ある意味見方次第では劇薬)と僕は思っている。
そういう意味ではマスキャラと金持ちキャラのふたつが活きていると結構、物語に味のある楽しさが加えられると思う。もちろんプロットがしっかりして読者が付いてくるからこそキャラクターも活きてくる、というものではあるのだが。
さてうだつの上がらない僕が著すエッセイ、その独断、勝手に分析と所見を述べたところで今回も終わりである。総括が出来ないほど挙げ散らかしてしまったが、なにかこれらがヒントになれば良いなとも思っている。それは僕自身、皆さんともにだ。そんなわけで、今年の更新はここで終了。所定の想定字数に達した。
皆様におかれましては、よいお年をお迎え下さい。また新年も僕のアホなエッセイと駄作の物語をご贔屓にして頂けますと生きる活力になります。ではまた。




