零下一話
十四の夏に実母が亡くなった。
若すぎる死だった。
私は初夏の陽気でぼんやりしていて、母が死んだことに上手く反応できなかった。
父は王族で私も一応王族だった。一応というのは母が卑しい位の人で、その娘の私も周りの王族から余り良い扱いを受けなかったからである。
なので母はいつも真剣に私をかわいがり、どこへ行くにも一緒に連れて行ってくれた。父も私が良くない思いをしているのを知っていたらしく、他の妻との子よりもかわいがってくれていた。
母の葬儀に来たのは私と父だけだった。母の親戚は皆死んでいて、正確に親族と言えるのは私と父だけだった。
「キリコよ。悲しまないでおくれ。私が、母さんの分もお前を幸せにするから」
父は王宮にある世界樹の根もとに埋められた母の棺を眺めながら、私を幸せにすることを誓った。
「王族以外をここに埋葬ことは許されていないんだ。お前も知っているだろう? だから誰にも言わないでくれよ。兄さんにもだ」
父の兄はこの国の、いや、この世界、魔界の王だった。牢固たる封建制を確立させ魔界に君臨している。いわば権力の権化だ。彼の手にかかれば、政治的決定無しに父をここから追放することなどたやすい。それどころかすぐさま殺すことだって出来る。
「わかりました、お父様。墓に入るまでこのことは他言しません」
「ありがとう。お前と私は間違いなくここに入れるのだから、死んでも三人一緒だ」
「はい」
そう言ってくれる父親の姿が頼もしかった。
葬式の翌日、私だけになった私の家に奴隷がやって来た。父は王宮に住んでいて休日以外はほとんど帰ってくることはなかった。
肌が浅黒く髪は真っ白で黒目がない、父と同じか少し若めの男だった。身長は割と高く百八十くらいで手足は細くすらっとしていた。目は黒目がない分恐ろしい印象だったがよく見ると優しそうな顔つきだ。
私は一目見ただけで鬼族とわかった。それまで学問所で聞かされていた鬼族は、もっと野蛮でごつくて酷い生き物だったので、それと対照的なこの奴隷には少しだけ好感が持てた。
学問所では口が聞けない生き物と聞いていたので、まずどのような命令手段を用いれば良いか迷った。
耳はあるので普通に話しかけるのが正解だったのだが、そんなこと思いつかなかった。
結局そのことに気付いたのはこの時から一週間後の学問所で生物学の先生に質問したときだった。
クラスメイトのみんなに大笑いされたのは言うまでもない。でもそれは結構心地よいことだった。クラスに王族出身の者は私だけで、みんなが私に軽蔑の目を向けてくることはほとんどない。私の母より卑しい身分の者もいた。
そんなわけで私は家に帰って試してみた。
「椅子を引いてみろ」
すると奴隷は椅子を引いた。
本当だ、と納得した気分と、それまでその事に気づけなかった不甲斐なさで、複雑な気分になってしまった。それまで放っておけば料理や洗濯、掃除は勝手にしていたため、そういうものだと思っていた。
この奴隷は今まで自発的に動いていたのだ。
前の家で酷い目に遭ったのか、商人のしつけが厳しかったのかは知らないがなかなか良い奴隷だ。
しかしそんなことで母を失った私の悲しみがかき消えるわけでもなく、私はその日も世界樹の根もとまで夕闇に染まる街路を歩いた。私の家は街の外れにあって、中心にある王宮の中の世界樹までは歩いて三十分かかった。
世界樹は異常なほど高い。どれ位かというと、名前の知れた魔術師が上ろうとしても途中で引き返してくるほどでそれ自体が競技になっている。今までの公式最高記録は三十キロメートルで、非公式では頂上まで登れたという話も聞いたことがあるが定かではない。
一説ではその頂上に神様が住んでいるとか、イルジオンがあるとか言われているけど、ヒトが到達していないのだからわからない。
王族どもの肥えた躰から養分を吸っているからこんなにでかくなったのだろう。
私は世界樹の幹に掌を乗せて母の魂に心を馳せた。
この中に母がいる。たぶんいる。きっといる。
そう考えるだけで心が落ち着いた。
世界でたった二人の味方の一人だったのだ。私は泣くことをしなかったが、泣きたいくらいに悲しかった。
イルジオンに足を運べば会えるのかな。
昔イルジオンは死者の住む所と言われていた。昔というのは二百年ほど前の話で真世界から魔界にヒトが移って来た頃のことだ。今はもうほぼ全ての謎が解明されているので死者の世界でないのは明らかだが、もし可能性があるのなら行ってみたかった。
行っても死ぬだけか……。
イルジオンは魔物の巣窟、それが今の一般的な考え方。適当な大きさのイルジオンゲートを開けて中から魔物を呼び出し、使い魔にするのは多くのヒトがやっていることだ。
私はまだ子供なので、役に立たない小さな物しか法的にも魔力的にも呼び出せないが、大人になれば比較的有用な物も使えるようになる。そうなればイルジオンに行くことだって出来そうなものだが。
いや、あるいはイルジオンではなく真世界に死者がいるのか?
真世界についての知識は、昔私たちが住んでいたということと、今は行ってはいけないということしかない。純族という無能な民も住んでいると聞くがそれが死者の世界であっても不思議ではないだろう。
「ああ、お母様。どこへ私は行けばいいのでしょう」
気が付いたときにはあたりが暗くなり空には星が出ていた。月は世界樹の影で見えなかった。
家には帰らなくてもいいかな。
家は奴隷一人だが心配はいらない。奴隷はもともと雇い主に逆らえなく調教してあるし、逆らうと喉が掻き切られて死んでしまう魔法もかけてある。
今夜はここでこうしていても良いだろう。一週間、毎日全く同じことを考えながら結局は帰っていた。
しかしこの日は違っていた。
遠くで何か固くはないものが倒れるドサッという音がした。ホントに遠くで小さい音だったが確かに聞こえた。それほどまでに世界樹の傍は静かだった。
ヒトだ。
そう思った。世界樹は王宮の敷地内にあり近くには憲兵や門番だっている可能性がある。おそらく彼らが倒されたのだ。
私は何かおかしいことが起きていることを理解した。もしかしてクーデターでも起きたんだろうか。起きていても不思議ではない。伯父は至って独裁的な人物で父でさえも不満を漏らしていた。それより身分の低い者に不満がないはずはない。
世界樹を挟んで反対側でヒトが言い争うのが聞こえる。
きっと私では想像出来ないような恐ろしいことが始まるのだ。その段取りを話し合っているのだ。そうに違いない。
私はその会話を知りたいという好奇心とこの場を去らなければという自己防衛の意識で揺れた。そして、最後には木に隠れながら様子を見に行くという結論にまとまった。
木はとても太い。直径二十メートルはある。従って張り付いていれば夜であることも相まって見つかるリスクはほとんどない。本当は魔法でも使って姿を消したい所なんだけど、生憎そんな高度な魔法は覚えていない。
私に出来るのはせいぜい薪に火を付けるだとか飲み水を作るとかその程度だ。大火事も大洪水も起こせやしない。
私は全神経を集中させて木に隠れながら向こう側を盗み見た。本気で集中していたので、後ろから忍び寄るサクッサクッという芝生を踏む音には全く気付かなかった。
木に体を密着させて少しずつ横にずれていく。ランプの明かりが見えてきて二人の中年男が何か話しているのが見えた。両方肌は白いし言葉を喋っているので魔族だ。
魔族というのは私も含めたヒトという意味で肌は真っ白で髪は真っ黒、瞳も当たり前のようにあるし言葉も喋れる。その上魔法も使える高等生物だ。動物も鬼族も魔物も魔族によって支配されるのだから一番偉い生物といっても過言ではない。ただその中にも序列があって、覚えるのが面倒だなあ、とは思う。
もしあの男らがクーデターを起こすのならかなり低い位のはずだ。それこそ鬼族のような暮らしをしているに違いない。つまりは奴隷階級ということだ。
かなり大きな声で話しているようなのだが少し遠くて聞こえづらい。もう少し近づけないだろうか。どうせあたりは暗いので魔力を漏らさないように近づけば問題ないだろう。
私は木の周囲から離れて少しずつ近づくことにした。もう会話の内容が気になって仕方がなかった。
しかしあとになって思えばそれがいけなかったのだろう。結局私はばれてしまうことになる。
少し考えればわかることだ。夜といっても向こうにはランプがあるし、このあたりには障害物などない。もちろん人通りもなければ動物もいないわけで、こちらを見られれば一巻の終わりなのだ。王の姪っ子がクーデターの計画を知ってしまったら口止めに殺すに決まっている。
そうでなかったら何処かに監禁されて……。
私はそんなこと全く考えることなく好奇心に突き動かされて前へ歩き出した。
当たり前の様に、一人の男が首を振ったとき目が合う。
一瞬立ち止まって私は何かを考えた。私が死んだ後の父親のこととか、あの奴隷のことだ。肝心のこの場の乗り切り方については頭が回らなかった。
目があった方の男がもう一人に呼びかけ、こちらを向かせる。
もう駄目だ。殺される。
死んで母に会うのも良かったが殺されるのにはやはり抵抗があった。
二人の男がこちらに走ってくる。ヒトを殺そうとする人間の目は見たことがなかったが、男らの目はまさにそれだった。焦りと罪悪の感情で満ちていた。
その男らが持っていたランプの灯が突如消えた。前触れもなく消えたランプを男らが必死に点けようとしているのがわかった。しかしそれが点くことはなかった。
命拾いしたのかな。
そう思っている内に私の体は何者かに掴まれ、空を飛んでいた。
そう思ったのも束の間、すぐに降下を始め王宮の城壁に乗っていた。ここからの眺めは最高に良いのだ。今はたいまつのともった城下町が見えていて何とも神秘的だ。昔父と母とよくこうして見に来たものだった。
感慨に浸るまもなくまた私は宙に舞って近くの土手に降りた。そこからはもう一瞬だった。あっという間に家の前、転移魔法でもかけられた様だった。
ゆっくりと掴まれていたのが放されてようやく、奴隷が私を運んでくれていたのがわかった。
「どうして、あんな所まで……」
聞いても無駄だった。鬼族にコミュニケーション手段はない。ただただ命令を聞くだけだ。もしかして誰かが私を助け出すよう命令したのだろうか。いやこれまでの彼の行動からして、
「自分で判断したのか?」
そういうことだろう。
案の定彼は小さく申し訳なさそうに頷いた。
それにしても鬼族にここまでの身体能力があろうとは。魔族より大幅に優れているとは聞いていたが、人一人抱えて十メートルほどの城壁を越えたのだ、イカれてるとしかいいようがない。それにあの走りの速さ、身体能力強化魔法をかけた魔族よりも余裕で速い。
なぜこのような生物がヒトではないのだろうか。不思議で仕方ない。言葉を話せないから、というのが一般解釈なのだろうが理解はするし首を振ることではいかいいえかは選択できる。もちろん奴隷である彼らに選択権はないが。
見た目の問題も大きいのかもしれない。あと、魔法が使えないというのも。魔法が使えないヒトは魔族でも多いけど。
でも私の中で鬼族に対する考え方が変わったのは確かだった。
奴隷を連れて家に入った。家の中には暖かいスープやら夕食の用意が出来ていて、涙が出そうになった。
「ありがとう」
私がそう言うと奴隷は小さな涙をこぼして笑った。
私はもらい泣きしそうになったが、そんなことより気になったことがあってそれどころではなかった。
名前である。私はこの男の名前を知らない。
この男が持ってきた調度品があるから後で調べよう。そこに書いてあるかも知れない。
私は名もなき奴隷と久しぶりに暖かい夕食を共にした。
自分がよくないことに巻き込まれつつあるのは防ぎようがない。そんな気がした。
私は寝たふりをして奴隷が先に寝るのを待ってから、彼の寝床、屋根裏部屋に侵入した。
部屋には一つ大きな袋があってあとは何もなかった。その袋が彼の持ち物全てだった。
私は暗視魔法が使えないし明るくなるランプも使えないので、真っ暗のまま作業を始めた。
袋には分厚い本が二冊と服、それから使いかけのチョークが一本しか入っていなかった。
本が読めるのか? それとも何か大切な本なのか。
片方はもう一つの世界と書かれた本だった。真世界について書かれていて、私の家にもある。世界学の補助教材だ。なんでこの男が持っているんだ。
もう片方は暗くてよく見えない。タイトルは大きいんだけど紙と近い色だからやっぱり見えない。
私は少し拝借して、屋根裏部屋を降りた。ダイニングにてランプを点ける。
「異世界論と秘術?」
聞いたことがない本だった。もともと本をよく読む方ではないから聞いたことがないのは当たり前なんだが。なんとも奴隷には似合わない本だ。料理の本だとか思想の本だとかそういうものなら納得はいく。
しかし異世界論を奴隷が読むのか?
私は気になって中をペラペラっと読んでみた。簡単に言えば真世界への行き方とイルジオンゲートの大きさの限度みたいなことが書かれていた。参考としてそのための魔法陣も乗っていた。
「禁書、ではないのか?」
こういう行為を助長する書籍の出版は法で禁じられているはず。なぜこの男がこんな物を……。
憲兵か誰かに渡すべきか迷ったが結局私は自分の部屋の棚で預かることにした。
たぶんすぐばれると思ったけど、奴隷にはそれを伝える手段がないので、特に角が立つことなく月日が流れた。私の予想に反してクーデターが起きることはなかった。
あの奴隷の名前はわからず仕舞いで、あの本を持っていた理由も判明しなかったが、それなりに楽しく過ごせた。
奴隷は気が利く上に優しかった。寒い日は私に毛布を掛けに来てくれるし、外でのんびりしているとき何か危険なことがあったら呼ばなくても駆けつけてきてくれた。遊び相手にもなってくれた。
仕舞いには友達と遊ぶより奴隷といる方が楽しく安心できるようになって、ずっと一緒にいるようになった。
そして年月が経ち、母が死んで奴隷と出会ってから二年と半年、三回目の冬が終わろうとしていた時、私は始めて彼の言葉を見る。
ありがとうございました。