零下二話
好きだった人がいた。
金竜百々という名で年は俺と同じ、良い所の出で上品な子だった。白髪で性格の曲がっていた俺に唯一まともに対応してくれる良い子だった。
始めて出会ったのは小学生の頃で、たぶん二年生かそこらだったと思う。
お互い家が広くて大変だって話をした。俺の家は空手の道場があって、家屋自体はそんなに大きくなかったんだけど彼女はそう捉えたらしく、何度も家に遊びに来たがった。
俺の家には父親も母親もいなくてそれが原因でいじめられることもたくさんあって、人を家に呼ぶのはあまり好きではなかった。でも彼女なら呼んでもいい気がしていた。優しかったのだ。彼女は。
俺は何週間も悩んだ。今の俺にとってその数週間は短いものだけど、あの時の若い俺にとっては永遠ほどの長さだった。
結局、答えを出す前に彼女の家に呼ばれた。
行ってみてとても驚いた。正確な大きさはその時はわからなかったけど、俺の家より大きかったのは確かだった。
だって高さがあるんだ。俺の家は平屋でこれから高くなる予定はない。
それに驚くべきことにメイドまでいた。何十人もいて廊下で何度もすれ違う。百々はそれら一人一人に会うたびに礼を述べていた。
彼女には兄がいて俺も何度か会ったことがある。うちの道場の門下生だったんだけど、いつからか来なくなってしまった。数回組み手をしたがいい人そうな印象を持っていたので、やめてしまったのは残念だった。もちろんかなり弱かったけど。俺は道場では大人の誰よりも、自分の祖父よりも力だけなら強かった。技では中の下くらいだったけどそれでも子供の中では一番だった。
「秋斗君はお父さんのこと好き?」
中学一年のいつかそんなことを聞かれた気がする。たぶん百々の父親の足が臭い、から派生した話題に思う。
彼女は私立の良い中学校に進んだけど、俺は公立の高校に進んでいた。それでも疎遠になることなくたまには一緒に遊んでいたのでもしかしたら両思いだったのかも知れない。
「わからない」
そう答えるしかなかった。中学に進んだこの時もまだ彼女を家に呼ぶことはしていなかった。タイミングが掴めなかったのだ。
しかしこの時俺は今だ、と思った。
「いないんだ。父さんも母さんも」
彼女は驚くことなく聞いてくれた。たぶん気が付いていたのだろう。だとしたら結構酷い質問を投げかけてきたものだ。あるいは俺に言い出すタイミングを与えてくれたのか……。
「……辛いね」
「俺が生まれてすぐに亡くなったんだ。俺は会ったことないから悲しくないけど、会えるなら会ってみたいな。今度家来る? じいちゃんとばあちゃんしかいないけど」
その時は文脈がおかしいことには気が付かなかったけど、今思えば突拍子もないことを言っていたなあ、と思う。
「うん」
彼女が嬉しそうに返事をしてくれたので言って良かったのだが、このあと俺はすぐ後悔する。
中学に進んでも親がいないことでからかう人間は減らない。逆に思春期という中途半端な期間だからこそ人をいじめたくもなるものだ。
それに俺は白髪で、性格もそんなに良いとは言えなかった。自分で卑下する気はないがお世辞にも明るいとは言えない性格だったのだ。そして人に手を出さないということもイジメに拍車をかけた。
武道家は喧嘩はしない。祖父にそう教えられてきた。弱いものは相手にしてはいけない。俺は大人よりもだいぶ強かった。一般人なら大人にも喧嘩を売ってはいけない。子供になんてなおさらだ。
しかし周りは俺がイジメに反抗しないのを良いことに、どんどんイジメをエスカレートさせた。
物がなくなるのはしょっちゅうで、直接殴られたりもあった。しかし殴られるのはほとんど痛くないので物を盗られるのの方がマシだった。
たぶんそれに甘んじていたのが悪かったのだろう。
彼女が家に来る日がやってきた。よく晴れた心地よい日だった。
俺は彼女の家に迎えに行ってそのまま彼女と俺の家に向かった。
彼女を家に入れていつものような会話を交わす。口には出していないがそれはほとんど恋人のようなものだったに違いない。それほどまでに仲が良かった。
彼女は町一番の美少女と言っても過言ではないほど美しかった。うちの隣にも見た目だけなら可愛いのがいるが、百々は性格も含めて美しかった。
俺は幸せだったに違いない。いや幸せだっただろう。
夕方五時になり、彼女を家に帰す時が来た。彼女の門限が六時なのでもう少し遊んでいられたけど、俺の所為で彼女が怒られたりしたら申し訳ないので早めに帰した。
俺の家の門まで見送ることにして、玄関から出た。
門に着く俺たちは近くでカラスが鳴きながら飛び去る音を聞いた。
彼女が敷居を跨ぐのを確認して「じゃあまたね」と言おうとしたときだった。
「いいご身分だな。ちょっと面貸せよ?」
クラスのいじめっ子らが徒党を組んで家の前で待ち伏せをしていた。
「ほら君もこんな奴といたら危ないよ? こいつ何考えてるかわからないから」
先頭切って話し出したのは山田だ。クラスの中で番長という言葉を使用するのは間違っている気がするが、とりあえず番長的な存在だ。
そいつが百々の腕を取って何処かに歩き始めた。百々はえ? え? という感じで全く状況が飲み込めていない。たぶん俺が百々といるのが気に食わなかったのだろう。迎えに行くとき誰かに見られていたのだ。
高架下に連れて行かれて、いじめっ子五人と山田に周囲を囲まれた。
「お前、俺らが加減してるからってあんま調子乗ってんじゃねえぞ!」
加減しろと頼んだ覚えはないが、そうらしい。俺はただ慎ましく生活しているだけなのに。
「杉田、あれやれ」
山田の合図で杉田と呼ばれる下っ端がカッターナイフを取り出す。カリカリと音を立てて刃を伸ばしていく。
「これでここを切ったらどうなるだろうな?」
杉田は俺の股間にナイフの刃を向けて軽く当ててくる。
「おいおい。いきなりそこか。杉田君は怖いねえ。おい綾瀬、謝らないと不能にされちまうぜ? うちの杉田は気が短いからなあ!」
おそらくドラマか何かで覚えたであろう台詞で俺を脅し始めた。一体何を謝れば良いというのだ。
「一言、生まれてきてごめんなさいって言えば良いんだよ。簡単だろ?」
百々は相変わらずキョロキョロしている。お嬢様なんだ仕方がない。
俺はその一言が言えなかった。
あったこともない父や母はそれを聞いてどう思うだろうか。祖父や祖母は?
両親になにか不満があれば言うことは出来ただろう。しかし俺にはそれがない。俺にとっての両親はただ俺を産み落としてくれただけの存在だ。生まれてきたことを謝るのならその存在自体を否定することになる。
「言えない」
俺は言ってしまったのだ。
「ああん? もう一回言ってみろよ」
「言えない」
「不能になりたいのか? 怖くないのか?」
山田は妙に納得した顔になった。
「杉田、ちょっと貸せ」
杉田のカッターナイフを奪い取り百々に近づけた。
「わかるよな、綾瀬君」
百々本人は何のことだかわからない、と言った様子で、「それは工作に使うものですよ?」と言っている。出来ることならこの無垢な心のまま彼女を解放してやりたかった。
俺の中で何かが取れたような音がした。
俺に危害が加わってもいい。俺は強いし何をされてもいい。でも彼女は……。
俺は普段から反抗しないので腕を掴まれるとか拘束されたりはしなかった。それがよかったのか悪かったのかはわからないが、俺は山田のナイフめがけて綺麗な全力の前蹴りを打った。大人だって一撃で倒せるほどのものだ。
腕からナイフが離れて宙を舞う。山田は腕を押さえ込んでうずくまった。
周りにいた杉田を含む下っ端が一斉に飛びかかってくる。
何人かの蹴りをかわし何人かのパンチを受け止め何人かの胴体を突いた。
夢中だった。
これまで幾度となく組み手やら試合をしてきたがこれほど本気になったことはない。
意識が戻ったときには血まみれの拳とその拳に怯える百々の姿がそこにはあった。
あとは、男子中学生の形をした肉塊だけだった。
程なくして警察が駆けつけた。
俺は特に弁解をしないままパトカーに乗せられ取り調べを受けた。
彼らの死体には一人一つずつ腹から胸にかけて大きな穴が開いていたらしい。警察は俺以外に共犯者がいるものと思って疑わず、何度も共犯者の名を訊ねてきた。
あともう一つ、山田の腕が片方手首から先が千切れていたらしい。俺の蹴りはそこまで強かったのか。
俺は初等少年院に行くこととなった。少年院では前科が付かないのであまり困らないが、百々に会えないのは辛かった。
百々が面会に来るのを待った。俺が百々を守ったはずだった。少なくとも俺と、俺に殺されたあいつらはそう思ってるはずだった。
だが結局百々が俺の前に姿を現すことは一度もなかった。そして今も、俺の網膜に焼き付いている百々はあの時の怯えた目をしていた。
俺の何がいけなかったんだろうか。
間違った選択はしていない。百々を守ろうとしたのに。
あいつらを殺したのがいけなかったのだ。力のセーブが出来なかったのが。
人を殺してしまった実感がだんだんわいてくると、戦いの記憶もよみがえってきた。
俺の右腕があいつらの体に食い込む様子が思い出された。山田の死に際の目、殺意がこもっていた。俺を殺そうという気合いだけで動いているような、そんな目だった。
命がない今となっては俺を殺すことはできない。あいつらに罪がないわけではないが俺が正義かというとそういうわけでもなかった。
たぶん悪は俺だった。少なくとも俺の中ではそうだし、百々の中でもそうだと思う。
少年院を出て俺は加減を覚えた。もっと相手のレベルにあった戦い方、力加減をすべきなのだ。
そしてもう一つ、俺は熱くなってはいけない。全てのことに耐えなければならないことを知った。
そうしていればいつか百々が帰ってくるような、そんな気がしていた。
ありがとうございました。