009 読者の時間
ベトラクト氏との朝食を終え、メイドさんに連れられ屋敷の廊下を歩く。
さて今日から本格的に護衛の仕事が始まるわけだけど、そう思っていたのだが豈図らんや急な御暇を言い渡されてしまった。
なんでも、午前中は執務室で書類整理をするとのことなので「屋敷の中でなら何をしていても良い」とのお達しを受けた。
とは言っても僕は昨日今日この屋敷に来たばかりの、まだ右も左もよくわかってない新参者。何をしていても良い、などと云われても一体何が出来るだろうかそれすら定かではないのだ。
といった具合で、とりあえずどこか時間を潰せるオススメの場所はないかと、家主であるベトラクト氏に尋ねたところ。
「書庫か中庭あたりがオススメですな」
とのことだったため、この世界についての情報収集も兼ねて前者、書庫で本を読むこととした次第だった。午後まで本を読んで時間をつぶしてしまおうという魂胆だ。今はというと、その書庫とやらに案内してもらっている最中だった。
しかし、時間を潰すと言っても何を読もうか。迷うところではあるけど、出来れば歴史書だったり使力といった元の世界と異なる情報、つまりこの世界特有の知識を把握する必要がある。
一応フェルトも付いてきてくれてるので、わからないところとかは補足してもらおう。
「こちらでざいます」
言って両開きの扉を開けるメイドさん。扉の先には石畳の連絡通路と、それ以外を緑に覆われた景色が広がっていた。どうやら外に出るようだ。メイドさんを追うように続けて外へ出ると、連絡通路の先に別館と思しき離れが目に入る。
「あれが書庫ですか?」
そう尋ねると、彼女は一言「左様でございます」とだけ応え、足早に石畳を歩く。そんな素っ気なく愛想のない返答に少しだけショックを受けたが、それにしても彼女の様子はどうも忙しなく思えた。
ピリピリしている──とはまた違うが、どうにも早足で、どこか急いでいるそんな印象だ。
彼女はメイドだし、他にも色々な仕事を抱えているのだろう。であればこうして僕に屋敷を案内するといった、通常の業務と異なる仕事は早々に片付けて、一刻も早く他の仕事に取り掛かりたいはずだ。ならば彼女のそんな様子も当然と言えるだろう。むしろこちらが余計な仕事を増やしてしまい、申し訳いとすら思えるくらいだった。
そんな風にあれこれと考え込んでいるうちに、一行は別館へと辿り着いた。別館は本館とは異なり、少し古さが印象に残る造りをしていた。
ギィと重々しい扉を、音を立てながらゆっくりと開く。扉の中はただただ真っ暗で、ひたすらな闇に包まれていた。
「暗いね」
「ああ、暗いね」
フェルトと顔を見合わせてそんなことを呟いていると、メイドさんは手に持っていた手燭に火を灯し、その明かりを頼りに暗闇へと足を踏み入れる。その背中を追うように、僕達もまた暗闇の中へと入り込んだ。
書庫内は本当に暗かった。たしかに手燭による僅かな明かりはあったものの、そんなことは関係ないと言わんばかりに、辺りは真っ暗な闇に包まれていた。
しかしそんな中においても彼女の足取りには何の迷いもなく、壁に設置された燭台に火を灯しながら通路を進む。手慣れた手つきで、次々と蠟燭に火を灯した。次第に周囲は光に包まれて、少し薄暗いながらも周りの様子が鮮明に見て取れるようになった。
「こちらで少々、お待ちください」
書庫内の中心、テーブルや椅子が設置されたスペースへと案内された後、彼女はそう言って一人その場を離れた。
「それにしても……」
外からも見て取れたが、この書庫は本当に広く驚くべき規模であった。
木造二階建て。中にはびっしりと本棚が並んでおり、まだ足を運んではないが二階にも恐らくそう。目算だが、10万冊くらい所蔵してるのではなかろうか。これならちょっとした図書館にも引けを取らないだろう。
「いやはや、これはまた見事な書庫だ。いや書庫というよりも大書庫と呼んだ方が適切かな? この規模の書籍を個人で所有しているとは恐れ入るね」
僕はフェルトの言うとおりだと思った。もはや書庫というより大書庫といった方が適切だろう程の規模だった。他の施設よろしく、ここも例外ではなかったのだといえる。
そんなこんなで周囲を見渡していると、用事を終えたのかメイドさんが「お待たせしました」と再び姿を現す。気づけば薄暗かった周囲がすっかりと明るくなってもいた。
「全ての蝋燭に火を灯して参りました。……私は書庫内の清掃をしておりますので、何か御用がありましたら何なりとお申し付けください」
見ると既に彼女の手には手燭はなく、その両手には箒や塵取といった掃除用具が握られていた。
「わかりました、どうもありがとうございます」
僕がそう言うと彼女はニコリと微笑み、一礼した後書庫の奥へと姿を消した。
にしても書庫の掃除、か。僕はてっきり他の業務に追われてあんなに急いでいたのだとばかり思っていたのだが、そういうわけではなかったのか。
「まあいいや、あまり詮索しないでおこう。……そんなことよりも」
時間は有限。ベトラクト氏に言い渡された暇は午前中のみで、午後からは彼の外出に付き添わなくてはならないのだ。今の時刻は午前9時過ぎといったところ、つまり残された時間は2時間と30分。この少ない時間内に出来得る限りの情報を集めなければならない。そう考えると一秒も無駄にすることは許されないだろう。
善は急げ、周囲の本棚を一通り物色する。今日の目的は先述にもある通り、歴史や使力などに関すること。幸いにも僕の居るこの辺りは叙事詩や英雄譚や神話など、主に歴史に関わる内容の書物が並んでいる様子。
さてどいつから手を付けようかと、並んでいる本の背表紙を眺めている途中、ふと面白いことに気が付いてしまう。
「…………ちょっと、待て。これってもしかしなくても日本語だよな?」
最初に目に入ったこの本、そのタイトルには確かに「スズカトラ英雄譚」と記されていた。ハッキリと、日本語でそう記されていたのだ。
「どうして日本語が、異世界で使用されてるんだ……!?」
当然と言えば当然の疑問だろう。
思えば不思議ではあった。昨日も疑問を感じたが、この世界の住人はみんな何故か日本語で会話している。あまりに自然すぎてしばらく違和感を覚えなかったが、ここへ来てこれは重大な疑問へと発展した。
異なる世界、それ即ち異なる文化の土壌に他ならない。文化とは人々の交流、それにより発展した独自の生活様式や習慣、言語などを指す。それらは環境に大きく左右されるその性質上、そう類似することは極めて稀だ。それも地域や人種などのルーツを同じくする物にのみ見られる特徴だろう。
対してここは異世界。元の世界とは物理的に離れ、隔絶された場所に位置する世界。そんな場所において類似性はおろか、もはや同一とさえ言えるほどに酷似した言語が、果たして生まれるだろうか。偶然にしては奇跡ともいえるほど極めて小さな確率だろう。
「なあフェルト。この文字ってもしかしなくても日本語だよな?」
当然のように、当然の疑問をフェルトに投げかける。すると、思いの外フェルトは怪訝そうな面持ちで、少し間を置いてから口を開いた。
「……? 日本語、とは初めて聞く単語だ。察するに何かの言語かな? そのような言語があるかどうかは知らないが、君の言っているその文字は《メゾ・モロク語》という名前の言語だ」
「メゾ・モロク語……?」
フェルトの口から出てきたそれは、聞き覚えのない名前だった。
元の世界、僕の国で使われていた公用語《日本語》のそれと、ほとんど同一の言語がこちらの世界では《メゾ・モロク語》という名前で浸透しているらしい。いや、この際名前とかそういうのは別に問題じゃない。問題なのは──
「このメゾ・モロク語? ってさ、僕が元々居た世界でも同じ言語が使われていたんだよ。元の世界では日本語って名前だったんだけど、なにか知らない?」
問題なのは、なぜメゾ・モロク語が日本語と同一であるかということだ。
だっておかしいだろう。先述にもあるが言語なんてのはそうそう似るようなものじゃない。それも似てるだけじゃなくほとんど同一と来た。本来ならあり得ない事態なのだ、これには何かしらの理由があるに違いない。
「いや、知らないな。先にも言ったが、日本語という名前に心当たりはない。……しかし同一、というのは少し気になるね。よく似ているとかではなく、本当に全く同じなのかい?」
「ああ。ほぼ全く一緒だよ、今のところ。……そもそもこの世界に来てすぐ、普通にお前と会話が成立してたこと自体、本来なら不自然でしかないだろう」
僕がそう言うと「なるほど確かに」と手を鳴らして納得するフェルト。何とも思ってなかったのか、コイツは。……とはいえ僕の方も違和感に気が付いたのはつい最近のことだ。これはお互い様だろう。
「なるほど、確かに不自然ではあるね。しかしメゾ・モロク語をこの世界の統一言語に制定したのは連合国政府だから、その真相は彼らのみぞ知る──といったところだろうね」
「……なるほど」
疑念は尽きないが、こればかりは仕方がない。まさかその統一政府とやらに、メゾ・モロク語と日本語の関係について尋ねるわけにもいかないだろう。……バカな、そんな見す見す自らを異世界人であると明かすような行為、出来るわけがないだろう。故に却下、自力で調べる以外その真相を知ることはなさそうだ。
「仕方ない、どうやら歴史書なりから自力で調べる他なさそうだね」
フェルトに答えられない以上はこうする他ないだろう。
「……というか統一言語ってことは、この世界ではすべての人間がこのメゾ・モロク語を話してるって考えてもいいんだよな?」
「その通り。昨日も少し話をしたが、この世界は過去の対戦が終結して以降、ひとつの統一政府が統治している。言語もまた統一されているから、基本的にこの世界ではどの地域でもメゾ・モロク語を使用しているよ」
……なるほど。フェルトの言うように、本当に全世界で言語が統一されているのなら、この世界における人との交流において、ひとまず言語的な問題はなくなると言えるだろう。それは同時に、この異世界における不安材料のひとつが解消されたということでもある。
当然だ。言葉が通じなければ、途端に意思疎通が容易ではなくなる。そうなると元の世界へと戻る旅路において、不便を強いられていたかもしれない。だから僕の言葉、つまり日本語がこの世界のどこでも通用するというのは極めて僥倖であると言える。
「うん? 待てよ、それにしてはお前と出会ったあの場所には、知らない文字があったと思うんだけど」
僕とコイツが出会った場所、それ即ちあの湿気漂う薄暗い地下室のことだ。あの場所にはかなり年季の入った書物や絵巻などが散乱しており、そのどれもこれもが得体の知れない見たこともない文字で書き記されていた。
現在地を説明された時の大陸図だってそうだ。フェルトが指差しで説明してくれなかった理解できなかっただろう。音と字の認識が一致しなかったと思う。
「ああ、あの言語はモロク語と言って、今のメゾ・モロク語に統一される以前に使用されていた所謂古語さ。たしかここマンモンやリヴヤタン、それとアエーシュマの一部の国々で使用されていたはずだよ」
モロク語。当然ではあるが、これまた知らない名前の言語が出てきた。
それにしてもモロク語、か。メゾ・モロク語とは何かしらの関係があるのだろうか?
「メゾ・モロク語とモロク語には何か関係があったりするの?」
日本語に似たメゾ・モロク語に、名前だけは似ているこのモロク語。字体は全くの別物と言ってもいいくらいめちゃくちゃな形をしていたが、名前に類似性が見られるということはどこかしらに共通点や何かしらのルーツを同じくするのだろうか。はたまた、文字が異なるだけで、音自体は同じ立ったりするのかもしれない。
「いいや、特にはないはずだよ。……と言っても、私自身モロク語への理解がそれほど深いわけではないからね。そもそも古語故モロク語話者はもう居ないし、歴史的資料もほとんど残されていないからね。それにモロク語には未解明の部分が多すぎる、故に世間一般的にもこの言語に関してはほとんどが未知と言って差し支えないんだ。……私の知る限りだが、メゾ・モロク語とモロク語には、主だった関係性はないはずだよ」
話者も居ない、資料も残っていない、おまけにフェルトにもわからないとなれば、これはもうお手上げと言わざるを得ないだろう。
それに今の話からして、モロク語の知識はそれほど必要でもなさそうだ。何せこの世界のだれもがモロク語への理解が低いと言う。古語なのだから当然ともいえるが、それならば僕に知識がなくとも何ら不思議ではない。
「そういうことなら仕方ないな。言語に関しては、これ以上深堀しても意味なさそうだ。……せいぜい、歴史書からこのメゾ・モロク語とやらの起源を探ってみるくらいだろう」
見たところこの書庫にあるのは、どれもこれもがメゾ・モロク語で記された書籍ばかり。であれば、問題なく僕にも全ての本を読むことが出来るだろう。
午後までの2時間と少し、残されたこの時間を有意義に過ごすため、早速気になった本を数冊手に取る。主に歴史関連の本を3冊ほど。
手に取った3冊を、最初に案内された休憩スペースへと持ち運び、一冊目を開いた。
◆◇◆
時間というモノはあっという間に過ぎるもので、気が付けば時計の針は既に12時前を指していた。
持ってきた3冊の内2冊は読破したものの、残りの1冊はまだ序章を読み終えたばかりだ。流石に2時間で三冊読破は無謀だったか。
「というか、内容がなんともあれだね。信憑性に欠けるというか、迷信じみてるというかなんというか。まるで神話でも読んでるような気分だったね」
「仕方ない。なにせそれが過去より語り継がれ伝え聞いた、紛れもない歴史そのものなのだから」
フェルトの言うとおりだ。実際歴史書に記されている内容こそが、今ある歴史の全てであり、それこそが真実なのだから。僕からしたら神話や童話にしか聞こえないめちゃくちゃな内容だけど、この世界には魔法やら使力やらなんでもござれだ。こんなに現実味のない内容も、もしかしたらあり得るのかもしれない。
それに千年戦争や統一政府の設立などの流れも、事前にフェルトから聞いていた通りであったし、メゾ・モロク語の起源に関しても分からないままであった。つまるところ、有り体に言えば収穫無しということだった。
「ハア……そろそろ昼だし、執務室に戻ろうか」
情報収集が主な目的であるため、現状もう少し本を読んでいたいというのが本音ではあるが、如何せんもうすぐ昼。自由時間は午前中のみであるため、そろそろ打ち切らねばならないのだ。
「そうしよう。……ところで、彼女には何か声を掛けなくてもいいのかい?」
フェルトの言う彼女とは、僕たちをここまで案内してくれた例のメイドさんのことである。確かにフェルトの言う通り、出て行くにしろ何か一言告げて行くべきだと思う。それが礼儀というものだろう。
「そうだね。……本を戻すついででもあるし、ちょっと行ってくるよ。遅れても悪いし、フェルトは先に執務室に行っててくれ」
「承知した。なるべく早めに合流してくれ」
言って、フェルトは出口方面へ向かって歩を進める。
僕はというと元あった本棚にそれぞれ本を返却したのち、あのメイドさんに一声かけるべく大書庫内を探す。
ううむ、一度決めたことだしメイドさんに声を掛けて出て行くのは変わりないけど、それにしてもこの大書庫は広すぎる。入り組んだ本棚の配置はまるで迷路だ。一体どこにいるのやら、ここから人一人を見つけるのはやや骨だな。
1階をくまなく探した後、2階へと足を踏み入れる。本棚のラベルを見る限り、2階は1階と異なり歴史書や学術書などは置いておらず、小説や童話などといった娯楽的な書物が目立つ印象だった。
元々、歴史や学術書を読んだことなどてんでなかったし、どちらかというとこういう小説とか一般的で俗な読み物ばかり読んでいたため、どうしてもこちら側に親近感を覚えてしまう。とはいえそのほとんどが漫画やラノベではあるが。そう思うと、こちらの世界の小説とやらにも興味が湧いてきた。今度機会があれば読んでみよう。
そんなことを考えつつ本棚の隙間を抜けた先、少し開けた空間においてとんでもない光景を目にする。
「…………」
「…………」
目が合ってしまった。言い逃れなど出来ようはずもないだろう。
そこに居た、彼女は居た。
椅子に腰かけ、足を組みそれを脚立に上げて、優雅に本を読みふけるメイドの姿が、そこには居た。
床には2時間前に目にした時に見たものと同様の掃除用具が投げられており、とても真新しくそれは使用した様子には見えなかった。
簡潔に、端的に言うと、彼女はサボっていた。
「……見てしまいましたね」
「え」
ゆっくりと、静かにそう呟きながら、彼女は立ち上がった。
「こうなったら、どうにかして貴方の口を封じる他ありませんね」
「えっ」
重苦しい空気を漂わせながら、ゆっくりとこちらへ歩み寄るメイドさん。
その様相からは尋常ではない雰囲気を醸し出していた。
ま、まずい。口封じだと──!? これは間違いなくバッドエンドの予感、明らかにルート選択をミスった流れ!? ここで彼女の秘密を知ってしまい、口封じのため殺されるかどこかに監禁されてしまう、そんなパターン! 幸いにもここには僕と彼女の二人きり、彼女の犯行を阻むものは一切存在しない! やばい、誰か助けて──!
そんなこんなで色々と思考を巡らせていた最中、視線を戻すと彼女は既に僕の目の前まで近づいていた。
悲鳴というより、あわや奇声を上げかけるがなんとか堪える。そんな僕の様子に構うことなく、彼女はその口をゆっくりと僕の耳元へと近づけ、囁くような声音でこう告げた。
「……晩御飯のおかずを一品増やしますので、どうかこのことは内密に」
「それで手を打ちましょう」
僕は喜んで承諾した。
胃袋を掴まれると人は弱い、というのは本当らしい。彼女にそんなことを言われては、僕には言うことを聞くしか選択肢がないのだ。
そんな僕の様子を見てか、彼女はホッとしたように微笑んで胸をなでおろした。
「良かった……もし断られていたら、その時はお客様を監禁する他ありませんでしたから」
「最初のプランと比較して野蛮が過ぎるのでは!?」
すると、僕のオーバーリアクションが余程面白かったのか、彼女は堪えきれず静かだが吹き出すように笑った。
「フフっ…………はっ、失礼しました」
「ああ、いえ。別に構いませんよ」
物静かで真面目な女性。そんなイメージだったためか、彼女のこの姿は衝撃的だった。
まさしく意外な一面を見た──その一言に尽きるだろう。些か以外過ぎる光景ではあったが。
「時にお客様、なにか御用でも?」
「いえ、別にそういうわけじゃないんですけど、そろそろ執務室に戻るので一声かけて行こうかと」
「左様でございますか。お気遣い痛み入ります、お客様」
深々と頭を下げて、彼女はそう言う。さっきの光景は衝撃的ではあるけれど、やはりこう見ると優秀で真面目なメイドさんにしか見えない。
「では、僕はこれで」
「はい、私はもう少しここでサボ────……コホン、清掃を続けますので」
今サボりって言おうとしたな、彼女。
彼女の本当の姿は一体どちらなのだろう、そんなことを考えながら出口へ向かおうと踵を返す。
「そういえば、メイドさん──あなたの名前はなんて言うんです?」
ふと思った、彼女の名前はどんなだろう。
本当にふと、気まぐれのようなものだった。
「名前ですか?」
きょとんとした表情で、目を丸くする彼女。
「一ケ月もお世話になるんですし、名前くらい知っておきたいかなと思いまして」
口から出まかせに、息を吐くように適当な言い訳を並べる。
なにせ本当にきまぐれだったのだ、理由なんかあるわけがない。
そう言うと数秒の沈黙を挟んだ後、彼女は静かに微笑んで僕の問いに答えた。
「エレイナです。エレイナ・ラクトヴィエリ」
微笑み、髪を耳にかけながら、エレイナさんはそう答えた。
そんな仕草に、思わずドキっとしてしまう。当然だろう、彼女のような美人があんな風に笑うなんて、男ならば誰しもがこうなる。
「エレイナさん、ですね。わかりました、ありがとうございます」
「お客様のお名前も教えてはいただけませんか?」
僕が再び踵を返して、出口に向かおうとしたその瞬間、彼女もまた僕にそう問いかけた。
悪戯っぽい笑顔を浮かべる彼女からは、普段感じるクールな雰囲気ではなく、まるで少女のような活発さを垣間見得た。
「ミヤイリョウです。ミヤイが姓で、リョウが名です」
「ミヤイ、リョウ様……」
反芻するようにそう呟いたエレイナさん。次いで、再度深々と頭を下げて、こちらへと視線を向けて口を開く。
「……長々とお引止めして申し訳ございません、リョウ様。午後からの護衛も、どうぞお気を付けくださいませ」
そう言って僕を見送ったエレイナさん。その姿は紛れもなく、真面目で非の打ちどころもない普段の彼女の姿そのものだった。
大書庫を外にし本館の執務室へと戻る道中、先程のやりとりを思い出す。
普段真面目な人間ほど、ああいう一面を見せられると驚いてしまうというか、同時に安心もしてしまう。やはり人間誰しも、欠点や隠したい一面というものが存在するのだろう。完璧な人など、この世に存在しないものだ。
しかしまあサボりとは言え、実際他の仕事は完璧にこなしているわけだし、少しくらいはいいのではなかろうか、とも思う。なにせこの屋敷に来て不満に感じたことなど何一つないのだ。それはひとえに、彼女らメイドの仕事が実に優秀だということに起因するだろう。
例えば、この廊下や先の大書庫だってそう。埃ひとつ落ちておらず、常に清潔で綺麗なままだった。こういった仕事ぶりからも、少しくらいハメを外すのは許容して然るべきだ。この広大な敷地全てにおいて完璧なまでに仕事をこなしているのだから、サボりのひとつやふたつ目をつぶるのもやぶさかではない。まあぶっちゃけ、それは彼女個人のみならず他のメイドさんたちの手による功績でもあるわけなのだが。
「そういえば僕はここに来てから、エレイナさん以外のメイドさんを見たことがないな」
僕に屋敷の案内をしたり、食堂での給仕だって全部エレイナさんがやっていた仕事だ。
まさか彼女ひとりが、この屋敷を管理しているはずもない。だって不可能だ。たった一人でこのバカでかい屋敷を管理し、清潔に維持し続けるなど到底無理だ。それは人間一人の許容範囲をゆうに超えているし、誰にも不可能な芸当だ。
それに先ほどの彼女の口ぶりからも、少なくとも料理は彼女の担当だと見て取れる。屋敷の管理だけでなく料理までメイドの仕事だと言うのだから、さすがに彼女以外にもメイドが存在するはずだ。そうに違いない。きっとまだ他のメイドさん達とエンカウントしていないだけだろう、そうだろう。
そんなことを考えながら、廊下の角を曲がり本館のエントランスホールへと足を踏み入れる。
執務室は二階に存在し、二階へ上る階段はここエントランスホールに存在するのだから、当然だろう。
であれば、階段の方へと目を向けるのも必然。その瞬間、僕は文字通り固まってしまった。
「御機嫌好う、リョウ様」
二階。手すりを掴みながら、階段より降りてくるメイドの姿。
金髪をポニーテールで結んだ碧眼の女性。その姿はまさしく、つい先ほど大書庫にて別れたばかりのメイド、エレイナ・ラクトヴィエリのそれに相違ない。
彼女は一礼した後、何事もなかったように僕の横を通り過ぎ、そのまま廊下の先へと消えて行った。
「…………」
言葉は出なかった。息をするのも忘れていたほどだ。まるで狐にでもつままれたような気分だった。
見間違いか? そんなわけない。あの容姿、あの声、あの全てが大書庫でやりとりしたエレイナさんのそれに違いなかったのだから。
「じゃあ、双子だろう」
そうだ、双子だ。それならば説明が付く。
声も顔もすっかり本人そのもの。双子というのなら納得できるだろう。
きっとそうだろう、そうに違いない。
僕は半ば強制的に、そう結論づけた。そういうことなのだと納得した。納得する他になかった。じゃあ一体何故、僕の名前を知っていたのだろうか?
名前:エレイナ・ラクトヴィエリ
概要:ベトラクトの屋敷にてメイドとして働いている。
金髪碧眼で物静かな雰囲気漂わすクール系美女。
何故ふたり居るんだ……?
所属:ベトラクト邸
身分:《メイド》
出身:アエーシュマ大陸 プリマールスキイ地方 ヴァヴラヂ・ストローク市
性別:女
年齢:19歳
誕生日:5月10日
血液型:A型
身長:161cm
体重:51kg
使力:???