殺戮の地より(三十と一夜の短篇第72回)
ムーサイよ、歴史を謳うクレイオよ。見て、聞いて、書き記してください。
伯爵夫人、貴女は気にならないのですか?
薔薇や麝香の香水を振りかけ、暑い国から取り寄せた葡萄酒の香りを日毎楽しむ貴女の鼻には、この血の匂いが感じられなかったのでしょうか?
匂いに慣れてしまって全く気にならなかったというのでしょうか?
それとも違う信仰を持つ者の血などいくら流れても、羊や豚同様だとでも思っているのですか? 正しい信仰を持たないと貴女方がみなした者たちは救われるべき魂を持たなかったとでも?
ええ、貴女は貴族や富豪を親に持ち、夫は古い時代からの東欧貴族で、伯爵の爵位をお持ちです。結婚して貴女は伯爵夫人と呼ばれておいでです。額に汗して働く人間とは階級が違います。貴女は自分の髪を梳かすのだって人にやらせる貴婦人です。
だからといってキリスト教徒を円形闘技場で獣に引き裂かせた古代ローマの暴君さながらに、キリスト教徒の貴女は宴の余興に異教徒が死ぬのを眺めていたのですか? 捕らえられ、厳しい労働に従事させられ弱り切ったかれらを一思いに死なせてやるのが情けだとでもお考えでしたか?
わたしたちは貴女の屋敷で働いた身、この村で土を耕し、馬を肥やす仲間を持つ身、多くは申せません。
連合国の軍が極東の国の首都を爆撃したとラジオで報道が流れましたが、言葉通りわたしたちには遠い国の出来事でした。わたしたちには第三帝国と連合国の共産主義の国との戦いこそが身近な恐怖でした。
キリスト教の春の祭日の一つの夜、第三帝国の将校が強制労働に就かせていた二百人近くのユダヤ系の人々を引き出させ、シャベルを渡して地面を掘るよう命じました。掘り終わると、今度はその穴に沿って皆で並んでひざまずけとご命令になりました。命じられる方は自らの運命を悟り、それでも人間がこんな気紛れを起こしていいはずがないと信ずる神に祈るほかありません。既にこの人たちは絶望と疲労で心をくじかれていました。度重なる暴力と理不尽に屈して、抵抗し、大声で拒否を伝える気力を残されていませんでした。
貴女の城で祭りの宴に興じていた方々は第三帝国の将校に誘われ、外に並ぶかれらの前まで行き、銃を手渡されました。お歴々は将校や軍属と混じってかれらを撃ちました。
貴女方には宴の余興に過ぎなかったでしょう。狩猟か何か、撃つ対象がたまたまユダヤ系の人たちだったと、心を痛めもしなかったのでしょう。
生き残った人たちに土を掛けておけと声を掛けて、貴女方は城に戻って宴を続けました。
度重なる暴力と血と火薬と死に、感覚が麻痺していたのはかれらと貴女方とどちらだったのでしょうか? 生きる希望を失っていたかれらと、人を人と思わない行為をした貴女方と。
わたしたちは何も見ず、聞かず、語れません。しかし、強制労働に従事していたはずの二百人近くの人たちは、一晩のうちに一体何処に消えたのですか?
わたしたちは永遠に続くかと耳を塞ぎたくなった数々の銃声、喘ぎ苦しみ、こちらのはらわたをもえぐってきそうな悲鳴が記憶から消せません。土に埋めたはずでも漂ってくる血の匂い、死臭は春の陽気が強まる時期に誤魔化せませんでした。
伯爵夫人、わたしたち領民は黙って受け入れなければなりませんか? ご自分が長年暮らした領地を汚し、戦争が終われば口を拭って中立国に逃げ出して、あんまりではございませんか? わたしたちが先祖の代から尽くしてきた領主への忠誠の代価がこれなのですか?
虐殺の地と我が故郷の名を呼ばれるのを耐えねばならぬわたしたちの気持ちを慮ってください。せめて貴女が可愛がる競走馬くらいには気に掛けてください。
貴女は生まれてから死ぬまで、飢えも渇きも知らず、労働に喘ぐことなく、暴力に怯えることなくお過しになりました。敗北者の側となって慌てて領地を捨て去らざるを得なくなっても、戯れに銃で撃たれるより些細なことです。生家の縁で遊んで暮らせるお金をお持ちです。共産主義の国の影響下、かつての小作人の納屋に間借りして雨風をしのがねばならなくなった貴族がいたなんて信じられもしないでしょう。貴女はどこまでも恵まれていらっしゃった。
神ならぬ身では叶わぬのでしょうが、どうか心に痛みを感じてください。良心が痛むと判れば、貴女もまた赤い血が流れる人間だと安心できるでしょう。
人は戦争犯罪の法廷で貴女を裁くことができませんでした。けれども人の歴史が続く限り、貴女は驕った特権階級の女性、虐殺に関わった女性と糾弾され続けます。いかなる権力、財力、権威をもってしても、貴女は後世の評価に一切抗弁できません。
クレイオよ、怯えるわたしたちの代わりにどうか語り伝えてください。