最終章「SAGASAGA」6節:世界の観測者たち
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
「……カウントダウンを。各セクター、同期確認」
Sカンパニーの管制室に、哲人の静かな声が響く。モニターには、世界中から選ばれた数千人のαテスターたちが、自室や避難所でVRデバイスを装着し、固唾を呑んで待機している様子が映し出されていた。
40歳。人生の正午を過ぎた哲人は、教壇に立つ時と同じく、背筋を真っ直ぐに伸ばし、正面のカメラを見据えた。
「諸君。これより、我々人類にとって最も壮大な社会実験を開始する。……接続開始」
哲人がエンターキーを押した瞬間、世界中のテスターたちの視界は、白銀の光に包まれた。そして数秒後、彼らの目の前に広がったのは、かつての鹿島市の風景をベースにしながらも、重力と色彩が音楽のように調和した、息を呑むほど美しい「新世界」だった。
「……これが、SAGA SAGA……」
通信回線から、テスターたちの嗚咽に近い感嘆が漏れる。
アバター・エンジン『結』が正常に機能し、テスターたちは「自分が自分であることを確信する姿」で、その地を踏みしめていた。
「皆に告ぐ。私は緒妻哲人だ。今日この日から、君たちはこの世界の『観測者』となる」
哲人は、仮想空間内の広場にホログラムとして現れ、最後の一講義を始めた。その姿は、25歳で憂と結婚し、無我夢中で学問に打ち込んでいた頃の情熱と、40歳になって愛する家族を守り抜いた後の深い慈愛が同居していた。
「経済学において、幸福とは資源の配分であるとされてきた。だが、このSAGA SAGAにおいて、幸福とは『他者の存在を肯定すること』によって生成される。工学的に言えば、君たちの共感が、この世界の描画解像度を決定するエネルギーとなるんだ」
哲人の言葉は、単なる理論を超えていた。
かつてKOVID-666の恐怖に震え、他者を疑い、自己を喪失しかけた人々にとって、哲人が語る「共感による世界の維持」は、魂の救済に他ならなかった。
「教授! ここには……痛みがありません。でも、確かに『生きている』実感がします!」
若き教え子の一人が、アバターを通じて叫ぶ。哲人は微かに微笑んだ。
「痛みがないのではない。痛みを分かち合うための『余白』を、工学的に設計したのだよ。……かつて私は、完璧なシステムこそが理想だと信じていた。だが、27歳で父になり、40歳になった今、ようやく分かった。世界に必要なのは完璧さではなく、不完全な者同士が寄り添える『温かさ』なのだと」
その講義を、現実世界の管制室で、憂は静かに見守っていた。
モニター越しの夫の背中は、15年前よりもずっと大きく、頼もしく見えた。神である彼女が直感で求めていた「調和」を、哲人は論理と技術で見事に翻訳してみせたのだ。
「哲ちゃん……あなたの講義、今日が一番カッコいいわよ」
憂の独白は、哲人の耳元のインカムに届く。
哲人はカメラに映らないよう、一瞬だけ優しく目を細めた。
「……講義を続ける。SAGA SAGAは完成したのではない。君たちの観測によって、これから無限に『成長』を始めるのだ。……この世界を、君たちの手で、最高に美しい物語にしてほしい」
哲人教授の「最後の講義」は、絶望に沈んでいた人々の心に、消えない火を灯した。
αテストは成功。世界は、単なるデータの集積から、数億の意志が紡ぐ「生命体」へと進化を始めた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




