最終章「SAGASAGA」2節:経営戦略
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
翌朝、Sカンパニー本社ビルの最上階。昨日の静寂とは打って変わり、そこには張り詰めた緊張感と、未知なるものへの熱気が渦巻いていた。
大型モニターには、世界各地のトップ大学や研究機関に所属する哲人の教え子たち――いわば世界最強の頭脳集団の顔ぶれが並んでいる。かつて哲人の講義を最前列で受けた若き天才たちは、今や各国の工学・経済学の第一線で活躍するエリートとなっていた。
「教授、久しぶりの講義が、まさか『世界の再構築』だとは思いませんでしたよ」
モニター越しの冗談に、哲人は口角をわずかに上げ、中指で眼鏡を押し上げた。その表情は、教壇に立つ厳格な教授のそれであり、同時に冒険を前にした少年のようでもあった。
「君たち。私はかねてより講義の中で、経済学とは『幸福の分配技術』であり、工学とは『理想の具現化』であると説いてきた。今、その定義が試される時が来た」
哲人は手に持った万年筆を、電子ホワイトボードへと走らせた。そこには、複雑な多変量解析の数式と、ネットワークのトポロジー図が組み合わさった、全く新しい「世界の設計図」が浮かび上がる。
「ナイが遺したKOVID-666の残滓……それは現実を悪夢に塗り替える『負のエネルギー』だ。しかし、熱力学第二法則を逆手に取れば、この混沌は、秩序を構築するための巨大な燃料になり得る」
哲人の言葉に、会議室の空気が震える。工学的な「エネルギー変換」と、経済学的な「資源最適化」。二つの博士号を併せ持つ彼にしか描けない、異次元の戦略だった。
「哲人さん、準備はいいかしら」
会議室の扉が開き、緒妻憂が姿を現した。彼女は哲人の愛妻としての柔らかさを脱ぎ捨て、Sカンパニー社長としての静かな威厳を纏っていた。
「憂さん。プロジェクトの基本構造は完成した。後は、これを実体化させるための『器』と『循環』だ」
憂は哲人の隣に立ち、モニター越しに並ぶ天才たちを見渡した。
「皆さん。Sカンパニーは本日、経営指針を大幅に変更します。私たちの目的はもはや、神話的脅威からの防衛ではありません。人類が失った『日常』を、物理法則の制約を受けない次元……メタバース『SAGASAGA』に再定義することです」
憂の宣言。それは、Sカンパニーがこれまで蓄積してきた予算と技術を、すべて「創造」へと転換することを意味していた。
「40歳という年齢は、世間では成熟と呼ばれます」
哲人は、自分と憂が歩んできた15年の歳月に思いを馳せる。
「25歳で君と結婚した時、僕は愛する一人を守るために学問を磨いた。27歳で父になった時、子供たちのために社会を守る術を考えた。そして今、40歳の僕は、全人類のために新しい世界を創る責任があると考えている」
哲人の独白には、40歳という節目を迎えた男の覚悟が滲んでいた。彼はただの学者ではない。愛する者を守り抜くという執念を、今度は知的な創造性へと昇華させているのだ。
「教授、一つ質問が」
モニターの向こう側から、教え子の一人が尋ねる。
「SAGASAGA内での通貨価値はどう担保されますか? 仮想空間での経済崩壊は、現実以上に悲惨な結果を招きます」
哲人は不敵な笑みを浮かべた。
「そのために経済学がある。労働ではなく、貢献と慈愛が価値を生成するアルゴリズムを導入する。……社長である憂さんの『調和』を、数式化したものだ」
「あら、責任重大ね」
憂は微笑み、哲人と視線を交わした。
工学と経済学、そして神性。
論理と直感、そして愛。
Sカンパニーは、人類史上最大の投資を「未来」に向けて開始した。
「さあ、始めようか。君たちの人生で最も困難で、最も誇らしい仕事になるはずだ」
哲人の指揮棒が振り下ろされるように、キーボードの打鍵音が鳴り響く。
後に「もう1つの宇宙」とまで称される仮想現実世界であるメタバース「SAGASAGA」は、実数と虚数の狭間でその産声を上げようとしていた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




