最終章「SAGASAGA」1節:種を蒔く哲人
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
佐賀県鹿島市を覆っていた、あの粘液質の空が嘘のように晴れ渡っていた。
しかし、晴天が照らし出したのは、神話的パンデミック『KOVID-666』が残した無残な爪痕だった。現実の境界線が崩落した街には、今もなお物理法則が微かに歪んだ空間が、陽炎のように揺らめいている。
「……計算通りではあるが、やはり情緒に欠ける光景だな」
地下のシステムルームから数週間ぶりに地上へと戻った緒妻哲人は、自身の眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、静かに呟いた。
40歳。海外トップ大学で教鞭を執り、工学博士と経済学博士という二つの頂を極めた「知の巨人」にとって、この光景は単なる破壊の跡ではなく、書き換え可能な「不完全なデータ」の集積に見えていた。
彼が25歳で最愛の妻、憂と結婚してから15年。
その歳月の中で、彼は数多の理を解き明かしてきた。しかし、今回の事態は彼をして「難題」と言わしめるに十分な、神話的混沌がもたらしたバグだった。
「哲人さん、お疲れ様」
背後から、柔らかく、それでいて全宇宙の重心を安定させるような凛とした声が届く。
振り返れば、そこにはSカンパニーの社長であり、全宇宙を統べる「大神様」としての顔を隠し、一人の妻として微笑む緒妻憂が立っていた。
「憂さん。……システムルームの防衛コードは、すべて正常にパージした。だが、問題はこれからだ」
哲人はポケットから使い古された万年筆を取り出し、手に持っていたタブレットの黒い画面を、まるで黒板に見立てるかのように指し示した。
「インフラの復興、物流の再構築、経済の循環。それらは工学と経済学を駆使すれば、数年で元に戻せる。だが、一度『現実が悪夢に塗り替えられる』のを目の当たりにした人々の精神的均衡(ナッシュ均衡)は、そう簡単には元に戻らない」
哲人の言葉は、教授として壇上に立つ時のような、鋭く、透明な響きを帯びていた。
「人々には、新しい『定義』が必要だ。肉体という檻、物理という制約に縛られず、それでいて現実と同等の、あるいはそれ以上の実感を伴う精神の拠り所が。……僕は、それをこの地に作りたい」
「それが、あなたが言っていたプロジェクトね」
憂は、夫の視線の先にある未来を見通すように目を細めた。
「ああ。プロジェクト名は『SAGA SAGA』。かつて僕たちが愛したこの佐賀(SAGA)の地を、永遠の物語(SAGA)へと昇華させるためのメタバースだ」
哲人は、まだ20代の頃に憂と誓い合った日々を思い出していた。
25歳。若く、野心に溢れていた彼は、工学で世界を便利に、経済で世界を豊かにできると信じていた。40歳になった今、彼は確信している。知性とは、ただそこにある現実を分析するものではなく、愛する者が安らかに眠れる「世界」を創造するためにあるのだと。
「工学的数式によって物理法則をエミュレートし、経済学的ゲーム理論によって秩序を維持する。そこに、君の温かな調和を加えてほしいんだ。これは僕一人の知性では完成しない」
「ふふ、最強の布陣ね」
憂は夫の隣に並び、共に荒廃した鹿島市の空を見上げた。
「Sカンパニーの全リソースを使いましょう。教授。あなたの設計図を、私がこの手で現実に変えてあげる」
知の巨人と、その妻(真実は宇宙最強の神)。
その二人が手を取り合った瞬間、人類史上最も壮大で、最も緻密な「再創造」のカウントダウンが始まった。
哲人は、タブレットの画面に最初の一行を書き込んだ。
それはプログラミングコードでも、経済学的定理でもない。
『Genesis of SAGA SAGA: In the beginning was the Will.』
彼の万年筆の先から、新しい世界の「種」が、確かにこの地に蒔かれた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




