第9章 「神々の黄昏」6節:母から受け継ぎし力
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
触手の尖塔、最上階直下の「深淵の踊り場」。
そこはもはや物理的な空間としての体をなしていなかった。床は巨大な眼球の集合体が「鱗」のように敷き詰められて蠢き、壁面からは黒い「粘液」が滝のように流れ落ちては、重力を無視して天井へと昇っていく。空気は「多重音声」のノイズで重く、吸い込むたびに存在の輪郭が削り取られるような錯覚に陥る。
「……ここまで、来たのね」
緒妻明来は、Sカンパニー製の特殊防護衣に身を包みながら、乱れた呼吸を整えた。その声は、震えながらも確かな意志を宿した少女のものだ。
「明来ちゃん、大丈夫!? 無理しちゃだめだよ」
「そうよ。この先の神話汚染は、お父さんのデバイステクノロジーでも防ぎきれない」
明来の隣に立つ、明来の父親である緒妻哲人が、明来の並び立ち、その肩を抱く。
「大丈夫よ、お父さん。私だって、緒妻家の娘だもの。……それに、お母さんとの約束があるわ。みんなで一緒にお家に帰って、お夕飯を食べるって」
明来が「お母さん」――憂の名を口にした瞬間、空間を支配していた不快なノイズが一瞬だけ凪いだ。その隙を逃さず、ナイの「節足」を模した巨大な鎌が虚空から振り下ろされた筈だった……。
グエエエエエ…と言う絶命する呻き声だけが聞こえ、怪物の姿は存在してなかった様に霧散して消え去ってしまった…。
父親である緒妻哲人と、通常では到達する事さえあり得ない、この塔の最上階直下の「深淵の踊り場」まで、来れた理由が、そこにあった。
怪物は現れ、哲人や明来を狙って来るが、先程の様に、霧散して消えてしまうのだ。
当初は哲人が、明来の身の心配を案じて、触手の尖塔への進入を頑なに引き留めたが、消息不明になっている明来の親友である珠花や叶恵お姉さんの身を案じる気持ちと、愛する妻である「憂」が哲人に言った言葉。
「明来は既に無自覚だけど覚醒してしまったから、何も危ない事は絶対に起きないから…」の一言。普通の父親なら、多感な時期の娘の行動を止めるべきだが、哲人には、それが何故か出来なかった…。
そして、妙な憂の言葉への確信が、彼の存在してきたような記憶の既視感が、その決断をさせたのだ。
(兎に角、危なくなったら逃げればよい。ただ、何も危険な事は起こらない、理解できない確信…)
そして、事実、何事も無く、この不快極まりない場所まで、やってきた…。それが全てだった。
明来はデバイスを展開し、現実の「再定義」を開始した。彼女が打ち込むコードの一つ一つが、鱗だらけの空を、一瞬だけかつての鹿島市の青空へと書き換えていく。
その様子を、遥か下方の「前線カフェ」内で、憂は静かに見守っていた。
「あらあら、明来ちゃんったら、あんなに頑張って。……バステトちゃん、お鍋の火、少し弱めておいてくれる? 帰ってきたら、熱々のシチューにしてあげたいから」
「……御意に、大神様。お嬢様たちの道行き、このバステトも、魂を賭してお守りいたします」
バステトが恭しく頭を垂れる。店外に溢れる「粘液」や「異形」は、憂が放つ絶対的な日常のオーラに触れた瞬間に消滅し、そこだけが神話の黄昏から切り離された聖域となっていた。
「さあ、行ってらっしゃい。私の家族たち」
憂の柔らかな微笑みが、時空を超えて最上階へ向かう四人の背中を、優しく、力強く押し上げた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




