第9章「神々の黄昏」 第5節:因果の断層、母なる慈雨
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
佐賀県鹿島市――かつて肥前路の宿場町として栄えたその街は、今や「現実」という皮を剥ぎ取られ、ナイの悪夢が具現化した粘液質の迷宮へと変貌していた。
空には太陽も月もなく、ただ幾何学的に配置された数千の瞳が、狂った星辰のように瞬いている。街路を流れるはずの風は、何万もの死者の嘆きを重ね合わせた多重音声となって耳を打ち、重力は気まぐれにそのベクトルを変え、建物の破片が空中で静止したまま脈動を繰り返していた。
「……はぁ、はぁ、……っ。ここ、は……?」
珠花は、触手の尖塔――その第三階層「忘却の回廊」の淵で、膝をついていた。
周囲の壁面は石造りのそれではなく、剥き出しの巨大な多脚亜目の節足が編み込まれたような不気味な構造体だ。一歩歩くたびに床からは黒い粘液が染み出し、彼女の精神を削り取ろうと「神のささやき」がノイズとなって脳内に響く。
「珠花ちゃん、しっかりして!」
背中を支えたのは、同じく満身創痍の叶恵だった。彼女の漆黒の装束も、ナイの眷属による度重なる攻撃で端々が裂け、そこから覗く肌には、現実崩壊の余波である虹色の鱗が薄く浮かび始めている。
「大丈夫、お姉ちゃん。……ただ、少しだけ『重い』の。この場所の、絶望が」
「弱音を吐くなと言いたいところだが……今のこの状況では、無理もないか」
二人の前に、空間を歪めながら「それ」が現れた。
ナイの分身。数多の触手と、人間の赤子のような顔が鈴なりになった、存在自体が冒涜的な巨躯。
『ムダダ。スベテハ……忘却サレル。因果ハ断タレ……無へと還ル』
重なり合う声が、空間の分子を振動させ、破壊の波動となって二人を襲う。
その時だった。
「――あらあら、随分と騒がしいわね」
ノイズだらけの世界に、あまりにも不釣り合いな「日常」の音が響いた。
お玉が鍋の底を叩くような、あるいは洗濯物が風に揺れるような、穏やかで絶対的な安らぎ。
「え……?」
「この声……」
二人が振り返ると、そこには空間の歪みを無視して立つ、一人の女性の幻影があった。
エプロン姿のまま、買い物籠を提げているかのような自然体。緒妻憂――この「宇宙の真理たる存在」の思念体だ。
「憂姉さん!の幻影…。」
「憂姉さんが、どうしてここに……!」
陽炎の様に形は保ちながらも、どこか薄らげな現れた憂の姿に困ったように微笑み、そっと二人の頬に手を伸ばす仕草を見せた。
「二人とも、そんなに怖い顔をして。……いい? 世界がどんなに姿を変えても、あなたたちが紡いできた『時間』まで消えたわけじゃないのよ。明来ちゃんも、お家でいい子にして待っているわ」
憂の言葉と共に、彼女の周囲から柔らかな光が溢れ出した。それはナイの散布した「KOVID-666」の汚染を焼き払う光ではなく、ただ「そこにあるべき姿」を思い出させるような、温かな慈雨。
『ヌウッ……オオ……ミカ…ヅ…! 観測、ヲ、ヤメ……!』
ナイの分身が突如、苦悶の声を上げる。憂が「観測」を続ける限り、この崩壊した世界はかろうじて「世界」としての形を繋ぎ止めてしまうからだ。
「さあ、珠花ちゃん、叶恵ちゃん。晩ごはんの時間までには、まだ少しあるけれど……そろそろ、終わらせてしまいましょうか」
憂の慈愛に満ちた眼差しに、二人の心から恐怖が消えた。
立ち上がる。未来を紡ぐ意志と、宿命をほどく覚悟を胸に。
「いくよ、姉さん!」
「ああ、合わせてやる!」
二人は同時に、天へと手を掲げた。
「ウェーイク・ゴッデース!我、未・来・へと続く運・命・を紡ぐもの!」
「ウェーイク・ゴッデース!我、過去から続く宿命をほどくもの!」
純白の暴風と漆黒の雷鳴が、尖塔の階層を突き破る。
「我は創造者! 我は全てを忘却する純白の神風! シュカ!」
「我は破壊者! 我は全てを滅却する漆黒の神雷! 我が名はネガイ!!」
光の中に、二人の女神が降臨した。
憂の幻は、それを見届けると、満足そうに目を細める、まるで台所へ戻るかのように、音もなくその姿を消した。
残されたのは、圧倒的な神性を纏った二人の少女と、死に体となった虚無の怪物のみ。
最終決戦の火蓋は、今、さらに深く、暗く、そして希望に満ちた場所へと切り込んでいく。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




