第8章「魂の胎動」10節:異界のコーヒーブレイク
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
佐賀県鹿島市、その中心部に位置する「前線カフェ」の周囲は、すでにこの世のものとは思えない光景に包まれていた。
空は鱗状の雲に覆われ、重力は時折気まぐれに反転し、遠くでは鉄塔が肉塊へと変貌していく不気味な音が響いている。
だが、そのカフェの扉を一歩くぐれば、そこには驚くほど静謐な時間が流れていた。
「……はい、お待ちどおさま。エチオピア・モカ、中煎りです」
カウンターで丁寧にドリップされたコーヒーを差し出したのは、末美だ。
彼女は店内の平穏を保つため、細心の注意を払って「神性」の出力を調整していた。店の周囲には彼女が張った結界があり、神話的パンデミック『KOVID-666』の汚染を完全に遮断している。
客席には、数人のSカンパニー職員。彼らは現実世界のシステム復旧に追われ、精神を摩耗させていた。
「助かるよ、末美ちゃん。外はもう地獄だけど、ここに来ると正気を保てる」
「ふふ、光栄です。ここはオーナーの慈悲の範囲内ですから」
末美は微笑みながら、カウンターの奥で端末を叩いているショロトルに目配せをした。ショロトルは慣れない手つきで、前線で戦うシュカ(珠花)とネガイ(叶恵)の神力バイタルをモニタリングしている。
「末美……。シュカの出力、また上がってるよ。このままだと現実との乖離が臨界点を超える」
「いいのよ、ショロトル。あの子たちの『信じる力』が大神様の定義を上書きしている証拠だわ。私たちは、彼女たちが帰ってきた時に『ただいま』と言える場所を維持するだけ」
その時、店の裏口から買い出しを終えた憂が戻ってきた。
その腕には、特売の野菜が入ったレジ袋。空の色が神話的に変貌し、多重音声が響き渡る異様な街中を、彼女は「ただの主婦」として平然と歩いてきたのだ。
「ただいま、末美ちゃん。今日も卵が安かったわよ」
「おかえりなさいませ、大神様!……いえ、オーナー」
末美は慌てて「店員」の顔に戻る。
憂はエプロンを締め直すと、カウンターの隅で震えていた新人職員の肩を優しく叩いた。
「大丈夫よ。明けない夜はないし、終わらない神話もないわ。まずは温かいものを食べて、人間であることを思い出して」
憂が差し出したのは、サービスだという自家製クッキーだった。
その瞬間、職員の目から涙がこぼれた。ナイが散布した「現実の定義を奪う毒」が、憂の何気ない慈愛によって中和されていく。
「ショロトル、前線への神力供給ルートを再計算して。珠花ちゃんたちが全力で動けるように、私が少しだけ『運命の糸』を緩めてあげる」
憂の瞳が一瞬だけ、全宇宙を統べる神の輝きを帯びた。
店内に漂う焙煎の香りが強まり、外で荒れ狂う神話の嵐が、わずかにカフェを避けるように逸れていく。
これは、最前線という名の聖域。
世界が崩壊するその瞬間まで、彼女たちはここで「日常」という名の武器を磨き続けていた。
「さあ、末美ちゃん。次のお客さんが来る前に、珠花ちゃんたちのために特製のシチューを仕込みましょうか」
「はい、大神様!」
激戦の裏側で、最強のバックアップ陣は、静かに、そして力強く「家」を守り続けていた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




