第8章「神話の胎動」9節:嵐の前の食卓
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
鹿島市の空は、数日ぶりに「青」を取り戻していた。
だが、その青はどこか人工的で、深い海の底を覗き込んでいるような、吸い込まれるような色彩を帯びている。街のあちこちには、崩壊した鉄塔や、用途不明の「粘膜の跡」が化石のようにこびりついていたが、自衛隊やSカンパニーの特殊清掃班によって、それらは急速に隠蔽されつつあった。
「……ふぅ。やっぱり、お家のお風呂が一番だね」
緒妻家のリビング。
湯上がりの珠花が、バスタオルで髪を拭きながらソファに沈み込んだ。その隣では、叶恵が神妙な面持ちでタブレット端末のニュースをチェックしている。
「珠花ちゃん、まだ安心はできないわ。鹿島市全域に出されていた『正体不明の感染症への警戒宣言』はまだ解除されていない。……ナイが残したあの異物、完全に消えたわけじゃないんでしょ?」
「うん……。でも、憂姉さんが『今は休みなさい』って言ってくれたから。あ、いい匂い」
キッチンからは、トントンと軽快な包丁の音が響いてくる。
緒妻憂は、エプロン姿で手際よく野菜を刻んでいた。その横では、小さな明来が踏み台に乗って、シチューの鍋を一生懸命にかき混ぜている。
「お母さん、もうすぐ? 、おなかぺこぺこ」
「ええ、もうすぐよ、明来。珠花ちゃんたちも呼んできてくれるかしら?」
「はーい! 珠花おねえちゃん、叶恵おねえちゃん、ごはんですよー!」
元気いっぱいの明来の声に、二人は顔を見合わせて微笑んだ。
戦場での死闘が嘘のような、あまりにも平穏な光景。だが、叶恵は知っている。この平穏が、薄氷の上に維持されているものであることを。
食卓には、温かいクリームシチューと、焼きたてのパンが並んだ。
哲人が仕事で遅くなるため、今夜は女性だけの夕食だ。
「いただきます」
声を揃えてスプーンを動かす。
「おいしい……。憂姉さんのシチュー、体中に染み渡るみたい」
珠花の言葉に、憂は微笑みながら自分の器に目を落とした。
「……そう。ナイが撒いた毒は、人の心まで蝕んでしまうから。こうして温かいものを食べて、内側から『定義』し直してあげないとね」
さらりと恐ろしいことを言うバステトだったが、その声には優しさが満ちていた。
だが、窓の外――。
一瞬、街の照明がまたたき、影が不自然に伸びた。
珠花と叶恵の手が止まる。
(……今、何か、嫌な気配が……)
二人が感じたのは、地底のさらに奥底、神話の深層で蠢く「何か」の胎動だった。
ナイは死んでいない。
ただ、次の「貌」を選ぶために、現実の裏側に潜り込んだだけなのだ。
夕食後、珠花たちが眠りについた深夜。
憂は一人、バルコニーに出て夜風に吹かれていた。
背後の影から、バステトが音もなく姿を現す。
「……大神様。観測範囲外の『神話層』で、大規模な地殻変動を確認しました。ナイの残滓が、古の神々の記憶と混ざり合い、一つの形に収束しつつあります」
「そう。いよいよ『黄昏』の準備が整ったのね」
憂の視線の先。
月を遮るように、巨大な「魚鱗の雲」が静かに空を覆い始めていた。
それは、明日から始まる最終決戦――第9章「神々の黄昏」の幕開けを告げる合図だった。
「いいわ。あの子たちがどこまで『未来』を紡げるか、最後まで見守ってあげましょう」
憂の手の中で、一粒の光る「種」が弾け、消えた。
夜が、より深く、重く、世界を飲み込み始めていた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




