第7章「決戦への序曲」1節:静寂を破る影
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
佐賀県鹿島市。祐徳稲荷神社の朱塗りの鳥居が夕日に染まり、長い影が街へと伸びる。
一見すれば、それはいつもの穏やかな夕暮れ時だった。
「はい、お待たせしました。本日の日替わりハーブティーです」
「前線カフェ」の店内に、末美――猫神バステトの落ち着いた声が響く。彼女は完璧な所作でカップを置くと、カウンターの奥で作業をする店長の碧海雫に視線を送った。
「雫店長、仕込みの追加はありますか?」
「ええ、末美ちゃん。明日は団体さんの予約があるから、少し多めに準備しておいて」
「かしこまりました」
雫の指示に頷きながら、末美は密かに店内の隅、憂が座る「いつもの席」へ意識を向けた。
そこには、ノートパソコンを開き、何やら難解な数式と格闘している一人の女性――緒妻憂がいた。
「憂姉さん、お仕事大変そうですね」
学校帰りの珠花が、隣の席に座りながら声をかける。
憂は画面から目を離し、珠花へ向けて柔らかな笑みを浮かべた。
「ええ、珠花ちゃん。最近、デジタル世界の境界線が少し不安定でね。哲ちゃんも会社で付きっきりなのよ。今夜は明来たちと先に夕飯を食べててね」
「わかった! 憂姉さん、無理しないでね」
珠花の屈託のない笑顔。憂はその瞳の奥に宿る「純白の神風」の胎動を感じながら、内心で舌を巻いていた。
(ナイの侵食が、想定よりも早い……。あの子たちを、少し急いで鍛え上げる必要がありそうね)
その時、店内の空気が一瞬だけ凍りついた。
珠花は気づかない。しかし、スタッフの祈里や神那、そして末美は即座にその「異質」な気配を察知した。
カフェの扉が開き、一人の男が入ってくる。
スーツ姿のその男からは、人間らしい体温が感じられなかった。男はカウンターへ歩み寄ると、雫に一枚のカードを差し出した。
「Sカンパニーの緒妻社長に、伝言を」
厨房の奥で在庫確認をしていた叶恵が、その声を聞いて飛び出してきた。
「……! あなた、何者?」
叶恵の鋭い問いかけに、男は感情のない瞳を向けた。
「ナイよりの贈り物です。現実世界の再定義――そのカウントダウンが始まりました」
「なっ……!」
叶恵が動こうとした瞬間、男の姿はノイズと共に霧散し、後には焼け焦げたような「漆黒の灰」だけが残った。
「叶恵ちゃん、今の人は……?」
不安げに尋ねる珠花。叶恵は必死に動揺を隠し、珠花の肩を抱いた。
「なんでもないわ、珠花。……ただの、質の悪いいたずらよ」
叶恵は憂の方を見た。
憂は、依然として「何も知らない一般人の主婦」を演じ続け、不思議そうに床の灰を見つめていた。
「あら……今の、マジックか何かかしら? 末美ちゃん、お掃除お願いね」
「は、はい! ただいま!」
バステトは震える手で箒を手に取った。
彼女にはわかっていた。今の男は、ナイが放った「蕃神」の端末だ。
そして、それ以上に恐ろしいのは、目の前で微笑んでいる「大神様」の瞳が、一瞬だけ、獰猛な戦乙女を期待する戦士のそれに変わったことだった。
鹿島市の地下、そしてデジタル世界の深層で、巨大な何かが蠢き始めている。
珠花と叶恵の、最も長く、最も過酷な戦いの火蓋が切って落とされようとしていた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




