閑話:前線カフェの日常「嵐の前のティータイム」
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
佐賀県鹿島市、初夏の陽光が石畳を白く照らす午後のひととき。
「前線カフェ」の扉を開けると、カウベルの涼やかな音と共に、焙煎された豆の香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
「いらっしゃいませー! あ、珠花ちゃん! いらっしゃい!」
カウンターの中から元気よく声をかけたのは、スタッフ助手の稲穂だった。見た目は小学六年生ほどだが、エプロン姿が板についている。隣では同じく助手の亜都が、慣れた手つきでグラスを磨いていた。二人とも、実際は珠花より年上なのだが、今は地元の小学校に通う「近所の子供」として完璧に日常に溶け込んでいる。
「稲穂ちゃん、亜都ちゃん、こんにちは! 憂姉さんは?」
珠花が学校帰りの鞄を置いて尋ねると、奥のテーブル席から柔らかな声が返ってきた。
「ここよ、珠花ちゃん。今日もお疲れ様」
そこには、店長の碧海雫が淹れたばかりの紅茶を楽しむ緒妻憂の姿があった。その傍らには、猫耳カチューシャをつけたスタッフのバステト――もとい「末美ちゃん」が、神妙な顔つきで控えている。
「憂姉さん! ふふ、今日も綺麗……あ、末美ちゃんもこんにちは」
「……ええ、こんにちは、珠花さん。本日は一段と日差しが強いですから、水分補給は大切ですよ」
バステトは一瞬、憂の方をチラリと見た。珠花の前では「大神様」ではなく「末美ちゃん」として、敬語は使いつつも店員としての距離感を保たなければならない。憂はそれを楽しむように、小さく微笑んで「末美ちゃん、珠花ちゃんに冷たいハーブティーをお願い」と指示を出した。
「は、はい! ただいま!」
バステトが慌てて厨房へ向かうのを見送りながら、珠花は憂の隣に座った。
「そういえば憂姉さん、哲人さんは今日もお仕事?」
「ええ、哲ちゃんたら『SAGA SAGAプロジェクト』の追い込みなんですって。工学博士と経済学博士の肩書きが泣くわよ、あんなに子供みたいに没頭しちゃって。でも、さっき『今日の夕飯は何がいい?』ってメールしたら、『憂の作るハンバーグなら何個でもいける』なんて返ってきたのよ」
憂は困ったように、けれど心底幸せそうに目を細めた。
珠花はその様子を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。世界的に有名なシステム開発者でありながら、家では最高に優しいパパである哲人。そして、彼を支え、自分たちを妹のように見守ってくれる「普通の主婦」としての憂。
この平和な緒妻家の日常こそが、自分が守るべき宝物なのだと、珠花は改めて心に刻む。
「いいなぁ、哲人さんと憂姉さん。私も、明来ちゃんたちと一緒に後で緒妻家に遊びに行ってもいい?」
「もちろんよ。明来も喜ぶわ。あの子、珠花ちゃんが来るといつもよりお喋りになるんだから」
カフェの隅では、てちち(ショロトル)が足元で丸くなり、平和な寝息を立てている。
これから訪れる神話級の激闘など、今はまだ微塵も感じさせない。
「お待たせしました、珠花さん。雫店長特製の、リフレッシュ・ハーブティーです」
バステトが差し出したグラスの中で、氷がカランと涼しげな音を立てた。
前線カフェに流れる穏やかな時間は、戦乙女としての宿命を背負う珠花にとって、何物にも代えがたい「初期化」のひとときだった。
物語の断片:その後の緒妻家にて
夕暮れ時、帰宅した憂を待っていたのは、末娘の樹と長男の陽、そしてキッチンでエプロンを着けた哲人だった。
「おかえり、憂。今日はカフェで珠花ちゃんと会ったんだって?」
「ええ、哲ちゃん。あの子、どんどん素敵なお嬢さんになっていくわ」
哲人は鍋の火を止めると、憂の肩に優しく手を置いた。
「彼女たちが進む道は、僕たちが作るシステムよりもずっと複雑かもしれない。でも、帰ってくる場所だけは、僕たちが守っていようね」
「……ええ。それが私の、一番の願いだもの」
規格外の神格よりも、宇宙の真理よりも。
憂にとって、このキッチンの匂いと家族の体温こそが、守るべき世界のすべてだった。
(閑話-閑話「前線カフェの日常」:嵐の前のティータイム-完-)
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




