第6章「輪廻の境界」1節:静寂を裂く
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
仮想の楽園――ナイが作り出したデジタルの檻が霧散してから、一週間が過ぎた。
鹿島市の日常は、まるで最初から何もなかったかのように、平穏な朝を繰り返している。校舎を覆っていたノイズも、生徒たちの虚ろな瞳も、シュカの「忘却」の神風がすべてを白紙に戻してくれたはずだった。
「……ふわぁ。てちち、おはよ。今日もいい天気だね」
珠花は大きな欠伸をしながら、窓から差し込む陽光に目を細めた。
足元では、黒いチワワの姿をしたショロトル――てちちが、微かに鼻を鳴らして外の空気を探っている。
「……珠花、あまり油断するなよ。あのナイって野郎の気配は消えたが、街に流れる『因果』の淀みは、むしろ深まってやがる」
「因果の淀み……? でも、みんな元気に学校に行ってるし、前線カフェも大繁盛だよ?」
珠花はパンを齧りながら、いつものように明来と待ち合わせる準備を始めた。 だが、彼女自身も気づいていた。時折、鏡に映る自分の瞳が、意識とは無関係に「純白の光」を帯びることがある。覚醒が進むたび、人間としての自分が、神話の定義という巨大な濁流に削り取られていくような、そんな淡い恐怖。
***
その頃、緒妻家。憂は、庭に新しく植えさせた青い紫陽花を愛でていた。
「哲ちゃん、見て。この花の色、まるで珠花が覚醒した時の、あの透き通った空の色みたいね」
憂はティーカップを置き、空中に現れた見えない幾何学模様を指先でなぞった。前のページが閉じ、新しいページの空白の紙面が、今まさに彼女の前に広がっている。
「仮想の楽園は壊れたけれど、それによって人々の魂には『新しい隙間』ができてしまったわ。……そこには、ナイのような計算された悪意だけじゃなく、もっと古くて、もっと禍々しい『何か』が入り込もうとしている」
憂の視線の先には――鹿島市の背後にそびえる多良岳の稜線が、一瞬だけ赤黒い光を放ったような気がした。
「……楽しみね、哲ちゃん。今度はどんな風に、あの子たちを『完成』させてあげようかしら。……ふふっ、バステト。あなたも、準備はいいかしら?」
影の中から、カチューシャを直しながら不機嫌そうな猫耳の少女が現れる。
「……御心のままに。大神様(憂)。それにしても、あの不吉な風の匂い……。どうやら、ジャパンの古い神々が、目覚めたがっているようですね。」
静かな日常の裏側で、
――「輪廻の境界」を巡る新たな戦いの火蓋が、静かに切って落とされようとしていた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




