第5章「仮想の楽園」8節:檻の誘惑
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
祐徳稲荷神社の裏手。朱塗りの鳥居が並ぶその奥で、現実の風景は無残に剥がれ落ち、剥き出しのデジタル・グリッドが脈打っていた。 中心に座り込む生徒たちの影は、すでに実体としての重みを失い、ナイの操作する「仮想世界」へと情報の粒子となって溶け出し始めている。
「……珠花、待って。この空間……あいつの支配力が強すぎる」
てちち(ショロトル)が低く唸り、シュカの前に立ちはだかる。 ナイは、座り込む生徒の一人の頭を愛おしそうに撫でながら、シュカを冷たい瞳で見据えた。
「なぜ拒むんだい、シュカ? 彼らを見てごらん。ここにはいじめも、学力への不安も、親との不和もない。望むままの姿で、望むままの自分になれる。これは君が愛する日常よりも、ずっと純粋な『楽園』じゃないか」
「そんなの……ただの逃げだよ! みんなが本当に笑ってるんじゃない。笑わされてるだけだわ!」
シュカが叫ぶと同時に、周囲のグリッドから黒い鎖が伸び、彼女の四肢を縛り上げようとする。
「逃げの何がいけない? 現実という名の地獄で擦り切れるより、夢の中で幸福に死ぬ。それこそが、慈悲というものだよ。……さあ、君も認めるといい。君が守ろうとしている『今日』に、これ以上の価値なんてないことを」
ナイの言葉が、精神の防壁を侵食する。
一瞬、珠花の脳裏に、学校での孤独や、自分の正体に対する不安がフラッシュバックした。
——もし、すべてを忘れて、この心地よいデータの海に身を任せられたら。
「……珠花! 騙されるな!」
てちちの叫びと、胸の奥で共鳴する「世界の基盤」の鼓動が、彼女の意識を現実へと引き戻した。
「……違う。現実は……地獄なんかじゃない。悲しいこともあるけど、お姉ちゃんと食べるご飯や、明来ちゃんと笑い合う時間は、何にも代えられない本物なの!」
シュカの瞳に、透き通った決意の光が宿る。 もはや迷いはない。彼女は、神の力を「自分自身」の意志で定義し直した。
「ウェーイク・ゴッデー ス! 我、未・来・へと続く運・命・を紡ぐもの!」
縛り付けていた黒い鎖が、眩い純白の光に焼かれて弾け飛ぶ。
「我は創造者! 我は全てを忘却する純白の神風! シュカ!」
シュカが両手を広げると、彼女の背から巨大な光の翼が展開された。それは外界の侵食を拒絶する、絶対的な「現実」の防壁。
「私は……みんなを救うために、あなたの創った偽物を全部、忘却してあげる!」
シュカが放った「忘却の神風」が、神社を覆うデジタル・グリッドを真っ向から吹き飛ばす。仮想世界への接続が強制的に切断され、意識を失っていた生徒たちが、一人、また一人と確かな重みを持って地面へと倒れ込んでいった。
「……フフ。面白い。君はあくまで、不自由な現実を選ぶというのか」
ナイは霧のように霧散しながら、最後の言葉を残した。
「だが、世界は広い。君一人の風で、全人類の絶望を消し去れるかな?」
静寂が戻った神社の境内。シュカは変身を解き、倒れた友人のもとへ駆け寄った。その様子を、はるか遠く、別邸の窓から緒妻憂が眺めていた。
「……いいわ。最高に『不自由』で、最高に『美しい』選択よ、珠花。……物語は、いよいよ『再定義』の核心へ向かうわね」
憂は静かにカーテンを閉めた。 彼女の指先には、まだ誰にも見せていない「新しいページ」が握られていた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




