第5章「仮想の楽園」7節:神隠しの街
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
鹿島市の朝は、いつもと変わらぬ静けさに包まれているように見えた。だが、通学路を歩く珠花の耳には、これまでとは違う「音」が混じって聞こえていた。それは現実の雑音ではない。まるで古いテレビの裏側で流れる電子の砂嵐のような、不快な高周波だ。
「……ねえ、てちち。今日、街が少し『薄い』感じがしない?」
珠花の問いかけに、足元を歩く黒いチワワ——てちち(ショロトル)が、鼻をヒクつかせて頷いた。
「ああ、珠花。ナイの奴が蒔いたパンデミックが、実を結び始めてやがる。人間たちの『現実への執着』が剥がれ落ちて、街の定義が脆くなってきてるんだ」
学校に着くと、その違和感はさらに顕著になった。教室のいくつかの席が、ぽっかりと空いているのだ。
「明来ちゃん、おはよ……。ねえ、理央くんと智也くん、今日も休み?」
珠花が隣の席の明来に尋ねると、彼女は虚ろな目でスマートフォンを見つめたまま、力なく答えた。
「……うん。ネットの掲示板で言われてるんだ。彼らはもう『あっち』に行ったんだって。……いいなぁ。私も、早くログインできればいいのに」
「ログイン……?」
珠花が明来の画面を覗き込むと、そこには街の至る所にあるはずのない「二次元コード」が落書きのように表示された画像が溢れていた。それをスキャンし、特定の精神状態に陥った者は、肉体をこの世に残したまま——あるいは肉体ごと——「仮想現実世界」へと消失するという。
「……『神隠し』よ。現代的な、電子のね」
廊下の影から、黄金の瞳を光らせたバステトが現れた。彼女はいつも以上に苛立っているようで、カチューシャの猫耳がピクピクと動いている。
「わらわたちの領域(神話層)を、あんな出来損ないのデジタルデータが浸食するなんて。……お嬢さん、早めに手を打たないと、この学校ごと『あちら側』に持っていかれるわよ」
***
同じ頃、緒妻家では、緒妻憂がテラスの椅子に深く腰掛け、庭のツツジを眺めていた。彼女の膝の上には、夫である哲人の好物な菓子が置かれている。
「キャンバスの端っこが、少しずつデジタルノイズに解けていっているわ。……面白いわね。神話でも科学でもない、人々の『逃避』という感情が、これほどまでに世界を書き換えるなんて」
憂は、空中に浮かぶ不可視の糸を手繰り寄せるような仕草を見せ1人呟いた。 彼女は、この状況を止めるつもりは毛頭ない。むしろ、この「新しい定義」がどのように物語を彩るのかを、純粋に楽しんでいるのだ。
「明来も、少し『揺れて』いるみたいね。……でも、それでいいの。過酷な試練こそが、珠花や叶恵を本物の『主人公』に磨き上げてくれるんだから。……ねえ、そうでしょう?」
憂の独り言に答える者はいない。ただ、風が彼女の美しい黒髪を揺らすだけだった。
***
放課後、珠花とてちちは、最近「神隠し」が多発しているという祐徳稲荷神社の裏手へと向かった。 そこには、現実の空間を歪ませるほどの巨大なデジタル・グリッドが、地面から立ち昇っていた。
「……あ、あれは……!」
グリッドの中心には、数人の生徒たちが膝を抱えて座り込んでいた。彼らの目からは光が消え、影がデジタルのコードとなって地面に溶け出している。
「ようこそ、戦乙女。君は、彼らの『救済』を邪魔しに来たのかい?」
グリッドの奥から、ナイが姿を現した。彼はまるで、新世界の案内人のような、穏やかで残酷な微笑を浮かべていた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




