第5章「仮想の楽園」5節:白き風、黒き
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
鹿島の街を覆う「外界」のノイズは、かつてないほどにその密度を増していた。
空を裂いた「逃避の門」は閉じたはずだが、人々の心に芽生えた「ここではないどこか」への渇望は、現実の定義を内側から食い破ろうとしている。
「……あ、あはは。ねえ珠花、さっきのテストの点数、もうどうでもよくなっちゃった。だって、あっちに行けば……全部書き換えられるんでしょ?」
放課後の教室、親友の明来が虚ろな瞳でスマートフォンの画面を見つめていた。画面には、ナイが流布した「仮想現実世界」への招待状——不気味なデジタル紋様が脈打っている。
「明来ちゃん、しっかりして! それは偽物の世界なんだよ!」
珠花が必死に肩を揺さぶるが、明来の影からは黒い泥のようなデジタルコードが這い出し、彼女の意識を飲み込もうとしていた。
「無駄だよ、シュカ。人々の『逃避』は、もはや止めることのできない濁流だ」
影の中から、ナイが現れた。その姿は以前よりも鮮明になり、この世界における存在強度を増している。
「……バステトさん、てちち! お願い!」
「わかっているわ! 駄犬、お嬢さんのサポートをなさい!」
「誰が駄犬だ! 珠花、魂のままに叫べ!」
珠花は迷わず、髪の「女神の髪飾り」に手を置いた。髪飾りは、憂から贈られた「世界の基盤」と繋がるキーデバイスだ。
「ウェーイク・ゴッデース! 我、未・来・へと続く運・命・を紡ぐもの!」
純白の光が教室を埋め尽くす。
かつてのような暴走の予感はない。ただ、すべてを初期化し、清浄な「無」へと戻す、透き通った神気が吹き荒れた。
「我は創造者! 我は全てを忘却する純白の神風! シュカ!」
天女の装束を纏った珠花——シュカが、右手を振る。
彼女の指先から放たれた「忘却の風」が、明来を侵食していた黒いコードを、その「意味」ごと吹き飛ばした。
「……ううっ。……珠花? 私、何を……」
正気を取り戻した明来。しかし、ナイは余裕の笑みを消さない。
「ほう。忘却によって因果を断ち切ったか。だが、一人を救っても、数万の逃避者は救えない。……さあ、終わり(エンドロール)を始めよう」
ナイが指を鳴らした瞬間、街中に配置されていた外界の楔が、一斉に黒い焔となって噴き出した。
その時だ。
「……珠花だけに、重荷を背負わせはしないわ」
教室の入り口。
いつの間にか、そこには叶恵が立っていた。
彼女の手にあったはずの「Sカンパニー」のファイルは消え、代わりに不吉なまでの漆黒の神気が、彼女を包み込んでいる。
「お姉ちゃん……!? でも、歌ったら……!」
「歌じゃないわ、珠花。これは、私がかつて捨て、そして今、貴女を守るために拾い上げた『罪』の姿よ」
叶恵は漆黒の輝きを纏い、呪文を紡ぐ。
「ウェーイク・ゴッデース! 我、過去から続く宿命をほどくもの!」
爆発的な闇。しかし、それは悪意ではなく、あらゆる因果を焼き切るための苛烈な否定の輝き。
「我は破壊者! 我は全てを滅却する漆黒の業火! ネガイ!」
かつての「歌の女神」は、すべてを無に帰す破壊の女神——ネガイとして、妹の隣に降り立った。
白き風と、黒き焔。
対極の力を持つ姉妹が並び立つ姿を、大神家の別邸から憂は楽しげに眺めていた。
「……ふふ。いいわ、哲ちゃん。キャンバスが一度真っ白になって、そこに新しい『破壊』の黒が乗る。……これこそが、最高のクライマックスの準備ね」
憂の瞳に映るのは、希望か、それとも破滅か。
世界の基盤が、大きく軋み始めた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




