第5章「仮想の楽園」4節:崩壊の前兆
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
「前線カフェ」での騒動から数日。
鹿島市の街並みは、表面上は穏やかな日常を取り戻したかのように見えた。だが、その空気の底には、泥のように重く澱んだ「諦念」が沈殿しているのを、珠花は感じ取っていた。
「……ねえ、明来ちゃん。最近、学校のみんな、なんだか元気がないよね」
放課後の教室。明来と二人、窓の外を眺めながら珠花がつぶやいた。
以前なら部活動の活気ある声が響いていたグラウンドも、今はどこか静まり返っている。多くの生徒が、原因不明の体調不良を理由に早退したり、あるいは登校しても、タブレット端末の中にある「新しい遊び場」に没頭して、周囲との会話を拒絶しているようだった。
「……うん。みんな、現実が『重い』って言ってる。仮想現実世界の話、聞いた? そこに行けば、自分の好きな外見で、好きな能力を持って、嫌なことは全部忘れて暮らせるんだって。……正直、私も少しだけ、羨ましいって思っちゃうよ」
明来の言葉に、珠花の胸がチクリと痛んだ。
ナイのパンデミックは、ウイルスのように肉体を蝕むのではない。人々の「この世界で生きていく意志」を、静かに、確実に削り取っていくのだ。
「……いけないわ。この浸食速度、想像以上だわね」
いつの間にか、足元には黒いチワワのてちち(ショロトル)と、白猫の末美がいた。
……いや、末美の影に重なるように、黄金の瞳をした少女、バステトが不機嫌そうに腕を組んで立っていた。
「わらわの鼻が、外界の腐った臭いを捉えているわ。お嬢さん、ぼんやりしている暇はないわよ。この街の『意味』が、どんどんあちら側に吸い出されているわ」
「バステトさん……。でも、私は……」
珠花が言いかけたその時、空が、奇妙なノイズと共に明滅した。
現実の空がまるで古いモニターのように乱れ、その隙間から、見たこともない巨大な「基盤」の回路図のようなものが一瞬だけ透けて見えた。
「……あら、始まったみたいね」
校門の近く、一台白い大型バイクの影に、緒妻憂が立っていた。
彼女は自分の娘である明来にさえ気づかせぬほどの希薄な存在感で、その「世界の裂け目」を慈しむように見つめている。
「哲ちゃん、見てる? キャンバスが塗りつぶされていくわ。今までの神話も、これからの歴史も、全部が混ざり合って……新しい『箱庭』ができるの。……ねえ、珠花。貴女はそれを、壊す側? それとも、守る側になるのかしら」
憂の囁きは、風に乗って珠花の耳朶を打った。 瞬間、教室の床から黒いデジタルの蔦が這い出し、明来の足を絡めとった。
「きゃっ!? 珠花、何これ……! 体が、動かない……!」
「明来ちゃん!!」
珠花は迷わず、髪の「女神の髪飾り」に手を伸ばした。 恐怖はない。ただ、大切な親友の「今」が奪われることへの、純粋な拒絶だけが彼女の魂を突き動かす。
「……てちち、行くよ!」 「おう! 派手に決めてやれ、珠花!」
珠花は大きく息を吸い込み、魂の底から叫んだ。
「ウェーイク・ゴッデース!我、未・来・へと続く運・命・を紡ぐもの!」
教室全体が純白の光に包まれる。
光の中から現れたのは、天女の装束に身を包み、戦乙女としての神威を纏った少女の姿。
「我は創造者! 我は全てを忘却する純白の神風! シュカ!」
決めセリフと共に、シュカの手から放たれた清浄な風が、明来を縛っていた黒い蔦を瞬時に霧散させた。 しかし、裂けた空からは、さらなる外界の使徒——ナイの配下である「意味の剥奪者」たちが、無数に降り注ごうとしていた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




