第5章「仮想の楽園」 3節:閉ざされるの門と繋ぎ止める今…
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
「前線カフェ」のテラス席の向こう、鹿島の空に穿たれた黒い「門」が、周囲の現実を歪なノイズと共に飲み込んでいく。
「……あ、ああ……楽になれる……」
「現実なんて、もうたくさんだ……」
道ゆく人々が、魂の抜けたような足取りで門へと引き寄せられていく。
ナイの広めたパンデミック——「精神の剥奪」が臨界点を超え、街そのものが外界の理に上書きされようとしていた。
「お嬢さん、ぐずぐずしている暇はないわよ! あの門が完全に開けば、この街の連中は全員、自分から進んでナイの家畜になりにいくわ!」
バステトが黄金の短剣を抜き放ち、門から溢れ出した異形の影——「意味を失った人々の残滓」を切り裂く。 珠花は震える手で髪飾りに触れたが、ナイの声が頭から離れない。
(私が戦えば、みんなはもっと怖がって、あの門の向こうへ逃げたくなっちゃうんじゃないの……?)
「珠花!!」
叶恵の声が、ノイズ混じりの世界を貫いた。 彼女は門から伸びる黒いコードに足を絡められながらも、必死に珠花を見つめている。
「怖いのは、私だって同じよ! でも、もしあの門の向こうに『楽園』があったとしても、そこに今の珠花はいない! 私は、ここで笑って、ここで泣いて、ここで一緒にパンケーキを食べる……そんな不自由で愛おしい『今』の貴女と一緒にいたいの!」
「お姉ちゃん……」
(……あら、叶恵。いいこと言うじゃない)
混乱の極致にある店内で、長女の明来と前線カフェの1番奥の場所で避難している緒妻憂の心の中で呟いた。事実、彼女の周囲数メートルだけは、門の引力も異形の影も一切干渉できない「絶対の静寂」が保たれている。
「珠花、迷うことはないわよ。物語の結末を決めるのは、いつだってその頁をめくる人の意志なんだから。……この世界が壊れるか、繋ぎ止まるか。私はどちらでも構わないけれど、貴女が後悔する姿を見るのは、少しだけ『退屈』だわ」
バステトの言葉は、冷たくもあり、同時に絶対的な力によって指示された「許可」でもあった。
「……そうだよね。私が守りたいのは……仮想の楽園なんかじゃない。怒って、泣いて、でも笑ってくれる、お姉ちゃんたちがいる……この、騒がしい毎日なんだ!」
珠花の瞳から迷いが消え、青い火花のような意志が宿る。
「ウェイク・ゴッデス!」
爆発的な光がカフェを包み込んだ。 しかし、今回の光は以前のような暴走した業火ではない。人々の「生きたい」という微かな本能を呼び覚ます、夜明けの柔らかな陽光。
覚醒した珠花——シュカは、空へと舞い上がった。 背中の光の羽が、黒い門を包み込むように広がる。
「……帰りなさい! 私たちが生きる場所は、ここなんだから!」
シュカが放った一閃が、門の核である「逃避の想念」を真っ向から両断した。
——ギィィィィィィィン!!
耳を劈くような電子音と共に、門が崩壊していく。吸い込まれかけていた人々の魂が、それぞれの肉体へと力強く引き戻されていった。
「……ふん。ひとまずは、首の皮一枚繋がったかしらね」
バステトが短剣を収める。空は元の、美しい佐賀の夕焼けへと戻っていた。地面に降り立った珠花の元へ、叶恵が駆け寄る。
「珠花! 大丈夫!? どこか痛むところは……」
「……ううん。大丈夫だよ、お姉ちゃん。……なんだか、すごくお腹が空いちゃった」
珠花の言葉に、叶恵はこらえきれずに泣き笑いの表情を浮かべた。
その背後で、憂は静かに立ち上がり、客席から遠く離れた厨房の隅に隠れている店長の碧海雫に声をかける。
「雫ちゃん、お片付けが大変そうね。……でも、良い『シーン』が見られたわ。哲ちゃんにも、今夜お話ししてあげなくちゃ」
彼女は満足げに頷くと、いつのまにか気を失っている娘の明来を促し、優雅な足取りでカフェを後にした。
ナイの陰謀は、今回も退けられた。 しかし、人々の心に芽生えた「ここではないどこか」への渇望は、まだ消えたわけではない。 それは静かに、深く、人類の無意識層へと沈澱していく……。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




