第5章「仮想の楽園」 2節:「逃避」の門(ゲート)
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
鹿島市の祐徳稲荷神社門前商店街の片隅に佇む「前線カフェ」。
木漏れ日が差し込む落ち着いた店内に、今日はいつも以上の活気と、少しだけ無理をしたような明るい笑い声が響いていた。
「珠花! ほら、この特製パンケーキ、碧海さんが珠花のために焼いてくれたんだよ。食べなきゃ損なんだから!」
親友の明来が、焼きたてのパンケーキを珠花の目の前に差し出す。その無邪気な笑顔は、ここ数日の不穏な空気を忘れさせてくれる魔法のようだった。
「わあ……美味しそう。ありがとう、明来ちゃん、碧海さん」
珠花は努めて明るく微笑み、フォークを手に取った。先日の堤防での一件以来、珠花の心には深い影が落ちている。自分が放った光が、街を、そしてお姉ちゃんを傷つけようとした。その恐怖は、どんなに美味しい甘味でも完全には拭い去れない。
「……ふん。パンケーキ一つで元気が出るなら安いものね。神話層の戦士にしては安上がりだわ」
カウンターの隅で、バステトが優雅にハーブティーを啜りながら呟く。その隣では、てちち(ショロトル)が「お前なあ、少しは空気を読めよ……」と呆れたように耳を伏せていた。
カフェのテラス席では、叶恵(願居)が碧海と何やら深刻な顔で話し込んでいる。
「……雫さん。街の人たちの様子、やっぱりおかしいです。原因不明の倦怠感を訴えて、仕事や学校を休む人が急増しています。まるで見えない何かに、生きる気力を吸い取られているような……」
「ええ、叶恵さん。ニュースでもパンデミック話題で持ちきりみたい。この謎のウィルスは、肉体的な病じゃなく人々の『心』から現実を肯定する力を奪い、それを外界のエネルギーへと置換していとか言われてるわよ。……今、ネットではある噂が急速に広まっているわ」
碧海がタブレットの画面を叶恵に見せる。
そこには、現実の苦痛を忘れ、意識をデジタルな空間へと移す「仮想現実世界への移住」を謳う、出所不明の書き込みが溢れていた。
「『現実に居る必要はない。仮想の楽園へ行こう』……。(これが、ナイの狙いなのね)」
叶恵は拳を握りしめた。ナイは恐怖を植え付けるだけでなく、そこから逃げるための「口実」を人々に与えている。絶望した人々が自ら現実を捨てることを望めば、この世界の定義は容易に崩れ去ってしまう。
その時、カフェのドアがカランと音を立てて開いた。
「あら、みんな揃ってるわね。賑やかでいいわ」
現れたのは、緒妻憂だった。彼女はいつもの穏やかな微笑みを湛え、自分の娘である明来の隣に腰を下ろした。
「憂お姉ちゃん! 今日、お店に来るって言ってたっけ?」
珠花が少し驚いたように声をかける。憂は「ええ。哲ちゃんが、たまにはみんなに顔を出してきなさいって」と笑い、珠花のパンケーキを一口眺めた。
「美味しそうね、珠花。……でも、少しだけ…が混じっているかしら」
憂がそう呟いた瞬間、店内の空気が一変した。 窓から差し込んでいた明るい陽光が、急に澱んだ紫色に変質する。
「な、何!? 空が……!」
明来が悲鳴を上げた。
カフェの外——門前商店街にいた人々が、糸の切れた人形のようにその場に座り込み、虚空を見つめている。彼らの影からは、黒いデジタルのコードのようなものが這い出し、空に向かって伸びていた。
「——現実なんて、もういらない」
「楽園へ行かせて。私たちを、ここから出して」
街中から、重なり合った囁き声が聞こえてくる。それは個人の意志ではなく、ナイに浸食された「集団逃避願望」の叫びだった。
「……来たわね。お嬢さん、おやつの時間は終わりよ」
バステトが黄金の瞳を鋭く光らせ、立ち上がった。 珠花は震える手で、髪に触れる。
戦わなければならない。けれど、戦えばまた、自分を失うかもしれない…。
珠花の葛藤をよそに、空へと伸びた黒いコードが集まり、カフェの目の前で巨大な「門」の形を成そうとしていた…。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




