第5章「仮想の楽園」1節:消えない残響
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
有明海の堤防を真っ赤に染めていた不気味な光は、嘘のように消え去っていた。
後に残されたのは、潮騒の音と、アスファルトに残された微かな焦げ跡だけだ。
「……珠花、もう大丈夫よ。ゆっくり息をして」
叶恵の腕の中で、珠花は浅い呼吸を繰り返していた。
先ほどまで背中に生えていた光の羽は影も形もない。だが、珠花の指先は、まだ自分の意志とは無関係に小さく震えている。
「お姉……ちゃん……。私、何を……」
「何も、何も悪いことはしていないわ。ただ、私を守ろうとしてくれただけでしょ?」
叶恵は優しく珠花の背中を摩る。その手の温もりだけが、今の珠花にとって、自分が「人間」であるという唯一の証明だった。
認識阻害の霧が周囲に立ち込め、遠巻きに騒いでいた野次馬たちは、「珍しい気象現象だったな」と、記憶を都合よく書き換えられながら解散していく。……けれど、当事者である彼女たちの心に刻まれた傷跡までは、神々の法則も消してはくれなかった。
「……おい。いつまで湿っぽい顔をしてるんだ。あいつは退いたぜ」
足元で、てちち(ショロトル)が短く吠えた。その瞳には、主である珠花を心配する色が濃く浮かんでいる。
バステトもまた、黄金の短剣を消し、不機嫌そうに鼻先を鳴らした。
「ふん。ナイの奴、わざわざわらわたちの『庭』まで来て、嫌がらせだけして帰るとはね。……だが、お嬢さん。さっきの貴女、少し『あちら側』に行きかけていたわよ」
「あちら側……?」
珠花が顔を上げると、バステトは冷徹な金色の瞳で彼女を見据えた。
「神話層の法則に身を浸しすぎれば、人間の肉体はその質量に耐えられなくなる。貴女の魂は純粋すぎるわ。……このまま覚醒を続ければ、遅かれ早かれ『大神珠花』という器は砕けるわね」
珠花の顔から血の気が引く。……人間を辞める。それは、てちちからも予言されていたことだったが、先ほどの暴走を経験した今、それは単なる警告以上の、生々しい恐怖となって彼女に突き刺さった。
「余計なことを言うな、猫耳娘! 珠花は、俺様が絶対にそんなふうにはさせねえ!」
「……あら、駄犬の分際で威勢がいいわね。なら、その誓いを違えないことね」
バステトはふいと顔を背け、大神家の方角へと歩き出した。
***
その頃、大神家のリビングでは、憂がのんびりとハーブティーを淹れていた。
テレビのニュースでは「佐賀県南部での局地的な発光現象」が報じられているが、彼女はそれを、まるでお気に入りのドラマのワンシーンを眺めるように、穏やかな微笑で見つめている。
「……ふふっ。いいわね。少しずつ、キャンバスに色が乗ってきたわ」
憂が窓の外を見つめると、そこには夕闇に紛れて、空中に浮かぶデジタルな紋様が——後に「仮想現実世界」の基礎となる因果の断片が、微かに明滅していた。
彼女には見えている。ナイが世界を壊そうとするたびに、人々が「現実」に恐怖し、新しい「救い」としての電子の海を、無意識のうちに渇望し始めている様が。
「現実の人間が神話を否定し、電子の繭に逃げ込む未来……。それも一つの、美しい『物語』よね。……ねえ、哲ちゃん?」
彼女が誰にともなく問いかけたその時、玄関のドアが開いた。
ボロボロに疲れ果てた叶恵と珠花、そして二匹の動物たちが帰ってきたのだ。
「あらあら、みんなおかえりなさい。大変な夕暮れだったわね」
憂は、何事もなかったかのような明るい声で二人を出迎える。
そのあまりに変わらない日常の姿に、珠花は張り詰めていた緊張が切れ、その場に座り込んでしまった。
「憂姉さん……。ごめんなさい、夕飯の手伝い、できなくて……」
「いいのよ、珠花。今日は私が腕によりをかけて作ったから。さあ、温かいうちに食べましょう?」
憂が珠花の頭を優しく撫でる。その瞬間、珠花の耳の奥で、先ほどのナイの嘲笑が蘇った。
『君の光は、逃げ場を求める羊たちにとっての終末の合図になる』
「……ううっ……」
珠花は、憂の温かい手の下で、知らず知らずのうちに身を震わせていた。
自分の力が、誰かを救うためのものではなく、世界を終わらせるためのトリガーになるかもしれない。……その疑念という名の毒が、ゆっくりと彼女の心に広がり始めていた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




