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大那物語

麒麟

作者: ginsui

  

               1 

 


 予期しない獲物のような唐突さで、その言葉は羽白はしろの耳に飛び込んできた。

 麒麟。

 ここ半月ばかりの間、羽白の頭を占めていたのは麒麟のことばかりだったから、ゆっくりと声するほうに首めぐらしたのも無理はない。

 綾織あやし多治たじの国境い、大比呂おおひろ川の渡し舟には、ほかにも数人の客が乗っていた。

 声は、その中でも一番年若な青年のものだった。

 青年というより少年に近い、まだ充分子供っぽさを残した彼は、頼る者でもいるのだろう、都に上る途中と言っていた。そして、なんのことはない、早々と家恋病にかかってしまったようなのだ。

 後にしてきた故郷のことを、彼はたてつづけに話していた。

 側に座った因果で聞き役にされてしまった行商人を、羽白はさきほど、ひそかな同情をもって眺めたものだ。てんでにうんざりしている乗客には気づきもせず、青年は語りつづけた。

 家族のこと、故郷の美しさ、地霊の豊かさ。

 なにしろ、わたしの故郷には、まだ麒麟だっているのだから。

「麒麟?」

 ここにいたって、行商人ははじめて反論した。

「麒麟がいるっていうのかね、あんたは。龍が死に絶えたことを信じていない頑固者も、麒麟の死滅だけは認めているというのに。麒麟は龍以上に霊的な生き物だというのに、あんたの故郷には麒麟がいるってね?」

「だって、本当なんだ」

 青年は、いくらか弱気になって首を振った。

「見た者がいる。金色の身体と、それよりも薄い色のたてがみと尾をもっているそうだ。犬ぐらいの大きさで・・」

「あんたは、見たのかね?」

「見た。足跡をみたよ。馬とそっくりだが、あんなに小さい馬はどこを捜してもいやしない。やっぱり、あれは麒麟なんだ」

「ふふうん」

 行商人は馬鹿にしたように顔をそむけた。

 青年は傷つけられて口ごもり、それでももそもそとつぶやいた。

「麒麟なんだ。わたしの故郷ではみんな言ってる」

「それで」

 羽白は、静かに声をかけた。

「故郷はどこだったかな」

 青年は驚いたように羽白を見つめた。船端近く、胡座をかいて座っている若い男を。

 身体つきは華奢で、ほっそりとした美しい顔立ちをしている。粗末な衣と袴、まっすぐ背中に垂らした長い黒髪。髪を結わないのは放浪の民の証であり、大きな革袋に入れて大切そうに前に抱えているのは一面の琵琶だ。漂泊の琵琶弾きであることは一目で知れた。

名足なたり

 青年は救われたような声を上げた。

「綾織の名足だ。小夜叉岳こやしゃだけの麓だよ」   

 渡し舟が多治に着いても、羽白は降りなかった。

 舟に乗ったまま、再び綾織に引き返した。

「あんたもまったく、物好きだぁね、琵琶弾きの兄さん」

 渡し舟の親父が、あきれたように声をかけた。

「ほんとに麒麟がいると思っているのかね」

「さあ」

 羽白は琵琶を抱え直し、小さく笑みを浮かべた。

「どうだろう」

 

 麒麟というのはめでたい獣だ。

 それは誰でも知っている。

 鹿によく似ているが、蹄とたてがみは馬にも似、そして額に突き出た一本の角。

 幼獣には角がなく、まだ雌雄の区別を持っている。

 幼獣は幼獣でしかない。

 麒麟と呼ばれるようになるのは、彼らがつれあいを見つけたその時からだ。二頭の幼いものたちは、一頭の成獣に化している。

 雌雄同体、かがやく角、すばらしい肢体の霊獣に。

 琵琶の曲として残っている麒麟の古謡は三曲だ。羽白はそれをみな弾きこなすことができる。耳を傾ける人々も、まずは感心して聞き惚れる。

 だが、どうも違うのだ。

 麒麟の曲を弾いていても、羽白は麒麟を想い浮かべることができなかった。麒麟は伝説の向こう、ぼうぼうとおぼろに霞んでいるだけだった。

 どうしてなのだろう。

 考え、やがて思い当たった。

 この曲を作った琵琶弾きも、麒麟を見たことがないにちがいない。

 そうだ。だいたい、琵琶弾きなどという商売が生まれるずっと以前に麒麟は死に絶えたはずなのだから。

 だとすれば、古謡に執着することもないわけだ。伝説でしか麒麟を知らないという条件は同じなのである。

 自分で曲を作ってみようと羽白は思った。

 そのためには、どんなささいなことでもいい、麒麟についての情報を拾い集める必要があった。

 舟の青年の言葉を、羽白はまるきり信じているわけではない。しかし、麒麟の噂がある以上、麒麟に関係することが、片鱗なりとも残っているのではなかろうか。

 行ってみるのも、悪くない。

 というわけで、数日前にたどった綾織の街道を、羽白はてくてくと引き返していた。

 高い山脈が紫色にけぶる雲さながら、前方に横たわっている。山脈の中ほどにに形よい円錐形の稜線を見せているのが小夜叉岳で、めざす名足はその麓だった。

 夕刻近く、羽白はぴたりと足を止めた。道の端の木の根元、小さな影があったので。

 両膝をかかえてぼんやりとうずくまっているのは、七八才の女の子だった。その可愛らしい顔に、羽白は見覚えがあった。

 何日か前、近くで野宿した旅芸人の一座の中にいたはずだ。

 一座の舞い手だった母親が、死んだばかりだと誰かが教えてくれた。身寄りは他に無いようだとも言っていたっけ。

 皆と離れた場所で、声も上げず、大きな目からとめどなく涙をあふれさせていた姿だけが、羽白の記憶に残っていた。

 他の連中はどうしたのだろう。ちらと考えながら、羽白は少女の前を通り過ぎようとした。少女は顔を上げ、羽白を見つめた。

 あの時から泣き続けているような、赤く腫れぼったい目だ。

 さすがに羽白は立ち止まった。

「何をしている?」

 羽白は問いかけた。

「仲間たちはどうした」 

 少女は何も答えなかった。たよりない小さな獣のようなの眼で羽白を見返し、弱々しく首を振った。

「おまえひとり?」

 少女は深くうつむいた。

 すべてを察し、羽白は眉をひそめた。

 それではあの連中、この子を捨てたのだ。足手まといになるとはいえ、渡世の術も知らない小さな子供を。

 里から離れたこんな場所に置き去りにするとは、死ねと言っているのも同然ではないか。

 怒りをかみ殺し、羽白は少女の前にかがみこんだ。 

「名前は?」

 少女は悲しげに首を振るばかりだった。羽白は、はっとした。

「口がきけないのか?」

 少女は、はじめてこっくりうなずいた。

 羽白は細く息をはきだした。

 この子をほおっておけば、後々まで寝覚めの悪いことになるだろう。


 少女は羽白が炊いてやった薄い粥の、ほんの一椀で満足した。あとは羽白が食事の後始末をするのを所在なげに眺めている。

 野宿には手ごろな河原だったが、火を焚いているのは羽白ひとりだった。

 それもそのはず、秋が深まると同時に芸人やその他旅まわりの者たちは、こぞって南に足をむける。冬の厳しさが折り紙つきのこの国でまだぐずぐずしているのは、自分くらいというわけだ。

 さて、この子をどうしよう。

 人里におりれば、下働きにでも置いてくれる館か引き取り手が見つかるかもしれない。しかしここは山の中。しばらくはいっしょに連れて行くしかなさそうだ。

 火を大きくかきたてて、羽白は琵琶の稽古をはじめた。

 短い古謡を一二曲。

 弾き終えて、ふとたき火の向こうを見ると、少女は抱えた両膝に顎をのせて、じっと炎を見つめていた。

 羽白は、少女を拾ってから、言葉らしい言葉をかけてやっていないことに気がついた。長く一人旅を続けているので、相手がいるのに慣れなかったし、もともと必要なこと以外は話さないたちなのだ。

 だが少女の姿はあまりにも寂しげで、羽白はいささか心が痛んだ。なにか話しかけてやろうかと思ったが、わざとらしくて止めにした。

 そこで羽白はまた琵琶をかき鳴らした。こんどはがらりと調子を変えて、高音のかろやかな旋律で。

 二人のまわりの空気がゆらめいた。

 ゆらめきながらしだいに青みを増し、いつのまにか水底となって、たなびく海藻の間、群れなす魚が横切っていく。

 少女は、小さな叫び声をあげて羽白にすがりついた。

「だいじょうぶだ」

 羽白は言った。

「見ていてごらん」

 黒い斑のはぜが、母親のお古らしい少女のだぶだぶの衣を物見高そうにつっついた。

 少女はおそるおそる鯊に手を伸ばした。それは少女の手の中を通り抜け、なにくわぬ顔で泳ぎ去っていった。

 足元の石の間で蛸がぐにゃりとうごめいている。薄青い紗のような海月が、かさを上下させながら幾百となく漂い、たちまち現れた鰯の群れが、背鰭をきらめかせながら少女のまわりを輪舞した。

 少女は手をたたき、出会って初めてかわいらしい笑い声をたてた。

 羽白は琵琶をやめた。

 水底の幻はかき消えた。

「幻曲だ、これは」

 眼を丸くしてこちらを見つめている少女に羽白は言った。

「聴く者に幻を見せる。おもしろいか」

 少女は夢中でうなずいた。

「また弾いてやろう」

 羽白は、ちょっと肩をそびやかした。

「人前ではだめだが。世の中には、幻曲師を快く思わない連中もいる」

 羽白の側で、少女はぐっすりと眠ってしまった。

 その安らかな寝息を聞きながら、羽白は少女の横顔をぼんやりと眺めた。

 初めておぼえる感情にとまどった。甘く、ふわふわとした感情だ。小さな者に頼られているという満足感か。

 それは、けして悪いものではなかったが、羽白は心の隅の方へ押しやることにした。長くは連れて行けないことはわかっている。どこかでいい引き取り手がみつかればいいのだが。



               2



 道脇の薮から黄緑色の小さな鳥が飛び出して空高く舞い上がった。

 まわりの木の梢にも何羽か留まっていて、ぴいい、ぴいいと小さく鳴き交わしている。少女は羽白の袴をひっぱってしきりに指をさした。

「ひわだな」

 羽白は鳥の名を言った。少女は大きくうなずき、こんどは自分の胸に指を向けた。もう一度、鳥と自分。

 羽白は可愛らしい指の行く先をたどり見ながら得心した。

「おまえの名は、ひわというのか」

 少女はにっこり笑ってみせた。羽白はおもわず頭をなでた。

「教えてくれたのか。いい子だな」

 ひわの歩調にあわせるようになるので、旅は羽白ひとりの時よりもはるかにはかどらなかった。

 小夜叉岳が真近に迫るまで、羽白は三晩野営の火を焚いた。

 四日目に着いた村の人間の話では、名足はさらに山中ということで、羽白はここでまる一日興行して食料をたくわえた。

 ひわを託せる所も探したが、子供一人置いてくれる余裕のある家はみつからなかった。

 翌日名足を目指したものの、昼ごろから暗い雲が空をおおい、ついに雨が降り出した。

 雨脚はしだいに激しく、近くには村里もない。

 ひわを励ましながら、羽白はようやく雨やどりに手ごろな洞を見付けた。

 身体はすっかり冷えきって、手足の感覚も覚束なかった。

 手持ちの獣脂と湿った木とで、なんとか火を起こすと、羽白とひわは衣を脱いで乾かしながら暖をむさぼった。

 どうやら人心地ついた時、洞の前に人影が立った。

 羽白は、はっと顔を上げた。

 雨の音にかき消されて、近づく気配がわからなかったのだ。

「入っていいですか」

 影の主は細い声で呼び掛けた。同じく雨にぶつかった、不運な旅人か。

「ああ、どうぞ」

 答えるまでの何分の一秒かに、羽白は相手を観察し、心の中でため息をついた。

 肩のあたりで切り揃えた髪、白の浄衣。

 まだ年若だが、紛れもない神官だ。

 そして神官とは、羽白が最も関わりたくない種類の人間だった。

 神官は洞に入って旅嚢を置いた。

 ひょろりとした長身に似合わず、丸みを帯びた顔は童顔で、少年のようでもあり、少女のようでもあった。一生不犯の神官は、どこか性を超越して見えるものなのだ。

 もっともこの神官は、すぐに女だとわかった。雨に濡れて身体にぴったりと張り付いた衣の胸には、ささやかながら双のふくらみがあったので。

井月いづきと申します」

「羽白」

 羽白は言った。

「こっちが、ひわだ」

 井月は革袋から出してある羽白の琵琶に眼を止めていた。

「子供連れの琵琶弾きとはめずらしい」 

「女の神官と同じくらいには」

 井月はちょっと笑って口をつぐんだ。

 この神官は、自分が幻曲師であると気づいたろうか。

 羽白は考えた。

 神官は呪力者には敏感だ。

 神官は、常にふたつのものをさがして諸国を巡っている。ひとつは見習い神官にするための、呪力を持った子供たち。そして、もうひとつは大人になってしまった呪力者たち。

 神官の純潔は、とどのつまり、呪力者の種をばらまかないためだということを羽白は知っていた。子供のうちに芽はつまなければならない。伸びてしまった大人は、すみやかに抹殺する。

 呪力が地霊を消費するからだ。

 地霊はこの世界を潤す生命の素だった。人も獣も稲の実りもすべて地霊から生まれ、死して後、地霊に還る。

 そして昔ほど、この世界の地霊は多くない。

 麒麟も龍も、とうに生きてはいけなくなった。このままでは、人間すら生きられない時代がくるかもしれない。神官たちが恐れているのはそれなのだ。

 地霊を保つことが最大の役目と心得ている神官たち。

 まして幻曲師は生まれつきの呪力者ではなかった。昇華した芸が呪力となり、幻を見せる。なぜ役にもたたない幻を生み出すためにだけ、呪力を費やす必要があるのか。神官たちにとっては、最も許せぬ存在にちがいない。

 幻曲師としては、幻曲を隠しつづけるしか術はないではないか。

 羽白は思った。

 幻曲師が人々の間で伝説と等しいものになってから、いったいどれだけたつだろう。


 日が沈むと、雨音はいっそう激しくなった。

 井月も口数少ない人間のようだ。むこうから話しかけてはこなかった。ろくな言葉もかわさず、それぞれに夕食をすませた。

 食後の琵琶の稽古はとりやめにして、羽白はひわの傍らに横になった。

 井月には背を向けていたが、彼女の気配に油断なく耳をすます。

 やがて井月が横たわる気配がし、静かな寝息が聞こえはじめた。

 井月は気づいているだろうか。

 羽白はさきほどからの同じ問いをくりかえした。

 もしそうならば、どうやって逃げだそう。ひとりなら、なんとでもなるだろう。だが今は、ひわがいる。

 いっそのこと、ひわを置いて・・。

 羽白はちらと考え、すぐに苦々しい笑いをうかべた。

 できないな、それは。

 神官ならば、残されたひわをなんとかしてくれるだろう。だがひわは、旅芸人の一座と羽白と、二度も捨てられたことになってしまう。どんなに悲しむことか。

 いずれは別れる時がくる。だがそれはきちんと別れの言葉をいい、ひわを納得させてからだ。


 雨は木々をうち、葉叢をうち、羽白の耳をうった。

 羽白はいつしかまどろんでいた。

 井月が飛び起きた気配ではっとした。

 身体を起こして身構えようとしたとたん、すさまじい地響きが起こった。

 羽白は、とっさにひわをかばって身を伏せた。

 臓腑を揺るがす振動。

 洞の岩壁がぎしぎしいいながら小石を降りこぼし、焚き火の残り火が飛び跳ねる。

 頭を地べたに押しつけるような轟音が続き、際限もなく続き、しかしようやく遠ざかり、静かになった。

 羽白は頭を上げた。

 井月が洞の入口を見つめている。

「地崩れです」

 井月はふりむき、腹が立つほど静かな口調で言った。

「わたしたちは、ここに閉じ込められてしまったようですよ、羽白」



               3



 羽白の腕の中で、ひわが小刻みに震えている。

 井月は動じた様子も見せず、焚き火の炎をかきたてた。

 互いの顔は明るく照らし出されたが、光がとどかない闇はいっそう密度を増し、閉ざされた空間を嫌でも思い知らされた。

 井月がふいに羽白を見つめた。

「聞こえませんか」

 井月は耳をそばだてながら、ゆっくりとあたりを見まわしていた。羽白もそれにならった。

 かすかなせせらぎのような音が聞こえてきた。

「水?」

「ええ」

 井月はうなずいた。

「雨の音とは違います。わたしたちが眠るまでは聞こえていませんでしたよ」

 井月は、つと立ち上がって洞の奥に近づいた。燃えている焚き木の一本を手にし、羽白は彼女の後についた。

 大きな石が崩れ落ちている場所があり、その上の壁を照らすと細長い穴があいている。

 井月が、ためらいもせずに穴のなかに身をくぐらせた。

 やがて羽白の方に首を出し、

「かなり広い鍾乳洞です。奥に続いているようですよ、羽白」

「鍾乳洞?」

 羽白はくりかえした。ほんのわずかながら、希望が生まれたのだ。

 小夜叉の近くは鍾乳洞が少なくない。それらは迷路のように入り組み、ひとつにつながっているという。うまくいけば、他の出口を見つけ出せるかもしれなかった。

 井月は、焚き木を束ねて手早く松明を作った。不安げなひわを励ましながら羽白も荷物をとりまとめ、琵琶を背負う。井月に続いて穴に足を踏み入れた。

 狭い横穴を数歩行くと、突然広々とした場所に出た。

 松明の光に照らされて橙色に輝いているのは、頭上高く、なだれ打つ滝が化石したような鍾乳石や林立する石筍。岩床を浅く、清い水の流れが横切っている。

 自分たちの置かれた状況をも忘れて、羽白はしばし鍾乳洞の美しさに見入ってしまった。

「羽白」

 突然井月が羽白の腕をとって、松明の明かりをかたえの岩壁に向けた。

「ごらんなさい」

 羽白は井月の指先をたどり見た。なめらかな岩肌に何かの模様がついていた。

 眼をこらしてさらによく見ると、茶色の線がはっきりしてきた。明らかに人の手によるものらしい、絵だ。

 線と丸の組み合わせの稚拙なものだったが壁一面、たくさんの四つ足の獣が描かれている。

 その獣たちの頭からは、ことごとく一本の線が突き出していた。

 羽白は指先で線をなり、ささやいた。

「麒麟の絵だ」

「かなり昔のものです」

 昔どころか大昔だ。

 人々が家も作らずにこんな洞で暮らしていた時代、地霊はあふれ、麒麟が大地に群れなしていた時代

 喰い入るように絵を見つめる。

 たしかに幼い描き方ではあったけれど、不思議な躍動感が絵にはあった。見ているうちに線の麒麟は血肉をつけ、蹄の音をとどろかすかと思われた。

 この絵に出くわしただけでも、閉じ込められた甲斐があったというものだ。

 むろん、ここからうまく抜け出せればの話だが。

 と、羽白は眉を上げた。

 絵のなかで、ひとつだけ四つ足でないものがいる。

 群れの真ん中あたり、二本足の人間のようだ。だが、角の生えた人間などいるわけがない。

「これは何だ」

 羽白は、つぶやいた。

「古代人は、彼らなりに神を表したかったのかもしれません」

 井月は考え深げに言った。

「神?」

「ええ。角は昔から神聖なものですから。彼らの神は角の生えた人間の姿をしていたのかも」

「なるほど」

 羽白はうなずき、ちょっと皮肉っぽい顔をしてみせた。

「神官の神は、どんな形だ?」

「形はありません。この世界そのものですから」

 生真面目に井月は答えた。

「世界の生命は地霊です。地霊を保つことこそが絶対、と教えられてきました」

 そう、地霊のためには、幻曲師など葬って当然というのが神官の考えなのだろう。

 羽白は、ふとひわに目をやった。

 ひわもまた岩壁の絵に見入っていた。身動きもせず、憑かれたように目を見開いて。

「ひわ?」

 羽白は、思わずひわの肩を抱き寄せた。

 こんなところに閉じ込められて、ひわは動転しているにちがいない。なんとかして、ここから抜け出さなければ。

 壁画には未練があったが、羽白はひわの肩に手をのせたまま先を進んだ。

 水の流れは、洞を横切るとまた地の中へもぐっていた。

 その近くに、裂け目のような横穴が開いている。一列になって歩けるほどの横穴は、やがて広がって三人が肩を並べて歩ける幅になった。

 羽白は、たびたびひわに目をやった。

 何かを探しているように、ひわは目をいっぱいに見開いて、たえずあたりを見回している。

 いったい、どうしたというのだろう。恐怖で気がおかしくなってしまったとも思えないが。

 と、井月が松明をふりおとした。

 にわかづくりの松明の火は、すでに手の近くまでとどいていたのだ。

 足下の炎はすぐに燃え尽き、真の闇が訪れた。

 その時、ひわが甲高い叫びを上げた。長く尾を引く、悲しげな声だった。

 声は洞に反響した。羽白はひわを落ち着かせようとした。

 しかし、ひわは羽白の手をすり抜け、井月を押しのけて、闇の奥に駆けだした。

「ひわ!」

 羽白は叫んだ。

 井月は追いかけようとした羽白の腕をとった。

「この暗闇です。わたしが先にいきましょう、羽白」

「神官は、闇でも目が見えるのか?」

「見えはしませんが、勘はありますよ。わたしの後にぴったりついてきてください」

 言葉通り、井月は確かな足取りで前を進んだ。ひわは、ずっと先まで行ったようだ。

 こんな危険な闇の中を、突然ひわは駆けだした。さっきから、様子はおかしかったのだ。いったい、何が起きたのか。

 井月に腕をとられたまま、自分で歩けないのがもどかしい。それに、井月に対する疑念がまたしても膨らんできた。いまの状況ならば、井月は羽白にどんなことでもできるはずだ。羽白が幻曲師であると気づいているならば。

「神官」

 あれこれ思い煩いたくはなかった。羽白は冷たく声をかけた。

「はい」

「私が何か、知っているのだろう」

「琵琶弾きです」

 井月は答えた。

「琵琶弾きで、幻曲師です」

 羽白は、小さく息をしてうなずいた。

「どうする、私を」

「まだ何とも」

 井月は、淡々と答えた。

「ここを出られないとすれば、いずれわたしたちは地霊に還るのですから、あなたに毒を使う必要はないわけですし」

「たしかに」

 羽白は言った。

「だが、私をこのまま置き去りにすることもできる。早く務めをはたしたいとは思わないのか」

「ひわがいます。そんなことはできませんよ。それに」

 井月はちょっと間をおいた。

「あなたは、神官が好んで呪力者を捜しているとお思いですか」

「ちがうのか」

「もちろんです。たまたまあなたに出会ってしまって、わたしは動転しています」

「動転?」

 羽白は、軽い笑い声をたてた。

「とてもそうは見えなかったが」

「毒を使わなくていい方法もあります。たとえば、あなたがこれから先、琵琶を弾かないと約束してくれるとか」

「それは、できない」

「困りましたね」

 井月は真実困ったように、深いため息をついた。

 その時、前方にうっすらと光がさした。

 出口?

 羽白は井月を追い抜いて、光の中に足を踏み入れた。

 そこは、

 出口ならず、またしても広い鍾乳洞。

 光は、高い天井の切れ目から射し込むものだった。紫がかった、夜明けの光だ。

 石旬とりかこむ岩床はつややかで、かつて水が流れていたらしい波形の後があった。そしてちょうどその淀みのあった場所に、美しい水をたたえた小さな池がひとつ。

 池のまわりには、白い木の枝めいたものが数多く転がっていた。よく見るとそれは、動物のものらしい、大小の骨なのだ。

 ひわは、骨の中にぐったりと倒れ伏していた。

 羽白は、ひわに駆け寄って抱え起こした。

 ひわは、目を見開いている。しかしその瞳は黒い虚。何も映してはいなかった。

 井月はひわと池とを見比べ、軽く身ぶるいをすると一歩退いた。

「羽白。ひわを抱いたままこっちに来て下さい。それ以上池に近づいてはいけません」

「どういうことだ?」

「頼みますから言う通りに。その池は〈たま喰い〉です」

「〈霊喰い〉?」

「ずっと昔に死に絶えたといわれる太古の生き物ですよ。池自体が、危険な生命体なのです。水面に影を映したものの霊を喰ってしまう。洞窟に迷い込んだ獣を餌食にしていたのでしょうが、こんなところにまだ生きていたとは」

 鷺は思わず池に目を向けた。

 澄んだ水底に何かの影があった。小さな少女(ひわか?)と小さな獣。鹿でもなく、馬でもなく・・。

 まさか。

 羽白は獣の正体を見きわめようと身を乗り出した。

「羽白」

 井月が叫んだ。

 しかし、その時には羽白はしっかりと獣の姿をとらえていた。

 美しい金のたてがみ、額にぽつんと突き出た肉色のこぶ。

 麒麟の幼獣だ。

 思いあたったとたん、羽白の霊は身体を離れ、〈霊喰い〉の中に呑み込まれていた。



               4


 

 霊というのは奇妙なものだ。

 〈霊喰い〉の中をふわふわと漂いながら羽白は思った。

 水の中ではなかった。ぼっと青味を帯びた靄の中に浮かんでいるような感じ。

 外で見た時と違い、ひわの姿も麒麟の姿もとらえることはできなかった。むろん自分自身の手足すら。視覚はない。あるのは霊の意識だけ。

 しかし、その意識に、はっきりとひわの存在が感じられた。

 ひわに寄り添う、もうひとつの存在も。

 三つの霊は〈霊喰い〉の中で触れあっているらしい。

 (ひわ)

 羽白はひわの霊に呼びかけた。

(大丈夫か。どうしてこんなことに)

(あたしはだいじょうぶ)

 ひわの霊が答えた。

(あたしは、もう一人のあたしを見つけたの。生まれた時から捜していたような気がする。ううん、生まれる前からも。ずっと、ずっと)

(その、麒麟のことなのか)

 麒麟の霊が鷺の中に深く踏み込んで、言葉よりも鮮やかな心像を送り込んだ。

 草原を駆け抜ける麒麟の群れ。

 めくるめく思いで、羽白はそれを感じた。

 山中で木の芽をはむ麒麟たち。

 川辺で戯れ合う麒麟の幼獣。世界が若く、地霊豊かだったころの彼らの姿。

 ほっそりとした優美な肢体、風になびく金のたてがみ、たしかな知性をひめた青い瞳。

 そして、額から突き出た真珠色の角。

 羽白がこれまで弾いていた麒麟の曲どれもが彼らを表すには不十分だった。

 これほど美しい獣を主題にした曲などありはしない。

 だが、しだいに地霊は衰えた。麒麟の児は生まれず、成獣は老いて死ぬばかり。

 最後の幼獣は牡だった。

 最後の一匹ゆえに、ひとつにになるべき雌を持たなかった。

 成獣たちが死に絶えた後も、幼獣は幼獣のまま生きつづけた。もう片一方の自分を捜し求めながら。

 麒麟の雌になるはずだった霊は、他の生きものに生まれ、死に、長い輪廻を繰り返していた。

 もうひとつの自分に、はてもない憧れを抱きながら。

 それが、ひわか?

 際限もない幼獣の孤独が鷺をおそった。そして、ひわの存在を感じた時の狂おしい喜びも。

 肉体よりも霊の方が先走った。

 ひと思いにひわのところへ・・。

 しかし、霊だけの無防備な存在は、やすやすと〈霊喰い〉に呑み込まれてしまったのだ。

 ひわも麒麟に感応した。洞窟の壁画を見たその時から。必死で捜し、行きついた先が〈霊喰い〉の中。

 長すぎる年月を経て、ようやく出会ったというのに、こんな状態では哀れすぎる。

 どうにかしてやりたいが。

 羽白は自分をあざ笑った。

井月の忠告にもかかわらず、ともに〈霊喰い〉の餌食になってしまったわけのだ。水中にひわや麒麟の姿が見えたのは、〈霊喰い〉の罠だったのだろう。

 このままでは、じわじわと〈霊喰い〉に消化されるのを待つだけだ。麒麟の姿をはっきりと知ることはできたけれども、再び肉体に戻って琵琶を弾かないことには話にならない

(羽白)

 ふいに、落ち着きはらった思考が入り込んできた。

(神官)

 羽白は驚いた。

(神官まで)

(〈霊喰い〉に引き込まれたわけではありませんよ。自分で来たのです)

 自慢するからには、ここを抜け出す手立てだてがあるということなのだろうか。

 羽白が思ったことは、今や井月には筒抜けだった。なにしろ、霊がつながっているのだから。

(ためしてみます)

 羽白は、井月が発する呪力を感じた。羽白の霊をじかにゆさぶるほどの強力なもの。

 つづいて、〈霊喰い〉の中の密度が急に濃くなってきたような感じがあって、

 羽白の霊は四方から押しつぶされそうになった。

 雑多な、思考と呼ぶにはあまりにも単純なものがひしめきあいはじめている。

 獲物を教える風のにおいや日向の草の味。

 甘やかな雌の気配、天敵への恐怖・・。

 幾百もの獣の霊だ。

 それらはさらに数を増した。さまざまな種類の獣の霊が、ぶつかり、わめき、ぐるぐると逃げ惑う。

(自分を繋ぎとめていてください。羽白)

 井月が言った。

(さもないと・・)

 狂ってしまうだろう。

 ひわや麒麟の霊がどうなっているかなどと考える余裕も羽白にはなかった。

 〈霊喰い〉の中は混乱の域に達した。あらゆる種類の獣たちが詰め込まれている。

 すさまじい恐慌。

 悲鳴が上がった。それは、ひわのものだったのか、自分のものだったのか。

 悲鳴は〈霊喰い〉をつんざいて、

 突然、羽白は自由になった。

 「羽白」

 井月が羽白の肩に手を置いた。羽白は我にかえって彼女を見つめた。

「どうなっているんだ」

 井月は〈霊喰い〉を指差した。

 澄んだ池だったそれは、濁り、泡だち、しゅうしゅうと音をたて、しだいに蒸発していくところだった。

「なにをした、神官」

「この山の生き物の霊を、引き込めるだけ引き込みました」

 こともなげに井月は答えた。

「どんなものでも、食べすぎては腹を壊しますから。吸収しきれず、一気に吐き出したのです」

「なるほど」

 羽白はのろのろと額の汗をぬぐった。

 〈霊喰い〉は、いまやきれいに蒸発していた。はっと気づいて、ひわの姿をさがす。

 ひわはまだ倒れたままだったが、その口から小さな呻きが漏れた。

「ひわ」

 目を開いたひわは、一瞬身体を強ばらせ、長い悲痛な叫び声を上げた。

 羽白は、ひわを抱えた。しかし、ひわは身をよじり、両手で頭を抱えて悲鳴を上げ続けている。

 井月がひわに近づき、軽く頭に手をのせた。ひわは、がくりと首を垂れ、動かなくなった。

「眠らせました。このままでは、喉が潰れてしまう」

「ひどい経験だった。無理もない」

 羽白は、ぶるっと身体を震わせた。

「神官のおかげで助かった」

「いえ」

 井月は目を伏せ、首を振った。

「ひわにとっては、そうでなかったかもしれません」

「どういうことだ?」

「わたしたちは、肉体に戻りました。問題は、麒麟です」

「この子と麒麟のことを、知っているんだな」

「〈霊喰い〉の中にいる時、だいたいのことはわかりました」

「麒麟は、どこに?」

「〈霊喰い〉が消滅する直前までは、確かにわたしたちといっしょでしたが」

「自分の身体に戻ったんじゃないのか」

「だったら、いいのですが」

 井月は、哀しげにつぶやいた。

「胸騒ぎがするのですよ」

 羽白は眉根をよせた。その時、腕の中のひわの髪が、ふわりとなびいた。天井の裂目から吹いてくる風ではなかった。

 もっと下の方から

 二人は顔を見合わせた。

「向こうのようです」

 羽白は、ひわを抱き上げて井月の後に続いた。

 入って来たのとはちがう、もう一つの横穴があり、しばらく行くと小さな光が射してきた。

 だがそれは、出口と言うにはあまりに狭いものだった。いくら身体を縮めても、肩ぐらいしか入り込めそうにない。

「岩盤ではありません」

 穴の周りを探った井月は言った。

「堀り広げることができそうです」

 二人は旅嚢の中から道具になりそうなものをとりだした。幸い土はやわらかく、小半時後、羽白たちは念願の外界に這い出した。

 雑木林を前にした切り立った崖の下だ。秋枯れの山々が、見下ろすように迫っていた。

 おびただしい数の鳥たちが、狂ったように啼き交わしながら頭上を旋回していた。

 かん高い獣の咆哮が、切れ切れに、あちらこちらから聞こえてくる。

 動物たちは、〈霊喰い〉の内に入り込んだ衝撃から、まだ醒めきっていないのだ。

 井月は、前方の茂みに目を向けた。羽白も井月の視線の先を見た。

 枯れた潅木の下に、なにかの死体が横たわっていた。

 狼にでもむさぼり喰われたのだろう。横腹は、骨がむきだしになっていた。

 血にまみれた身体から、金色のたてがみが見て取れた。鹿のような、小さな馬のような。

 その額に盛り上がっているのは、肉色の可憐な瘤。



               5



「麒麟・・」

 羽白は、呆然とつぶやいた。

「死んだのは、ついさっきのようです」

 井月が、麒麟の側にひざまづいて言った。

「〈霊喰い〉に囚われている間に襲われたのでしょう。霊は戻る場所もなくそのまま地霊に吸い込まれてしまった」

「今までずっと待っていながら」

 羽白は、腕の中でぐったりしているひわに顔を押しつけた。

「もう少しで、生身のひわと会えたというのに」

「責任は、わたしにあります。麒麟の霊を繋ぎ止めておく方法を、考えておくべきでした」

「ひわに、それは見せられない」

「見せるどころか」

 井月は、深々とため息をついた。

「羽白。ひわの霊は、〈霊喰い〉のところで一度、麒麟の霊とひとつになっているのです。それなのに、またもぎ離されて・・いまのひわは、自分を失ったのも同然です」

「では」

 羽白は、はっと井月を見つめた。

「ひわは、どうなる」

「目覚めても、廃人になるしかないでしょう」

 ひわは、苦しげに眉をひそめ、目を閉じていた。あのまま麒麟とともに〈霊喰い〉に呑み込まれていた方が、幸せだったというわけか?

「何とか方法はないのか?」

 羽白は、しぼりだすように言った。

「ひわを助ける方法は」

「ひとつだけ」

 井月はしばらくの間考え込んでいたが、やがてゆっくりとうなずいた。

「いまの世界は、麒麟の成獣がが生きていくだけの地霊がない。ひわも、正気には戻れない。だとすれば、ひわを麒麟が生きていた時代に送り出すしかありません」

 羽白は、息を呑んだ。

「できるのか、そんなことが」

「やってみなければ、わかりません」

 井月は、答えた。

「試したことなど、ありませんからね。でも、わたし一人の力では無理でしょう。あなたの手助けが必要です」

「できることなら、なんでもしよう」

「その時代に結びつく何かがあれば、過去への扉は見つかるはず、と聞いています」

「何か?」

「そう。たとえば、土器や骨といった遺物です。多ければ多いほど、成功への確立は高くなる」

「遺物か」

 羽白はつぶやき、茂みの中の金色の塊に目を向けた。

「ここに、麒麟がいる」

「洞窟の奥には、古代人の残した麒麟の絵もあります。そして、わたしがはっきりと、呼び寄せる過去を想い描くことができれば」

 井月は、羽白を見つめて言った。

「麒麟の曲を弾いて下さい、羽白」

 羽白は、目を見開いた。

「あなたの幻曲があれば、わたしの呪力も高まるでしょう。ひわと麒麟を、もう一度結びつけることができるかもしれません」

「神官が、幻曲を弾けと言うのか?」

「ひわたちのためです」

 井月はきっぱりと言った。

「なぜ人が麒麟に憧れてきたか、わかるでしょう、羽白。どんなに愛し合った人間でも、魂を共有することはできません。でも麒麟は、魂も肉体もひとつになることができる。孤独を知らない、唯一幸福な生きものなのです」

 羽白は、井月のゆるぎない瞳を見返した。

「ひわと麒麟を、このまま引き離すことなどできません」

「神官にしては」

 羽白は、ちらと歯を見せた。

「少々、修業が足りないようだ」

 井月は、笑った。

「わたしもそう思います」

「やってみよう」

 羽白は、ひわを静かに横たえて、琵琶の弦の調節をはじめた。

 井月も地面に胡坐を組み、目を閉じて思念を集中しているようだった。

 新しい麒麟の曲は、確かに羽白の中で生まれつつあった。あの壁画を見たばかりか、実際、〈霊喰い〉の中で麒麟の霊と触れ合ったのだ。

 ありありと、麒麟たちの群れを想い描くことができた。

 想いの高まりとともに、羽白のしなやかな指は、弦の上をはしっていた。

 麒麟の角のような硬質な音を紡ぎ出し、わずかな光の具合でも変化する金色の毛並みの輝きや完璧な均衡をもつ優雅な肢体を旋律にのせて。

 小川の側に憩っていた一匹の麒麟は、やがて身をひるがえして仲間に合流する。

 緑あふれる草原を、何十頭もの麒麟たちは、黄金の川の流れのようにたてがみをなびかせ、美しい筋肉を躍動させて駆け抜けて行く。

 壮麗な琵琶の音の奥から、地の響きが聞こえてきた。

 井月は、座ったまま、身じろぎせずに鷺の背後を見つめていた。

 茶褐色の枯れ山の光景から、裂けたように緑の野があふれ出た。

 地の響きは、麒麟の蹄の音だ。麒麟たちは誇らしげに角を振り上げ、羽白と井月の前に躍り出た。

 井月は、持てるだけの呪力を集中し、思念を過去の一点に向けた。

 こんなふうに、麒麟たちが自在に走り回っていた時代、ひわの片割れである麒麟の幼獣が生まれていた時代。

 麒麟たちの光景が、さらに奥行をもってきた。

 群れは去り、残りのものたちは明るい日差しを受けてゆったりと草をはんでいる。親にぴったりとすりよって離れない生まれたばかりの幼獣もいれば、互いに耳を咬みあいながらじゃらけているのは、いくらか大きくなった幼獣だろう。

 白い花を振りこぼしている木の根元に、一匹の麒麟がうずくまっていた。ほかの子供よりは身体が大きかったが、額の肉色の瘤は確かに幼獣だ。

 琵琶を弾きながら、羽白はその獣を見つめた。どこまでが自分の幻曲で、どこまでが井月の導いた過去なのか。

 しかし、あの麒麟は、まさしく。

 ひわが、ゆっくりと身を起こした。

 木の下の麒麟の幼獣は、哀しげな顔を上げ、ひわと目を合わせた。

 ひわと幼獣の口から、同じ声がもれた。澄んだ鈴の音のような、高い歓喜の声だった。

 ひわは、顔を輝かせ、両手を広げて麒麟の幼獣にかけよった。

 幼獣も、首を振り立てて、ひわを迎えた。

 ひわが、しっかりと幼獣を抱き締めた瞬間を、羽白は確かに見たと思った。

 麒麟たちの光景が薄らいでいった。

 羽白は、琵琶を弾く手を止めた。

 ひわと麒麟の幼獣も消えていた。

 残っているのは、枯葉の積もる寒々とした景色と、崩れるように倒れている井月の姿だった。



               6


 

 羽白は、井月に駆け寄った。

 井月は、ぐったりと動かない。震える手で首筋の脈を取ってみた。

 脈も呼吸も止まっている。

 羽白は呆然とした。

 過去を呼び出すには、想像以上の呪力が必要だったに違いない。井月は、生命さえも使い果してしまったのだ。

 会ってからまだ一日も過ぎていないというのに、ずいぶん長い時間をともに過ごしてきたような気がした。

 井月は、何も求めなかった。神官でありながら、幻曲師である羽白を抹殺しようともしなかった。ただ、ひわのために力を尽くしてくれたのだ。

 羽白は、しばらくの間、うつむいていた。

「羽白」

 その声に、耳を疑った。

 井月が、目を開いてこちらを見上げている。

「神官」

 羽白は、ようやく言った。

「生きていたのか」

「少しの間、心臓が止まっていたようです」

 顔色は蒼白だったが、にこりと笑って井月は言った。

「成功したようですね」

「だといいが」

 羽白は言った。

「あっという間に消えてしまった。ひわが本当に過去に行ったとしても、あの麒麟は成獣になれるのだろうか。かたや、人間の身体だというのに」

「他の麒麟とは違うかもしれません」

 疲れ切ったように横たわったまま、井月は言った。

「憶えているでしょう、羽白。洞窟の壁の、角の生えた人間の絵を」

「あれが」

「ひわと麒麟が、ひとつになった姿だと思いませんか」

「ああ」

 羽白は、目を閉じ、うなずいた。

 まぶたに、はっきりと浮かんでくる。

 すらりとした少女に成長したひわ。その額に輝く、細く美しい真珠色の角。

 もう片方の自分を見つけたひわは、すばらしく幸せな一生をおくったことだろうと思う。人間である時には、決して満たされなかった心をたっぷりと満たし、地霊あふれる大地を、仲間たちとともに駆けまわりながら。

「みんな、神官のおかげだ」

 羽白は、頭を下げた。

「感謝している」

 井月が身を起こそうとしたので、羽白は手をかした。

 ふっと、ため息をついて、

「〈霊喰い〉のことといい、だいぶ地霊を消費したな。神官仲間に知れたら、まずいだろうに」

「〈霊喰い〉については、使った分の地霊を戻しましたよ。〈霊喰い〉は地霊に還り、もうあれが生きるために地霊が失われることはないのですから。麒麟のことは」

 井月はちょっと考え込んだ。

「まあ、よしとしましょう。私はもう神官とは言えないのですから。呪力を使い果してしまったようです」

 羽白は、はっと井月を見た。

「これで、さっぱりしました」

 くすりと井月は笑った。

「あなたも言ったでしょう。わたしはもともと、神官には不向きなのです」

 井月は羽白の前に座り直した。

「琵琶が、幻曲が、あれほどすばらしいものだとは思いませんでした。地霊の無駄使いなどでは、決してありません。人の心に、残り続けますから」

「そう言ってもらえるのはありがたいが」 

 羽白は、つくづくと井月を見つめた。

「これからどうする」

「そうですね」

 井月は静かにいった。

「一度、故郷に帰りましょう。親兄弟がいます。それから、自分に本当に必要なものを探してみるつもりです。ひわにとっての麒麟、あなたにとっての琵琶のような」

 井月は微笑んだ。

「それを探すだけの一生になるかもしれませんが」

 羽白は小さくうなずき、空を見上げた。どんよりと曇った空から、ひとひらふたひら、白いものが舞い落ちてくる。

 今年はじめての雪だった。

 羽白は、まつげについた雪をはらった。

「故郷は?」

遠海とおみです」

「南の方角だな」

 羽白はつぶやき、立ち上がった。

「ともあれ、山を下りるとしよう。雪が積もらないうちに」

 雪は、風にのって小やみなく降り続く。

 二人は肩を並べて歩き出した。


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