『敬愛』の理③/それは、誰かのために振るわれる拳
モーセとホセア、二人を囲む群衆。間を吹き荒ぶ風。先刻まで薫っていた朝の匂いは消え、荒涼な砂の匂いがモーセの鼻をつく。群衆が二人の鼻先に掲げる得物は、様々な形の槍、剣、斧……、いずれも無駄に広く、厚く、鋭い刃をもつ。それらが本来は殺傷用ではなく儀礼用に造られたことは明白だった。
そして今となっては脅迫に使われている。祭器を武器にするなんて、たとえ異教の民でも、許せることではなかった。
「下卑た連中ですね」
二人のなかで最初に口を開いたのはホセアだった。少年は一瞥で自身の置かれた状況を考察していた。
「そうだな」
ホセアに応じつつ、モーセは住人たちに語りかける。
「おはようございます。皆さん。朝から総出でどうしたのですか。そんなに尖ったものをたくさん突き出していては危なくて前に進めませんよ。どけてくれませんか? 」
すると、住人たちは言った。
「死 n ネ」
「殺 Z イナ ラ ナイ」
「死ンデ シ マヱ 死 N n eneu en」
「敵キ ニムロ サドま ノ 敵」
「殺 スサ ネ eバ」
解読する気さえ失せる、奇声混じりの言葉。明らかにおかしかった。モーセは一瞬怯んだ。このオアシスの住人が下衆な本性を隠していたことは承知していた。それでも狂人だった覚えはない。みんな変貌していた。長老の婆も、計算ができない商人も、踊れない劇団員も、頭の悪い魔術師も、外れに繋がれていた醜い犬すら。全員疫病に罹ったように同じことを呻いている。来たときに感じた敵意とはまったく別種の殺意をモーセは感じ取った。
「何があった」
モーセは朝ぼけのさめた頭を水車のように廻すが、答えは出そうにない。隣の少年も困惑していた。はじめて狂人を見た人間の表情はみんな一緒だ。
……ふと、住人だったものたちは、二人の鼻先に翳していた得物の先端を少し引き、人間離れした膂力で前方に突き出してきた!
「危ない! ! 」
刺突だ。モーセはホセアの身体に腕をかけ、倒れるように馬小屋の奥に後退する。既に馬も発狂していた。ホセアも自身の取るべき行動を悟ったのか、モーセの腕を流れ背後に逃走する。奇声をあげて得物を振りかざし襲いかかってくる狂った群衆を前に、モーセの決断は早かった。「杖」の束縛を解き、両手で振りあげ、最前方にいた老人の禿頭を粉砕した。続いて柄頭で、斃れる老人の後ろから青銅の剣をもち向かってきた女の脳髄を左眼ごと貫いた。
多数に対する単数による一方的な殺戮。モーセは押し寄せる群衆を、押し返す勢いで圧倒していったた。斃れた人間が起き上がることもない。どうやら殺せば死ぬようだ。すると、ここで馬小屋の奥に逃がした筈の少年が、戦っているモーセの隣に並んだ。
「何をしてる! 死ぬ気か、俺の邪魔をするな。お前の頭も割るぞ」
叫ぶモーセ。内心ハラハラしていた。もしや後ろから襲いかかる気か、と。まだ敵の可能性が残っていたからだ。しかしモーセの脅しに屈することなく、ホセアは平然と返す。
「いいえ。心配は無用ですよ、避けますから。どうか貴方は、貴方の敵を殺してください。その間に僕は、僕の敵を殺します」
困惑するモーセを尻目に、少年は両拳を握り締め、謂う。
「【汝、其の父と母を敬え】……僕は敬愛を、今は何処かの父に、母に、兄たちに捧げる。そして今は貴方にも。この拳は、誰かのために」
「聖絶執行。神よ、僕を赦し給え」
少年の砂色の瞳は色を変え、そこには“蒼”が写っていた。その眼を、モーセは既にホレブの山で見ていた。
──蒼い眼。「神」と同じ眼。
モーセはようやく確信した。目の前の少年が味方だと。自分と同じ、神に撰ばれた「石板の戦士」なのだと。
少年は、目の前にいた少女の顔面を殴打し破壊する。容赦など微塵もない。彼は、カタチに惑わされることはなかった。少女の頭部は衝撃で四散した。首のない屍体が次々と転がる。モーセは少年をちらちら見ながら、杖だけは別の生き物のように稼働させ、脳漿臓物骨肉糞……、人体の中身を余す所なく掻き出していった。狂った馬が二人を噛み殺そうと首を伸ばすが、伸ばした首を引っ込めることは二度となかった。二人が再び馬小屋の入口に戻ってきたとき、もうオアシスに二人以外の命は残っていなかった。
────そのまま。二人は「無人」となったオアシスを経った。
住人がどうして「ああ」なったのか、モーセは分からなかった。群衆のひとりが「ニムロド」と言っていたような気もした。とはいえ、モーセは決して同情しなかった。彼はもう知っていたからだ、婆の飼っていた犬のそばに散らかっていた無数の骨が何の骨か。ここが「そういう」場所だと知ったときから、彼等を同じ人間として信頼する努力はやめていた。
……それでも、モーセは後ろを振り向かなかった。もし見てしまったら、決心が揺らいでしまう気がしたからだ。代わりに横を向き、少年に語りかける。
「俺は『肯定』。神の存在の肯定、それを証明する力を預かった。すなわち我が杖は、神の御業を顕現する」
すると少年も言った。
「やはりそうでしたか。僕は『敬愛』です。すなわち、誰かのために振るうほどこの拳は堅く、捷く、強くなります」
「……お前は、『戦士』だな」
「はい。そして、あなたも『戦士』ですね」
「そうだ。俺の名はモーセ。レビ族の者だ」
「……………………やっぱり。僕の名はホセア。『貴方に逢うために』ここまで来ました」
こうして二人は、今度こそ本当の信頼で結ばれた。砂漠を歩きながら、少年は「ほんとうの出自」を語り出した。
ホセアが神と遭遇したのは、砂漠に突入する少し前だった。「はぐれた」と言っていた家族は全員死んでいた。ホセアの家族は自分より下の家族を守るために、自分の食事をわざと残して与え、襲いかかる魔獣の囮となっていった。結果、末っ子のホセアだけが生き残った。遺されたホセアに戦う術などなく、最後の兄が死んだ夜、とうとう魔獣に襲われた。
……だが、突然魔獣は光に焼かれ、ホセアの眼の前で灰となった。それから「神」が顕われた。神の視線はホセアの飢えを一瞬で満たした。神は彼に使命と石板を託した。
ホセアは神からシナイ半島に同じ石板に撰ばれた戦士がいると伝えられ、孤独な砂漠の旅に出た。そのとき、神から大量の食糧と水を与えられたが、ホセアはそれらを、魔獣から助けた旅人や、飢えに苦しむ廃れたオアシスの住民に全て与えてしまった。遂には羅針盤も火打石も松明も、それを入れていた袋すらも手放してしまい、石板だけを持って砂漠を彷徨っていたという。
モーセは呆れた。そして知った。この少年が底無しのお人好しであることを。
ここで、ホセアは話題を変える。
「神より命じられた、『石板』の戦士に選ばれた戦士と巡り逢うこと。それはこうして叶いました。問題はその後ですよね」
「エジプトに戻らなくないというのは、本心です。戦いは本当に起こりましたから。ですが……モーセさん。貴方は、エジプトに行きたがっていました。それは、もしかして神の御意志ですか?」
モーセは答える。
「ああ。神は述べられた。ミスライムに新たな戦士がいる、と。彼等に会いに行くためにミスライムを目指している」
「なるほど、ミスライムの戦士……たぶん、それはアロンとパロのことでしょうね」
そう呟き、ふと横を見たホセアは。モーセの横顔を見て逆に驚いてしまった。内側に歪んだその表情は別人だった。モーセは「決して無関係ではない」知人二人の名前が「戦士」として名指しされたことで、激しく混乱していた。現在進行形で気が狂いそうになっていた。
「どういうことだ! ? 」
モーセは、自分より幼い少年をすごい顔で問い詰めた。普段大人びているホセアでも、このときだけは年相応の子供に戻っていた。肩を震わせ、縮こまってしまった。
ホセアは言う。
「……だ、だから、そういうことです。同胞を扇動したのはアロンという名のレビ族でした。彼が杖を翳すと、エジプトには十の災いが起こり、都は崩壊しました。彼はラピス・ラズリの割れた石板を持っていたといいます。その眼は空を写した泉のように青く輝いていた、とも」
驚きを隠さないモーセのことが気になりつつ、ホセアは話を続けた。
「アロンの力は圧倒的でした。ミスライムの滅亡は必至となり、アロンは単身王宮に乗り込みました。そこで何があったかは誰も知りません。しかし、しばらくしてアロンは王宮から重傷を負った姿で放り出された。そして王宮からはパロが出てきました。パロは、右眼だけがアロンと同じように輝き、背後には太陽のような眩い光が顕われていたといいます。パロの声は地を震わせ、倒れていた兵士は次々と起き上がった。反乱軍は戦意を喪失しました。ですが、アロンはなおも立ち上がり、再び同胞を奮い立たせました。反乱軍とミスライム兵、アロンとパロ。両者は衝突し、戦火はミスライム全域へ広がっていった……それが、反乱の真相です」
「風の噂ですが、パロも石板を持っていたと聞きます。僕が彼等の正体に気付いたのは神の言葉を聞いてからでした。あれが『戦士』と『獣』の戦いだったのか、はたまた『戦士』同士の内紛だったのかまでは判りません。神は異教徒にも戦士がいると仰っていましたから。とりあえず、あの二人が“十戒”の石板に関わっていることは確実でしょう」
「……ところで、なぜそこまで驚くのです? 」
モーセは顔を両手で覆う。信じがたい事実を知ってしまった。受け入れたくないものだった。だが受け入れるしかなかった。モーセは、小さくもはっきりとした声でホセアの問いに答えた。
「……アロンは俺の兄だ。そしてパロは、俺の友だ。ともに王宮で育ち、友愛を育んできた。かけがえのない人たちだ」
次は、ホセアが先ほどのモーセと同じ表情をした。しかし砂漠の風が砂塵を巻き上げ、ホセアのそれを隠した。砂嵐が来たのだ。岩が見え隠れし、シナイ半島の砂漠も終わりに近付いていた。二人は砂嵐をやり過ごすために岩陰に隠れる。そこでモーセは自らの過去、その一切を隠すことなくホセアに告白した。