『敬愛』の理②/ホセアという少年
モーセは出逢った。出逢ってしまった。新たな「石板」の欠片の保持者に。
しかし、少年が神の戦士か魔王の獣かモーセには分からない。正体不明の不気味な存在としか認識できなかった。
「お前は……何だ? 」
モーセは、問いかけるような独り言を呟いた。
「何だ? じゃあありませんよ。いきなり何ですか」
「貴方こそ、誰ですか。それは僕のものです。勝手に盗み見ないでください」
欠伸まじりに発せられた少年の返答は、私物を手にした不審な男に向ける言葉としては最適解だった。モーセはまだ自分が助けたと少年に説明できていない。少年にとって今のモーセはただの盗人だった。
「どこでこれを手に入れた?」
モーセは少年に問う。少年はむっとしながら答える。
「随分と、上からものを言う人ですね。盗人の分際で」
「これが何か? それついては話したくありせん。誰だって隠しておきたい秘密の一つや二つあるでしょう。素手で触っていいものでもありません。脂が付くと困ります。はやく返してください」
「それとも何です? あなたはこれについて何か知っているのですか?」
逆に核心を突かれた。少年は眠たそうな瞼をこじ開け、砂色の瞳でじっとモーセを見つめる。モーセは、せめて盗人の疑いだけでも晴らそうと言い訳を考えたが、その動揺っぷりはあまりにもあからさまであり、彼の後ろめたい背景が少年にはバレバレだった。
モーセはなんとか言い訳を繕った。
「す……まなかった。これは君の看病をしていたときに邪魔だったから外に出していたんだ。随分と綺麗な石板だったから、ついみとれてしまっていた」
少年は、澄んだ瞳でこちらを見つめ問う。
「どうしてこれが『石板』だと解ったのですか? 僕には、単なる割れた石にしか見えませんが」
完全に墓穴を掘ったモーセ。少年の目線がいっそう厳しくなる。もはや、モーセのことを「ただの盗人」とは思っていなかった。
「……まあ、いいです」
だが少年は、それ以上追及しなかった。いや、敢えて詮索を避け、問題を保留したのだ。この状況における自分の不利を悟っていたからである。
「僕は、倒れたんですか。砂漠で」
「そうだ。それを俺が見付け、このオアシスまで運んできた。看病も俺がしたぞ。オアシスの住人に聞けばすぐ分かることだ」
説明しながら、モーセは安堵する。これで「表向きは」疑いも晴れただろう、と。ここで、ふと少年の腹が大きく鳴った。モーセは干した羊肉と山羊の乳を勧めた。すると、少年の表情にはわずかに明るさが戻った。
二人は打ち解け、互いの身の上を明かした。決して「石版」の話だけはしないようにしながら。
少年の名はホセアといった。ヘブル人のエフライム族出身で、ヌンの子。モーセと同じくエジプトから逃げてきた身だった。しかしホセアの逃げてきた理由は、モーセにとってあまりにも予想外なものだった。
少年は語る。
「ミスライムの都で、一部のヘブル人が蜂起したんです。彼等とミスライム兵の戦いに僕のいた村も巻き込まれ、僕は家族とともに逃げました。父は、おそらく死んだでしょう。僕達を逃すために、他の大人と一緒に、ミスライム兵の迫る村に残りましたから。蜂起した同胞がそのあとどうなったのかは知りません。僕たちも逃げることに必死だったので……結局、助かったのは僕だけでしたが」
モーセは言葉を失う。たしかに、いつか蜂起が起こってもおかしくないような扱いはされていたが、まさか起こるとは。なおさら家族のことが心配になった。何より、ヘブルの民を導けという神より下された使命に支障が出るのではと強く危惧した。
──それにしても。
ふとモーセは気になった。モーセがエジプトにいた頃は反乱の「は」の字もなかった。生きることに精一杯で、蜂起するほどの情熱なんてなかったのに。それが、自分がエジプトを出奔してから100日足らずで一気に蜂起とは。いったい何が同胞をそこまで焚き付けたのだろう、と。
「蜂起のきっかけは何だったんだ? 」
ホセアは答える。
「遠因は……王が変わっても待遇が変わらなかったことだと思います。ですが、直接のきっかけは一人のレビ族の演説でした」
「その人は、王宮の魔術師でも解らない不思議なことができました。それを『神の御業だ』と言い張り『神は我々とともにいるぞ! 』と同胞を扇動し、反乱を起こしたんです」
「その人の力は凄まじかった。ミスライムには十の災いが到来し、都は廃墟と化した……しかし、パロもまた、おそろしい不思議な力を持っていました。荒廃した都で、2人は軍勢を率いていつまでも戦い続けました。戦火は際限なく拡がり、戦いに参加していなかった僕たちの村までミスライム兵に襲われました。そして、先ほどの話に繋がるわけです」
「……不思議な力、ねぇ」
このときモーセは、そのレビ族とパロのどちらか、または両方が“十戒”の石板と何らかの関係があるのではと踏んでいた。
今のパロ、すなわちかつて友だった王子のことはモーセはよく知っている。王子はたしかに魔術の才を秘めてはいたが、都を廃墟にできるほどの敵と渡り合えるとは到底思えなかった。彼が、何か「強大な力」を得たことを、モーセは確信した。
改めて、エジプトに急がなければとモーセは意気込む。同時に……少年の処遇も決めねばなるまい。
目の前の少年もまた、「石板」の保持者とみて間違いないとモーセは確信していた。そうでなければ、魔獣がはびこる砂漠を一人で旅できるわけがないからである。今の話すら、事件の核心には触れていない、そんな感じさえしたモーセ。しかし、少年の思惑が分からなくても、とにかく今は海に向かわなければならないという目的だけは変わらなかった。
「俺は海に向かっている。その都に用があるからだ……お前の進路とは真逆だな。ここで別れることになるが、お前はどうするんだ? このまま、またお前一人で旅を始めたら、また倒れしまうかもしれないぞ。今度は二度と起き上がることはないだろうな」
モーセは、少年を旅に同行させようと企んだ。そうすれば敵でも味方でも、すぐに対処できるからだ。
ホセアは、そんなモーセの思惑に気付いていた。気付いた上で答えた。
「そうですね。川の近くで育ってきた僕に砂漠の一人旅はたしかに荷が重い。困難な道程となるでしょう……では、貴方の旅とやらに僕も動向していただいても良いでしょうか? 貴方は砂漠に詳しいらしい。貴方に付いていけば、砂漠の真ん中で衰弱死することもないでしょう」
モーセの思惑通りに、話は進んだ。
ホセアの思惑通りに、話は進んだ。
「ですが、いくらなんでもあのミスライムに戻りたくはありませんから、途中で別れましょう」
「今度こそは安住の地を探そうと思います。同じ川沿いにあるヌビア、クシュあたりが良いと思うんです。またはリビュアとか? 流石にシリアは無理ですね。いつヒッタイトに襲われるか分からない地域ですし」
そうですか、と言いつつ。モーセはホセアが口に出した「その国」の動向が気になった。
──ヒッタイト。ハッティ人が支配するアナトリア半島の大国。たしか、シリアの利権を巡ってミスライムと対立している筈だ。ミスライムで内乱が起こったと知れば、間違いなく侵攻してくれるだろう。
──ミスライムがそちらにも兵力を削げば、内乱の鎮圧と侵略への対応で、ミスライム軍は混乱するに違いない。その混乱に乗じて、こちらも行動がしやすくなるかも…… 。
そんなことを考えつつ、モーセはホセアの頼みを(表向きは)承諾し、出発の支度をはじめた。
モーセの旅に、最初の仲間が加わった。彼等は互いに重大な秘密を抱え、同時に、自分の秘密を知られないまま相手の秘密を知りたがっていた。エジプトまでの道中、長い長い探り合いがはじまる、そう二人とも考えていた。
みすぼらしい馬小屋をそろって出た。二人は朝の光を全身に浴びる。遠い草原から吹いてきたらしい爽やかな風が、二人の髪をかき混ぜるように靡かせていった。……そして、
「動クな」
そうしてようやく、武装したオアシスの住人たちに囲まれていることに気付いたのだった。




