『敬愛』の理①/新たなる逃避者
砂漠の只中で、突き上げるような風に煽られる砂塵を除き、自発的に行動している影が「2つ」あった。
それらは邂逅する。そこに神の意思はなく、まったくの偶然が2人を巡り逢わせた。
モーセは、それの存在を視認した時点から、それのことばかりが気がかりだった。
──驚いたな。この砂漠を、俺のように独りで旅する人間が。魔獣のはびこる魔法の大地を、単独で往来する度胸と胆力をもっている人間が、俺以外にも存在したなんて。
モーセは素直に感心していた。その影はまだまだ遠くだが、何としてでも逢いたいと思った。会って場違いな挨拶を交わし、場所をわきまえず会話に花を咲かせたかった。同じ境遇にいるなら同じ喜び、同じ哀しみ、同じ怒りを分かち合える筈だとモーセは思った。いい加減一人の旅は飽き飽きしていたのだ。寂しさに共感してくれる仲間が欲しかったのである。
2つの影、それらの目指す方角はわずかに違っていた。このまま進めばすれ違う。しかし、それらは引き寄せられるように距離を縮めていった。お互いに考えていることは同じだったのだ。
……しかし、モーセが向こうの影の全貌を把握する前に、影は小さくなり、砂塵に紛れてしまった。
倒れた。そうモーセは確信した。急いで助けに向かおうと、右足を前方へ突き出す。そのとき右足が突然、地中に深く沈み込んだ。
流砂だ。砂漠の棺桶と名高い現状だが、エジプト育ちのモーセは知っていた。流砂は砂と水が合わさったもので浮力がはたらいており、基本は浮かぶ。沈んだとしても、大抵は腰のあたりまでで底に付く。決して底無し沼ではない、と。
とはいえ暴れれば暴れるほど危険なのは事実だった。重い砂は浮上を許さない。何もしなければ安全だが、わざわざ暴れて横向きに沈めば窒息する。それが砂漠の棺桶の真実だった。
モーセは既に何度も流砂に遭遇しており、抜け出す方法も当然知っていた。モーセはさっさと抜け出し、倒れたらしい仮定の友人を助けに行った。……だが、途中でモーセは気付いた。倒れたにしては影が縦に長いと。まさかと思った。嫌な予感がした。それは正解だった。影は倒れたのではなく流砂に呑まれていたのだ。
モーセは急いだ。仲間に、理解者に、なってくれるかもしれない人間を、喪いたくなかった。
そうしてようやく影のある地点まで辿り着いたとき、モーセは安堵した。人物は腰の辺りまでしか沈んでいなかったのだ。影の正体、布で顔を覆った旅人は、一目でわかる疲労と飢餓が原因で気絶していた。意識がなかったからこそ流砂に呑まれても抵抗することなく窒息死を免れたのだ。救出は容易だった。
流砂から救出した後、モーセは応急処置のために顔を覆っていた布を剥ぎ取った。が、その顔を見て一瞬息を呑む。旅人の正体は、モーセよりはるかに幼い、少女のように中性的な顔立ちの美少年であった。飢餓によって頬がこけていてもなおそう見えてしまうのだから、相当だろう。
さて、次は空腹を解決しなければならない。オアシスで貰っていたありったけの水と羊乳を、窒息しないように舌を押さえ、喉を締めあげ気道を塞ぎ、無理矢理胃袋へと流し込んだ。気絶している人間に水を飲ませるためには、この方法しか思いつかなかった。モーセにはまったく医療の知識がない。
「おい、起きろ。死んでしまうぞ」
「俺は、お前の墓穴を掘っているほど暇じゃないんだ。起きないなら置いていくぞ」
高圧的な呼びかけとともに頬を叩く。いつ魔獣が襲いかかってくるか分からない。目を覚まして自力で歩いてもらわなければ困る、そうモーセは考えていた。
……この判断が正解だったのか、モーセには分からない。それでも少年は意識を取り戻した。その眼は寝起きのように淀み、モーセを見遣る。渇いた唇をかさかさと動かしていたが、声が小さくて何を言っていのるか解らない。しばらくして、また意識を失った。
「自力で歩かせるのはダメか。ちくしょう」
結果、とんでもないお荷物を手にしたモーセだったが、もう進むしかなかった。深い眠りに落ちた少年を背負い、砂漠の行軍を再開する。
その後……目的地には何とか間に合った。今日の目的地だったオアシスに辿り着けたのは2、3の星座が見えはじめた頃だった。
今回の寝床は馬小屋だった。モーセの砂漠宿格付けでは下から3番目の待遇だった。住民の民度もかなり悪い。オアシス自体はかなり栄えている部類のオアシスなのに旅人にこれはなんだ、住人の人間性が知れる。そんな感じの小言を、モーセはぼそぼそ呟きはじめた。
「あーーー最悪だ……」
こうなるとモーセはもう止まらない。愚痴を吐き出くだけの人形となるのだ。おまけに口まで悪くなる。生憎ねたには事欠かなかった。このオアシスに関しては最早悪印象しかなかった。
──明らかに法外な宿泊代を要求してきやがった金歯の長老。放し飼いにされている長老の犬。長老の友人だという怪しさが人の形をとったような自称商人。同じく自称劇団員。自称魔術師。せめて人名を記した台帳は隠せよな。奴隷商人だと一発で分かったぞ。俺達みたいな旅人は金があるにしてもないにしてもいいカモなんだろうな。
──ああ神よ。私はあなたの代わりに彼等を罰すべきでしょうか。というかやらせてください。
モーセは、もし住人が襲撃してきたら返り討ちにしてやると意気込んでいた。だが、結局その日は襲撃などなかった。
────翌日、明朝。モーセは昨日助けた少年について、ひとつ気がかりなことがあった。荷物の類が殆どないのだ。食糧や水が尽きるのは解るが、火打石も松明も羅針盤もないのは不可解だった。
モーセは思った:これではまるで、最初から旅をするつもりなどなかったかのようだ、と。衝動的に家を飛び出し、行く先も分からず彷徨い、挙げ句の果てに砂漠の真ん中で力尽きた、ような。
ふとモーセは気付いた。彼の境遇は、かつての自分のようだと。人を殺し、咎人として追われ、行くあてもなく、前に進むしかなく、遂にはミデヤンの地で人知れず倒れた自分と、まるで同じだと。
この少年も、何かのきっかけで故郷を捨て、逃げてきたのではないだろうか。もし、そうだとしたら……
そうだとしたら、一体どんな理由で逃げてきたのか、モーセは気になった。とはいえ起きたら聞けばいいことである。少年はまだ眠っていた。今から考察するのは無駄なことだと、モーセ自身分かっていた。だが、それを考える以外に特にやりたいこともなかったため、やはり思案した。
少年の端正な顔立ちを見て、呟く。
「それにしても女みたいな顔だな。身体もかなり細いし。いや飢餓者だからそれは仕方ないか……もしかして男娼か? 娼館から逃げてきたと考えれば、辻褄も合うが……」
これほどまでに失礼な発言はなかなかないだろう。さらにモーセは少年の懐に不自然な膨らみがあることに気付き、躊躇なく手を突っ込みまさぐった。はたから見ればどうみても盗人か変態だ。神は何故こいつを撰んだのか。
そして、モーセは見つけた。羊皮にくるまれた硬く重い何かを。重量的に金属や石、陶器の類である。もしかして金塊か? などと思いながら包装をとき、中身を見た。
そして……戦慄した。
入っていたのは、「石板」だった。
ラピス・ラズリの石板のかけら。碑文も書いてあった。もう見たことがあった。間違いなく“十戒“の石版、そのかけらだった。
そのとき、少年がゆっくりと目を覚ました。2人の石板の所有者が、改めて対面した。目の前の若者が自分の所有物を勝手に持ち出したことを悟った少年は、顔を顰める。対するモーセも少年を凝視した。
目の前の少年が「戦士」か「戒獣」か、モーセには知る由がなかった。今はただ「少年が石版の欠片を持っていた」という事実だけがあった。
こいつの正体は、いったい何だ。モーセの心は激しく揺らいだ。