『殺戮』の理/虚空を翔ける少女
────少し、時を遡る。
それは黒い柱がバビロンの地に顕現する数日前、ミデヤンの地、ある村でのこと。
……燃え盛る集落。
礼拝堂は破壊され、祭具は悉く掠奪されていた。服を剥かれた全裸の死体がいくつも転がる。いずれの死体もどこかしら欠損していた。男も女も関係なく。いや、そうなった経緯は、男と女でまるで違うのだが。
そして……、礼拝堂に沿って建てられた少し大きな家に、この村“最後の命”があった。その「少女」は、自分が、自分たちが、どうしてこんな目に遭ったのか。その理由を解さなかった。
一方的な暴力だった。敬愛する父も、可愛がっていた羊たちも、啀み合い慰め合った姉妹たちも、同じ喜びを分かち合った友も、全て喪った。そして故郷は、今にも灰塵に帰そうとしている。この少女も、その実すぐに事切れようとしていた。
村は蹂躙されたのだ。建物も、家畜も、人も。
この少女もそうだった。
礼拝堂に姉妹や他の女子供、老人たちとともに逃げ込んだが、男たちはなす術なく殺され、蛮族たちは礼拝堂を囲み、窓を突き破り、襲った。
無謀にも立ち向かった少女は、頬への一撃で顎を砕かれ、繊維を喪失した。それから、周りで既に開始されていた強姦に晒されることになった。泣き叫んでも神様は助けてくれない。哀れな少女は嬲られ、陵辱され……
飽きられ、
棄てられた。
息のある女は鎖で繋がれ、馬で引き摺られどこかに連れていかれた。少女はどのみち死ぬだろうと見放され、囚われることはなく、死体の山のなかに置き去りにされた。
抵抗の代償は悲惨だった。
左足を切断され、はらわたは抉られ、爪は全て剥がされ、歯も全て叩き折られ、関節には釘を打たれた。陵辱に次ぐ陵辱によって女性器と肛門は繋がり、周囲には、連中が彼女の身体に使った、特定の部位のみが血まみれになった材木や祭具、武具、石などが散乱していた。きれいだった顔は、水死体のように何倍にも膨れ上がっていた。殴られたのだ。何度も。何度も。
……果たして、この惨状を前にして健常でいられるものが何人いるだろうか。精神の均衡を保ち続けていられるものがどれほどいるだろうか。その光景は狂人を真人間に、真人間を狂人に変えてしまうほどの凄惨な様相を呈していた。
そして、少女の呼吸は遂に途絶えた。死が、哀れむように彼女を誘った。意識が薄れるにつれ苦しみも消えていく。死神までその最期に同情したのだろうか。
どれほど惨めな最期でも……穏やかに終われば良かったのだ。少女は、静かに眠ろうとしていた。もう二度と目覚めない筈だった。
────なのに。
こいつは、そんな少女の最期に水を差した。それも、「最悪の目的」のために。
「****」
男は、少女の名を口にした。
少女の記憶にその男はいない。どうして自分の名を知っているのか、解せない。人づてに聞いたのだろう、そう言い切ってしまえば簡単だった。だが、それでは拭い切れない不信感のようなよどみを、その男は秘めていた。
死蝋のような肌、紅玉をはめたような眼、老婆のように荒んだ銀髪。偉丈夫を騙った醜悪な風貌。嘘という名の石膏で塗り固められたような貌。
……常人なら、その微笑に恐怖を覚えるのは必然だろう。
男は、少女を抱き抱える。
優しく(そう見えるだけ)、慈悲の笑みを振りまきながら(大嘘である)、また口を開く。
「この惨状のなか、でよく生きていたな。まさしく奇蹟だ」
「日頃の行いが良かったのだろう」
「偶然にもわたしが来たことも、幸いした」
穢い、醜い、甘言だった。
少女は、ぼんやり男を見やる。
魂が現世を離れかけているほどに弱っている彼女には、その男の本質を見抜く力も、もう残ってはいなかった。その微笑みに、騙されてしまったのだ。
「……か……み……さ、ま……? 」
少女は男を神様だと思った。現状を打破するために現れた、救世主であると。とんでもない思い違いだった。
「うん……確かに、“そう”かもしれないな」
男がそう答えたとき。少女はまた意識を失いかけていた。いつ死んでもおかしくない状況である。それ故か、男は早急にことを為そうと動いた。少女に問う。
「憎いか? 」
「……ぇ……? 」
少女には、その言葉の意味が理解できた。つまり、自分を、家族を、故郷を、「こう」した連中が憎いか、と。
少女の答えはYESだった。憎くないはずがない。家族、友、村人たち、羊、故郷、純潔。全て一瞬のうちに奪っていった蛮族たちを、許せる聖人が、この世界に何人いるだろうか。
「殺したいか?」
「……」
少女は、返答に困る。少女の心の内には、未だ信仰が生きて、声を荒らげていた。それはいけないと。既に亡き少女の父も云っていた。
────目には目を歯には歯を、では、何も解決できないのだ、と。
復讐とは愚かなものだと。惨めで、くだらないものだと、司祭の娘である少女は、しっかり理解できていた。なのに……
心ではそう理解しているのに、彼女の心はわずかに揺らいでいた。男は、そこにつけ込んだ。
「憎いだろう? 憎いと言いなさい。憎くないはずがない。君を、君たちを、このような目に合わせた連中に、応報したくて堪らない筈だ。同じ目に遭わせてやりたい筈だ」
「でも、それができないから悔しいのだろう? 殺したいだろう? 1人残らず。君は、殺戮を欲している。そうだろう? …………そう君は、間違いなく、『殺戮』を欲している筈だ」
「私は解るよ。君の心を、君の願望を。私だけが解ってあげられる。もう君を苦しませたりなんかしない。私が君を救ってみせる。そのための、特別な贈り物を持ってきているんだ。私はそれを渡しに来たんだよ」
……それらの甘言は、ひとつひとつの音節が恨めしいほどに蠱惑的で、遅効性の毒のように、少女の耳を侵していった。
耳を塞げばよかったのだ。そうしてさえいればよかった。しかし、そうはならなかった。この少女にはもう耳を塞ぐ気力すらない。それを男はよく分かっていた。分かった上で、罠に嵌めたのだ。
やがて、腫れあがった少女の目から大粒の涙が溢れはじめた。
男の存在は、彼女にとって救済そのものだった。男の詩奏には人を安息に誘う、誘惑する魔力があった。少女は、誰でもいいから縋りたかったのだ。そして今は、この男に縋っていたい。いや、この男にしか縋れなかった。男の甘言に屈してしまったのだ。
少女は声を出さない。しかし男は、少女が「承諾」したと確信し、羊皮に包まれたそれを取り出した。
────割れた石板。ラピス・ラズリで創られ、碑文が彫られていた。しかし、本来ならば大海の如き深い青を出す筈のラピス・ラズリが、鮫が食事した後の、血の滲んだ海のように濁っていた。一部の碑文は赤黒く輝いており、そこにはヘブル語を反転させたものが記されていた。
男は、羊皮に包まれていた3つの石板の欠片、その内の1つを取り出し、そして……少女の、露出したはらわたに捻じ込んだ! !
少女は甲高い悲鳴を発した。痛みのあまり口から泡をふき、ばたばた暴れた。だが男の膂力は、彼女の身体を決して自由にはしなかった。
やがて、欠片を捻じ込まれた部分が熱くなり、目の前の景色は赤く深く染まっていく。そして、身体に変化が訪れ始めた。噴き出す血。膨張する脳。沸騰する眼球。自切する神経。捻れ、絡まる腸。全身の骨が脱臼する。体温は、鉛を熔かすほどに。逆に心臓は、氷のように冷たく。そうして彼女は次第に、人間ではなくなっていった。
彼女の身体はもう彼女の所有物ではなかった……肉体は陥落した。それと同時に、ある一つの感情が、彼女の精神を侵略するために這い上がってきた。
殺意。
湧き上がる感情は、彼女が産まれてはじめて抱く感情だった。少女は抵抗したが、もう止められなかった。
彼女は純粋すぎたのだ。これまでの人生で、誰かを“殺したい”、などと一度も思ったことはなく、ただひたすらに信仰の僕として生きてきた。だからこそ、産まれてはじめて生じた殺意の衝撃、刺激、感触に、彼女の精神は一瞬で呑み込まれてしまったのだ。
少女は、自分の精神で必死に叫んだ。
……嫌だ。
……嫌だ。
……こんな感情いらない。
……こんな私は私じゃない。
……殺したくない。
殺したくない。
殺したくない。殺したくない。殺したくない。
殺すことがこわい。
はやく、死にたい。こんなことになるくらいなら、私もあのとき、いっしょに殺してくれればよかったのに。
だれか わたしの しんぞうを とめて
だれか ころして
はやく ころして
これを うけいれ たら わたしは もう……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………もう誰かを殺しても、罪悪感なんて、湧かないのかな。
ここで遂に、精神も陥落した。少女は“殺意”の化身となった。
男は言った。
「【汝、殺人してはならない】……否」
「【汝、殺戮すべき】である」
「おめでとう。殺戮の理を許容し、君は生まれ直した。……これで3柱目。私は心から祝福するよ。新しい君を。新たな“獣”の降誕を」
そこにもう、ミデヤンの少女はいなかった。
小鳥は竜へと成り果てた。世界を呪う邪竜に。
魂も肉体も変質して、人間をやめた。その爪は骨肉を断つために、その牙は臓腑を貪るために生まれ変わった。“殺戮”に支配された、“殺戮”の権化。
ここで男は、初めて歯を露出し、“悪魔”のような笑顔で微笑んだ。とうとう「本性」を現したのだ。……だが、その嘲笑は少女だったものには.もう見えていない。……いや、この“獣”は最早、一つの衝動しか認識できない。
湧き上がる、衝動。
朽ち果て、変じた、精神の激動。
……嗚呼、殺シたい。
殺しタい。殺戮を。
殺戮ヲ
わタしに。
人間を、殺サせろ。ぜんぶ。ゼんブ。
わタシ ニ ひト を 殺させロ! ! ! !
────こうして、少女は。心優しいツィポラは、“人”から“獣”に成り果てた。魔神の従僕と、なってしまったのだ。
朽ち果てた骸を、反撞させるように起こし。
聖なる大地を踏み躙り。
それは、獣。殺戮衝動に支配された、無機の動体。孤独にして、獰猛たる、二肢立奔の龍。ただうえを見て、新月の天に不敵に咆哮した。
……こうして、またひとつ。『十戒』は穢されたのだった。