表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/12

『殺戮』の理/虚空を翔ける少女

 ────少し、時を(さかのぼ)る。


 それは黒い柱がバビロンの地に顕現する数日前、ミデヤンの地、ある村でのこと。

 ……燃え盛る集落。

 礼拝堂は破壊され、祭具は(ことごと)く掠奪されていた。服を()かれた全裸の死体がいくつも転がる。いずれの死体もどこかしら欠損(けっそん)していた。男も女も関係なく。いや、そうなった()()は、男と女でまるで違うのだが。


 そして……、礼拝堂に沿って建てられた少し大きな家に、この村“最後の命”があった。その「少女」は、自分が、自分たちが、どうしてこんな目に遭ったのか。その理由を解さなかった。

 一方的な暴力だった。敬愛する父も、可愛がっていた羊たちも、(いが)み合い(なぐさ)め合った姉妹たちも、同じ喜びを分かち合った友も、全て喪った。そして故郷は、今にも灰塵(かいじん)に帰そうとしている。この少女も、その実すぐに事切れようとしていた。

 村は蹂躙されたのだ。建物も、家畜も、人も。


 この少女もそうだった。

 礼拝堂に姉妹や他の女子供、老人たちとともに逃げ込んだが、男たちはなす術なく殺され、蛮族(ばんぞく)たちは礼拝堂を囲み、窓を突き破り、襲った。

 無謀にも立ち向かった少女は、頬への一撃で顎を砕かれ、繊維を喪失した。それから、周りで既に開始されていた強姦(それ)(さら)されることになった。泣き叫んでも神様は助けてくれない。哀れな少女は嬲られ、陵辱され……

 飽きられ、

 棄てられた。


 息のある女は鎖で繋がれ、馬で引き()られどこかに連れていかれた。少女はどのみち死ぬだろうと見放され、囚われることはなく、死体の山のなかに置き去りにされた。


 抵抗の代償は悲惨だった。

 左足を切断され、はらわたは(えぐ)られ、爪は全て剥がされ、歯も全て叩き折られ、関節には釘を打たれた。陵辱に次ぐ陵辱によって女性器と肛門は繋がり、周囲には、連中が彼女の身体に使った、()()()()()()()()()()()()()()()()材木や祭具、武具、石などが散乱していた。きれいだった顔は、水死体のように何倍にも膨れ上がっていた。殴られたのだ。何度も。何度も。

 ……果たして、この惨状を前にして健常でいられるものが何人いるだろうか。精神の均衡(きんこう)を保ち続けていられるものがどれほどいるだろうか。その光景は狂人を真人間に、真人間を狂人に変えてしまうほどの凄惨せいさんな様相を呈していた。


 そして、少女の呼吸は遂に途絶(とだ)えた。死が、哀れむように彼女を(いざな)った。意識が薄れるにつれ苦しみも消えていく。死神までその最期に同情したのだろうか。

 どれほど(みじ)めな最期でも……穏やかに終われば良かったのだ。少女は、静かに眠ろうとしていた。もう二度と目覚めない筈だった。

 ────なのに。


 ()()()は、そんな少女の最期に水を差した。それも、「最悪の目的」のために。



「****」

 男は、少女の名を口にした。

 少女の記憶にその男はいない。どうして自分の名を知っているのか、解せない。人づてに聞いたのだろう、そう言い切ってしまえば簡単だった。だが、それでは拭い切れない不信感のような()()()を、その男は秘めていた。


 死蝋(しろう)のような肌、紅玉(ルビー)をはめたような眼、老婆のように(すさ)んだ銀髪。偉丈夫(いじょうぶ)(かた)った醜悪な風貌。嘘という名の石膏(せっこう)で塗り固められたような(かお)

 ……常人なら、その微笑に恐怖を覚えるのは必然だろう。


 男は、少女を抱き抱える。

 優しく(そう見えるだけ)、慈悲(じひ)の笑みを振りまきながら(大嘘である)、また口を開く。

「この惨状のなか、でよく生きていたな。まさしく奇蹟だ」

「日頃の行いが良かったのだろう」

「偶然にもわたしが来たことも、幸いした」

 きたない、醜い、甘言だった。


 少女は、ぼんやり男を見やる。

 魂が現世(うつしよ)を離れかけているほどに弱っている彼女には、その男の本質を見抜く力も、もう残ってはいなかった。その微笑みに、騙されてしまったのだ。

「……か……み……さ、ま……? 」

 少女は男を神様だと思った。現状を打破するために現れた、救世主であると。とんでもない思い違いだった。


「うん……確かに、“そう”かもしれないな」

 男がそう答えたとき。少女はまた意識を失いかけていた。いつ死んでもおかしくない状況である。それ故か、男は早急に()()()そうと動いた。少女に問う。


「憎いか? 」

「……ぇ……? 」

 少女には、その言葉の意味が理解できた。つまり、自分を、家族を、故郷を、「こう」した連中が憎いか、と。

 少女の答えはYESだった。憎くないはずがない。家族、友、村人たち、羊、故郷、純潔。全て一瞬のうちに奪っていった蛮族たちを、許せる聖人が、この世界に何人いるだろうか。


「殺したいか?」

「……」

 少女は、返答に困る。少女の心の内には、未だ信仰が生きて、声を荒らげていた。それはいけないと。既に亡き少女の父も()っていた。

 ────目には目を歯には歯を、では、何も解決できないのだ、と。

 復讐とは愚かなものだと。惨めで、くだらないものだと、司祭の娘である少女は、しっかり理解できていた。なのに……

 心ではそう理解しているのに、彼女の心はわずかに揺らいでいた。男は、そこにつけ込んだ。


「憎いだろう? 憎いと言いなさい。憎くないはずがない。君を、君たちを、このような目に合わせた連中に、応報したくて(たま)らない筈だ。同じ目に遭わせてやりたい筈だ」

「でも、それができないから悔しいのだろう? 殺したいだろう? 1人残らず。君は、殺戮を欲している。そうだろう? …………そう君は、間違いなく、『殺戮』を欲している筈だ」

「私は(わか)るよ。君の心を、君の願望(ねがい)を。私だけが解ってあげられる。もう君を苦しませたりなんかしない。私が君を救ってみせる。そのための、特別な贈り物を持ってきているんだ。私はそれを渡しに来たんだよ」

 ……それらの甘言かんげんは、ひとつひとつの音節シラブルが恨めしいほどに蠱惑的こわくてきで、遅効性ちこうせいの毒のように、少女の耳をおかしていった。


 耳をふさげばよかったのだ。そうしてさえいればよかった。しかし、そうはならなかった。この少女にはもう耳を塞ぐ気力すらない。それを男はよく分かっていた。分かった上で、罠にめたのだ。


 やがて、れあがった少女の目から大粒の涙がこぼれはじめた。

 男の存在は、彼女にとって救済そのものだった。男の詩奏こえには人を安息に誘う、誘惑する魔力があった。少女は、誰でもいいからすがりたかったのだ。そして今は、この男に縋っていたい。いや、この男にしか縋れなかった。男の甘言ゆうわくに屈してしまったのだ。

 

 少女は声を出さない。しかし男は、少女が「承諾」したと確信し、羊皮にくるまれた()()を取り出した。

 ────割れた石板。ラピス・ラズリで創られ、碑文が彫られていた。しかし、本来ならば大海の如き深い青を出す筈のラピス・ラズリが、鮫が食事した後の、血のにじんだ海のように濁っていた。一部の碑文は赤黒く輝いており、そこにはヘブル語を反転させたものが記されていた。

 男は、羊皮に包まれていた3つの石板の欠片かけら、その内の1つを取り出し、そして……少女の、露出したはらわたにじ込んだ! !


 少女は甲高い悲鳴を発した。痛みのあまり口から泡をふき、ばたばた暴れた。だが男の膂力りょりょくは、彼女の身体を決して自由にはしなかった。

 やがて、欠片を捻じ込まれた部分が熱くなり、目の前の景色は赤く深く染まっていく。そして、身体に変化が訪れ始めた。噴き出す血。膨張する脳。沸騰する眼球。自切する神経。捻れ、絡まる腸。全身の骨が脱臼する。体温は、鉛を()かすほどに。逆に心臓は、氷のように冷たく。そうして彼女は次第に、人間ではなくなっていった。


 彼女の身体はもう彼女の所有物モノではなかった……肉体は陥落した(まけた)。それと同時に、ある一つの感情が、彼女の精神を侵略するためにい上がってきた。


 殺意ころしたい

 湧き上がる感情それは、彼女が産まれてはじめて抱く感情(もの)だった。少女は抵抗したが、もう止められなかった。

 彼女は純粋すぎたのだ。これまでの人生で、誰かを“殺したい”、などと一度も思ったことはなく、ただひたすらに信仰のしもべとして生きてきた。だからこそ、産まれてはじめて生じた殺意の衝撃、刺激、感触に、彼女の精神は一瞬で呑み込まれてしまったのだ。


 少女は、自分の精神なかで必死に叫んだ。

 ……嫌だ。

 ……嫌だ。

 ……こんな感情ものいらない。

 ……こんな私は私じゃない。

 ……殺したくない。

 殺したくない。

 殺したくない。殺したくない。殺したくない。

 殺すことがこわい。

 はやく、死にたい。こんなことになるくらいなら、私もあのとき、いっしょに殺してくれればよかったのに。

 だれか わたしの しんぞうを とめて

 だれか ころして

 はやく ころして

 これを うけいれ たら わたしは もう……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………もう誰かを殺しても、罪悪感なんて、湧かないのかな。



 ここで遂に、精神も陥落し(まけ)た。少女は“殺意”の化身となった。

 男は言った。

「【汝、殺人してはならない】……否」

「【汝、殺戮すべき】である」

「おめでとう。殺戮のことわりを許容し、君は生まれ直した。……これで3柱目。私は心から祝福するよ。新しい君を。新たな“獣”の降誕こうたんを」


 そこにもう、ミデヤンの少女はいなかった。

 小鳥は竜へと成り果てた。世界を呪う邪竜に。

 魂も肉体も変質して、人間をやめた。その爪は骨肉を断つために、その牙は臓腑ぞうふを貪るために生まれ変わった。“殺戮”に支配された、“殺戮”の権化。

 ここで男は、初めて歯を露出し(みせ)、“悪魔”のような笑顔で微笑んだ。とうとう「本性」を現したのだ。……だが、その嘲笑は少女()()()()()には.もう見えていない。……いや、この“獣”は最早、一つの衝動ものしか認識できない。


 湧き上がる、衝動。

 朽ち果て、変じた、精神の激動。

 ……嗚呼あア、殺シたい。

 殺しタい。殺戮を。

 殺戮ヲ

 わタしに。

 人間を、殺サせろ。ぜんぶ。ゼんブ。

 わタシ ニ ひト を 殺させロ! ! ! !


 ────こうして、少女は。心優しいツィポラは、“人”から“獣”に成り果てた。魔神の従僕と、なってしまったのだ。


 朽ち果てたむくろを、反撞はんどうさせるように起こし。

 聖なる大地を踏みにじり。

 それは、獣。殺戮衝動に支配された、無機の動体。孤独にして、獰猛ねいもうたる、二肢立奔の龍。ただうえを見て、新月のソラに不敵に咆哮した(ほえた)



 ……こうして、またひとつ。『十戒じっかい』はけがされたのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ