水
マジかよ、これ!!?
見た光景が未だに信じられず、心臓をバクバクさせながら、後ろを振り向く。
夢じゃなく、本当のことだった!!
水柱が地面すれすれに凄い速度でオレを追いかけてきている!
とにかくここから、この公園から出なきゃと、ワァーッッと声にならない叫びをあげながら前を向き、ハンドルを持つ手に力を込め無我夢中で急げ、急げと自転車のペダルをこいだ。
だが、細かい水しぶきがオレに降りかかってきて、間近に迫ってきているのがわかる。
もうすぐ公園の出口だ。そこから出れば誰か異変に気づくかもしれない、脇道に入って撒けば助かるかもしれない。そう思った時だった。
「あっ!」
ガタンッッと、砂利道にあった大きめの石にタイヤが乗り上げてしまい、買い物袋の重みもあり、ハンドルをとられ自転車が大きくふらついた。そのまま自転車ごと右に倒れていく。
頭では倒れていくことがわかっていても、何も出来なかった。
地面にぶつかる! と思った瞬間、後ろから来た水にゴオーッと、自転車ごと呑み込まれてしまう。
ああ……、逃げ切れなかった……。
呑み込まれたオレは、持っていた自転車のハンドルを離してしまう。
水の中は回転していて、オレが洗濯物のようにグルグルと回っている。上も下もわからず、体も思うように動かせないので水の外にも出られない。息を止めているため、息苦しさに加え気持ち悪くなってきた。それと同時に、自分の死を感じた……。
……楓、ごめん。何でこんなことになったかわからないけど、兄ちゃん、帰れなくなった。お前やノン子さんを置いていくことが悔しい……。悔しいよ。もっと一緒にいてやりたかった!
そう強く思いながら、あ~、せっかく買った戦利品や貰った物が水浸しになってもったいない! 自転車も買ったばかりなのに壊れるだろう。性能も良かったし、もっと乗りたかった! そんなことが頭の隅を過る。
水希の意識が遠のいていった――――
意識を失った水希を入れたまま、水柱は形を変え大きな1つの球体になる。その球体はふわりふわりと浮かびながら、青い髪の少女の所へとやってきた。
水の中で、横たわっている水希の胸が上下に動いている。少女はそれを見ながら、まるで謝るかのように顔を伏せ、目を閉じた。
静かに目を開けると、今度は両手で優しく球体に手をつく。手を置いた場所から水の表面が揺れ、波紋がじんわりと広がり球体を覆っていく。それが消えると、今度は巻き戻すかのように、逆側から波紋が出てきて少女の手へと戻っていった。
少女が顔を上げ水から手を離す。その顔に表情はなく、こちらを見ている女に向き直ると真っ直ぐに顔を見据えた。
「わかりました。このことは想定外でしたが、後のことは私が責任を持って必ず。まずはその者を。力が足りぬのなら、私のをお使いください」
女が、少女に向かって力強く話す。その言葉に、少女の顔が少しだけ歪んだ。
「いいえ、そんなことはありません! ここに来たことは、その覚悟があってのこと。可能性が少しでもあるのなら、この身がどうなろうとも構いませぬ」
その言葉に少女が悲しげに微笑み頷くと、水希がいる球体の中へと入っていく。水に溶けるように、すうっと少女は消えていった。
消えた直後、球体が大きく揺れ、また形を変化させていく。
上部にある2ヶ所が盛り上がり、水が飛び出す。まるで、鳥が翼を広げた形になると女が両手を広げ、下から上へと大きく振り上げた。
湧き水がザワザワと波打ち、噴水のように水が上がり、水圧で水希が横たわっている水球を一気に上空へと持ち上げる。
水の翼が動き、水希を乗せたまま上へと上へと上がっていく。そして、太陽の光を浴び、カッと眩い光を出しながら消えた。
上空にあった水が、雨のように地上に落ちてくる。
女は上空を見続け、胸の前で両手を組み、祈った。
「 どうか上手くいきますように。それだけを願っております」
女の顔は先ほどとは違い、皺が増え、一瞬で年をとっていた。
上空にあった水が呼び水になったのか、ポツポツと雨が降りだしはじめる。濡れるのも構わず、雨の波紋が何個も出来ている湧き水に近づくと、両手でその水をすくう。
「私をそこへ」
手にある水が丸くなり、フワフワとシャボン玉のように空中に浮かびながら、ある方向へと向かっていく。女はそれの後に続いた。
◇◇◇
「あ~、やっぱり降りだした。間一髪!」
楓は、雨がシトシトと降っている窓の外を見て、ほっと一息つく。
学校帰り、友達と一緒に寄り道してしまい、家に帰るのが遅くなってしまった。ドタバタと帰ってきて、洗濯物を取り込んでいる最中に雨が降ってきたのだった。
「お兄ちゃんの誕生日に、雨が降らないなんてことないもんね。間に合ってよかった。……ああっ! 浮かれてて、ケーキ買い忘れた……」
楓は台所に行くと、そこにはノン子さんがキャットフードを食べていた。
「ただいま、ノン子さん」
ノン子さんは食べるのを止め、チラリと楓を見て、またキャットフードを食べはじめる。
「……なんで私には愛想悪いのよ。お兄ちゃんには甘えるのにさ! 別にいいけど~」
唇を尖らせ、楓は冷蔵庫を開けて中を見る。
「う~ん、やっぱ材料ないか。もうすぐお兄ちゃん帰って来るし……。仕方ない、これから買いに行くしかないね」
投げ出していた鞄の中から財布と紙袋を取り出す。紙袋の中に入っていたのは、リボンのついた小さい箱。
「ほらほら見てよ、ノン子さん。これ、お兄ちゃんの誕プレ! 値段もだけど、なかなかこれ! っていうのがなくて困ってたんだよね。でも、友達に教えてもらった雑貨屋さんにいいのがあったんだ。寄り道したら、ケーキ忘れたけどね」
ノン子さんはキャットフードを食べ終わると水を飲み、プレゼントを見せつける楓を見ていた。
「じゃあ、行ってくる。どうしたの? ノン子さん」
ノン子さんの耳がピクピクと動き、楓とは別の方向を振り向くと走り出した。
年をとったノン子さんが走ることはそうないため、驚いた楓は持っていた箱を制服のスカートのポケットに入れ、後を追う。
「何? どうしたの?」
ノン子さんは三和土に座りこみ、引き戸の玄関をジッと見ている。
楓は靴を履き、ノン子さんのそばに寄ると「誰か来ているの?」と言いながら玄関を開けた。
「ひっ!?」
水色のワンピースを着て雨に濡れた60代後半ぐらいの女の人が、そこにいた。
「だ、誰? 家に何か用?」
怖くなった楓は、動かずその女の人を見ているノン子さんを抱え、後ろに下がった。
「そなたが、カエデ。それと……」
その女は質問に答えず、右手のひらを上に向ける。そこには、案内した水の玉があった。
それを胸のあたりに持っていき、両手で掴み、大きく広げた。
「え? え?」
水の玉がそれによって大きくなっていく。訳がわからない楓は逃げようとするが、その水の玉が襲いかかる。
逃げきれず楓とノン子さんを水の玉が飲み込む。大きく目を見開き水の中からこっちを見ている楓に、その女性はごめんなさいというように目を伏せると、楓もノン子さんも同じように目を瞑り、眠りにつく。
女が両手を空へと掲げると、楓達を包み込むでいる水の玉が家から外へと出てきて、空へと飛んでいった。
「無事に会えますように……。力になって」
そう呟き、その場に崩れ落ちる。
古い家に凭れながら「そうであったか……」と呟いた女の姿は、さらに年を取り、髪も真っ白、痩せ細った体は骨がわかるぐらい浮き出ていた。そして女は、静かに息をひきとった――――。