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今日はチキンステーキ

作者: 村崎羯諦

 うちには飼い始めてからもう五年が経つニワトリのチョビがいる。チョビは私が幼稚園の時からこの家にいて、血色のいいとさかと艶のある白い羽を持っている。気性もおとなしく、猫のタマスケや私をつついたりすることはない、まさにペットとして模範的なニワトリだ。


 だけど、今日私たち家族は、このチョビをチキンステーキにして食べることになった。


***


「やめてください! やめてください!」


 両足をお母さんにつかまれ、逆さづりにされたチョビがけたたましく叫び声をあげる。大きな羽をばたつかせるたびに綺麗な羽が抜け落ち、それらがリビングの床のあちこちに散らばっていた。私は楽しいことが始まりそうだと思いながら、お母さんのあとをてくてくとついていく。


「うるさいわねぇ。ちょっとは静かにしてなさいよ」

「静かにですって!? そんなことできるわけないじゃありませんか。こっちは命がかかってるんですよ!」


 チョビが助けを求めるようにコケコッコーとひときわ甲高い声で鳴き声をあげた。あまりのボリュームに私とお母さんは顔をしかめる。お母さんは一層激しく羽をばたつかせて抵抗を試みるチョビを台所の耐熱ボウルの中にすっぽりと収めた。そのままお母さんは台所下の収納から大きな出刃包丁を取り出す。台所の白い照明の光を反射して、丁寧に手入れされていた包丁の刃先が鋭く光った。チョビは自らを切り裂くために取り出された鋭利な刃物を見るや否や聞いたことのないような鳴き声をあげた。


「理由を! せめて理由を聞かせてください!!」

「何よ、理由って?」

「あなた方は五年も私を養ってくださってましたよね。それなりに愛着だって持っているはずです。それなのに、なぜ! なぜ今日私を食べてしまおうと思われるのですか!?}


 「ああ、そのことね」とお母さんが得心したようにうなづく。


「そんな深い理由はないわ。今日のお昼過ぎの料理番組でね、ちょうど美味しいチキンステーキの作り方がやっていたの。それを無性に試したくなったんだけど、生憎冷蔵庫には鶏肉の買い置きもなかったし……。仕方ないからチョビを食べようってことになったの」

「何を言ってるんです! 買い置きがないのなら近くのスーパーにまで買いに行けば済む話でしょう! チキンステーキを作るんなら、スーパーで売っている他のニワトリの肉でやってくださいよ!」


 お母さんは何も言わず、庭のあるほうへと指をさした。締め切ったガラス戸の向こうには、黒く分厚い雲に覆われた空と、しとしとと雨が降りしだく光景が見えた。雨はここ数日降り続いており、外へ買い物に出かけるにはあまりふさわしくない天気だった。チョビは外の天気とお母さんとを、鳥らしいコミカルな動きで交互に見比べた後、「そんなバカな話がありますか!」と叫び声をあげた。


「うだうだ言ってないで、もっとすんなり私たちに食べられてよ。そんな抵抗されちゃったらさ、こっちだって後味が悪くなっちゃうでしょ」


 お母さんは右ほおに手をあて、憂鬱気にため息をついた。私は隙を見てお母さんの左袖をくいっと引っ張り、質問をぶつける。


「お母さん、後味が悪くなるってどういう意味?」

「ご飯が美味しくなくなっちゃうってことよ」


 そういうとお母さんは出刃包丁をチョビへと突きつけた。身動きの取れないチョビは猫のような悲鳴を上げる。


「話し合いをしましょう! 話し合えば、お互いもっと歩み寄れるはずです。もっと私の言い分だって聞いてください!!」

「言い分っていっても……。一体、何を言うつもりなの」


 お母さんは疲れた様子でそう言う。声の調子から、早くこの面倒なやり取りを切り上げたいというお母さんの気持ちが透けて見えた。しかし、さっさと殺せば済む話なのにそうしないのは、きっとお母さんが優しすぎるからなんだと私は思った。


「例えばです。私がこうやってあなた方と対話できているということは、畢竟私にある程度の知性が備わっているということを意味しています。とすれば、私のような知性的な動物を殺してしまうことが倫理的に見て本当に正しいことなんでしょうか。世界的潮流である反捕鯨猟運動についても、その理論的根拠に、クジラの知性の高さが挙げられているじゃありませんか!」


 私はチョビの言っていることがほとんど理解できなかったが、チョビが自分の命を賭して必死になっていることだけは理解できた。お母さんはというと、私でさえ知っている有名な大学を出ているということもあって、チョビのまくしたてたことを理解できたようだった。それでも、気だるげな表情は変えることなく、右手に持った出刃包丁の刃先もなお、チョビの喉元に突き立てられたままだった。


「あのねぇ、ここはオーストラリアじゃないの。知性なんていう、人間側が都合のいいように定義できちゃう曖昧な概念で食べられる動物、食べられない動物をわけるなんておこがましすぎるわ。それに、知性の高低で命の重さが決まるっていうのなら、頭の悪い人間は殺してもいいってことになっちゃうでしょ」

「それは屁理屈です! 一部の不明確性や誤謬を理由に思想的立場全体を否定することは思考停止に他なりません!」

「ああ、もう。だったら別に思考停止でも何でもいいわよ」


 お母さんは若干いら立ちを抑えきらずにそう言った。私はというと、チョビとお母さんの言っている意味が全然理解できず、退屈を感じ始めていた。私は大きなあくびをした後で、もう一度おかあさんの左袖を引っ張った。


「ねえ、お母さん。おなかすいた」

「そうね。お母さんもおんなじよ」


 お母さんはやさしく私の頭をなでると、手を汚さぬようにと、ビニール製のポリ手袋を両手に装着した。それを見たチョビは何とかこの状況から抜け出そうと、身体全体を揺り動かして逃げ出そうと試みる。しかし、耐熱ボウルにぴったりと嵌っていたせいで、それはかなわなかった。


「じゃ、じゃあ、こういう話はどうでしょう!? 動物学においては、動物は苦痛を感じることを理由に、動物もまた道徳的対象となりえるという学説が主流になっています。古くは功利主義の祖、ジェレミー・ベンサムが『問題となるのは動物たちに理解があるか、動物たちが喋れるかではなく、彼らは苦しむことができるかということだ』という至言を残しています。さらには、ジャック・デリダを筆頭とするポストモダン思想の中では、動物の『能力』に注目するのはなく、動物を含めたあらゆる存在を『受動性』有する他者としてみなすべきだという主張を行っています。どうです!? あのデリダがこう言っているんですよ? あなた方はこのような思想的立場を聞いてもなお、目の前にいる弱者に不必要な苦痛を与えようと思われるのですか!?」


 チョビの口から唾が飛び散り、ほったらかしにした雑巾のようなにおいが一瞬だけした。私はさっきからずっとチョビの話は真面目に聞いていなかった。お母さんもまたニワトリごときと真面目に対話することが馬鹿馬鹿しくなったのか、目を眠たそうに半開きにしたまま、右手に持った包丁の刃先をくるくると回して遊んでいた。


「もう後半からあんた何言ってるのか全然わからないわ。それに誰よ、ベンサムとかデリダとかって?」

「知らない!? デリダはおろか、ベンサムすら知らないとおっしゃるんですか!? あなたは大学で何を学ばれてきたんですか!?」


 チョビはひとさじの悪意もなく、純粋な驚きの言葉を発した。しかし、その言葉自体がお母さんのプライドをちくりと刺激したようで、お母さんはあからさまに不機嫌そうな雰囲気を漂わせ始めた。そこで初めてチョビも自分の失言に気が付いたようで、血色のいいとさかの色が少しづつ青ざめていくのがわかった。


 お母さんは表情が彫像のように固まらせたまま、引き出しからまな板を取り出す。もう話し合いのできる雰囲気ではない。チョビはすぐさまその気配を察すると、火事場の馬鹿力を発揮して、今まで見たことのないような激しさで暴れ始めた。すると、はまっていた耐熱ボウルが大きく揺れ、チョビを乗せたまま作業台から床へとけたたましい金属音を轟かせて落っこちた。チョビは地面に両足をつけ、そのまま一目散に駆け出していく。お母さんも今晩のおかずを逃すまいと、包丁を持ったままチョビの後を追いかけ始めた。


 私はお母さんとチョビの背中をただ見送るだけだった。なんだか二人からのけ者にされたような心持がして、なんだか急に馬鹿馬鹿しくなったのだ。私はもう一度大きなあくびをした後、リビングに戻って、ソファの上へと身体を任せた。心地よい眠気と空腹に包まれながら、私は重たい瞼をとじる。少しだけ遠いところから、チョビの悲鳴とお母さんのおたけびが聞こええたような気がした。

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