王国の鷹
鷹人は紛れもなく、卓越した狩猟者だった。
ゲッツは熊の爪が届かぬギリギリの距離を飛び回り、魔獣を翻弄した。絶えず熊の後方、背中側へと回りこんで槍を繰り出し、剣や銃弾を弾くことさえ珍しくない剛毛で覆われた巨体を、鋭い穂先でえぐり続けたのだ。
その動きは練達の踊り手に通じるものがあった。翼が打ちふるわれるたびに翼端は花開くように広がり、美しい曲線を描く風切り羽がねじれながら空気に食い込む。その部分でだけ、大気は粘り気を帯びた物のように見えた。
ゲッツはただひたすらにユーリだけを守った。それはある種の野鳥が巣とヒナを守るために取る、擬傷行動に類似していた。
熊はまださしたるダメージを受けていない。だが、ゲッツの挑発に釣られて次第にユーリからは遠ざかりつつある。
ようやく体の自由を取り戻し、ユーリは必死で鉄檻へと這い寄った。
失禁直後は生温かかった股間が今や凍るように冷たく、角ばった小石がズボン越しに膝に食い込む。だが、そんなことには構っていられない。
内側から檻の戸を閉め、格子の隙間から腕を突きだして掛け金をかけるとユーリはようやく周囲を見回す余裕を得た。
既に猟友会のメンバーはほとんどが倒れている。見える限りではロベルト医師だけが岩陰に隠れることに成功していた。彼は銃身の長い猟銃に持ち替えて嵐熊に狙いをつけようとしている。だが、その射線上には旋回を続けるゲッツが絶えず交差していた。
「先生、ダメだ! 今撃ったらゲッツにあたっちまう!」
「ユーリちゃん、そうはいってもこのままじゃあ!」
言葉とは裏腹に、ロベルト医師もさすがに撃ちかねていた。ゲッツが倒れれば、熊はまっしぐらにこちらへ向かうだろう。そうなればまず、ロベルトが死ぬ。
檻の鉄棒は甲冑の板金よりは堅牢だが、あの熊が何度もぶつかればつぶれ歪んで溶接部分が断裂、ユーリもあえなく熊の餌食となるのだ。ユーリたちの生命はゲッツの翼にぶら下がっていた。
そして鷹人も際限なく戦い続けられるわけではない。いずれ力尽きるときが来るのだ。
(どうしてこんなことに……)
それが眼前の状況からの逃避だとは知りつつも、ユーリは考えずにいられなかった。これまで目撃されることもなく、恐らくは深い森林の奥で生息していた嵐熊がなぜ、今ここに出現しているのか。
(これもやっぱり、羊のせいなんじゃないか?)
鷹がその生息数を減らす理由と同様、熊も放牧地を拓くための森林伐採によって住処を失ったのではないか。そう思えた。
このルバシカ連山近辺でも、大規模な伐採があったという。過剰生産による羊毛相場の下落を受けて、結局その新開地では牧羊が営まれないままになっているが、ひとたび傷つけられた森は、おいそれとは元の姿を取り戻さないのだ。
祖父の言葉を借りれば羊のために、マンスフェル王国御止流放鷹術は途絶えようとしている。ゲッツは言語を解し知恵ある存在でありながら、その身を拘束されて自分のような未熟者に従い、そして自分を守って死と踊っている。そして自分はついこの間までのゲッツと立場を入れ替えたかのように、檻の中に閉じ込められている。
羊のせい? 何を莫迦な――つまりはこれは、人間のしたことだ。その報いを人間の一人として受けているのだ。ユーリは不意に、それを明晰に理解した。
乾燥した木材が粉砕される、甲高い音が渓谷にこだまする。
「ああッ……!」
それは絶望の音だった。わずかに間合いを測り損ねたのか、ゲッツの手にした槍は熊の爪を受けて粉砕されてしまったのだ。
「くそっ!」
ゲッツがさすがに焦りの声を上げる。彼は折れた槍を即座に捨てて腰の小剣に持ち替え、同時に羽ばたいて上空へと逃れた。これまでのような戦い方はもはや不可能だった。懸命に熊の背面へ回り込む――ただし、今度はより近い間合いで。
だが、鷹人は無念そうに、おう、と一声もらすと再び飛び離れた。
ユーリにも彼が何をしようとしているかがおぼろげに理解できた。ゲッツは熊の背中に貼りついて、前足のとどかない肩甲骨の間をえぐる気なのだ。それなのに彼の足は紐で結ばれ、肩幅以上に開くことができない。熊の爪が一度ならず彼の翼をかすめ、細かな羽毛がまるで血しぶきのように飛び散った。
「ゲッツ! 革紐を切れ!」
鋭く叫ぶ。もういい。もういいのだ。鷹と鷹匠という関係にこだわれば、二人とも死ぬ。
「もう私に義理立てしなくていい、自分を優先してくれ!」
その瞬間ユーリの心にあふれたものは、強いて言えば怒りに似ていた。逃げろ、と言えない自分を認識していた。革紐を切れといいつつまだ、彼を縛る気持ちが残っている、そのことを自覚してしまっていた。
ゲッツは空中で一瞬ためらう様子を見せたが小さくうなずくと足元に手を伸ばし――ぶつり、と音を立てて革紐が断ち切られた。
熊の右斜め上から再びの急降下。
自由になった両足を腰を基点に振り回し、翼をすぼめて軌道を変え爪をすり抜けて背中へ。嵐熊の分厚い毛皮を貫いて、ゲッツの足の鉤爪が食い込んだ。
「そうだ! いいぞ、ゲッツ!」
翼をたたんでぴったりとへばりつく。位置はやや低かった。柄頭に親指を掛けた逆手の握りで小剣を熊の背中に打ち込む――人間ならば腎臓と肝臓を同時に貫く箇所だ。
――ゴアァアアアアアアア!!
咆哮とともに魔獣が後ろ足で立ち上がり、ゲッツを振りほどこうと身をよじってその場でぐるりと回った。だが、ゲッツはしがみ付いて離れない。
ユーリは一度ならず、熊が自分から倒れ込んでゲッツを押しつぶそうとするのではないかとはらはらした。だが、野生動物の本能は、無防備な腹をさらけ出して横ざまに倒れることを決して受け入れようとはしなかった。
熊の口が大きく開かれ、唾液に濡れたピンク色の洞窟がユーリたちのほうを向いた。
――タァン
銃声が響いた。ロベルト医師が好機を捉えて放った銃弾が、熊の喉奥へ。
巨体がぐらりと傾き、数歩よろめいて退がる。その背中から黒褐色の翼が熊自身のもののようにひろがった。軸がずれて剥がれたかのように、それはふわりと分離して鷹人になった。
危難が去ったことを知り、ユーリは檻から這い出て鷹人を呼んだ。
「どうにか、君の鷹としてやり遂げられたようだ」
ゲッツは静かにそう告げた。
「ごめんよ、ごめん、ゲッツ。ありがとう――」
「そんなに泣くんじゃない。君が無事で何よりだ。その上私もどうにか生きている――ならば上々だろう」
ゲッツは翼に軽いけがをしていた。二度と飛べなくなるほどのものではないが、一つ間違えればそうなっていたかもしれなかった傷だった。
翼をだらりと広げたままのその胸に縋り付いて、ユーリはとめどもなく泣きじゃくり続けた。
ユーリ・ストロガノフは結局鷹匠にはならなかった。代りに、彼女が選んだのは学究の道だった。彼女が上梓した最も有名な論文は、その後長きにわたって鷹人を研究する者の指針となり続けた。
それが、「カゼイ山脈の鷹人における社会と幼弱者」として今日知られる文献である。
ゲッツはユーリとともに二冬を過ごし、異種族間ではあったが奇妙な友情を結んだあと、彼女の前から飛び去って行った。その後彼がどのような運命をたどったかは定かでない。だが、いまもマンスフェル王国辺境のとある町に、岩場に座り込む少女とそこへ舞い降りる鷹人を活写した、躍動感あふれる銅像が残っているのを皆さんはご存じのはずだ。
それはこの国最後の鷹匠になろうとした少女と、彼女を守って戦った勇敢な鷹の紳士を記念したものだ。
その台座には、こうある。
――ゲッツ、王国の鷹。と。
これで完結です。バカなきっかけで始まったバカ話にお付き合いいただきありがとうございました。
最後はもっともらしくいい話風に〆てみたけど謝らない。最後まで監禁ネタに踏みとどまれたのは何よりでした。
それではまた!