碧く高い空
数日後――
ユーリとゲッツは猟友会のメンバー数人とともに、近郊のルバシカ連山に入った。町はずれから一昼夜ほど歩いた距離にある山小屋が、当座の目的地である。
一行は四頭立ての大きな荷馬車を伴っていた。これから一週間ほど、現地に泊まり込んで訓練の仕上げをする。馬車にはそのための物資と、必要品が積み込まれていた。
氷河によって削られた深いU字型の渓谷には、長い年月をかけて氷が運んだ氷堆石が幾重にも長い土手を連ねていた。人の手で運べない大きさの巨石も交えて、折り重なるように積み上がったそれはユーリに不思議な畏怖の念を抱かせた。
山小屋の付近は標高がまだ低いため、それらの岩の周りには黒々とした針葉樹の林が鋭いシルエットを空に向かって食いこませている。
持ち込んだ非常食のペミカン、それに堅焼きビスケットを荷おろしして、井戸水の湧出と薪小屋の燃料備蓄を確認し終わると、猟友会の大人たちはいよいよ最も大きな荷物をほどき始めた。覆い布を取り去られたそれは、錬鉄の細い棒を継ぎ合せて作られた、頑丈な鉄の檻だった。
(あれが獲物か……!)
檻の扉が開けられて現れたものに、ユーリは目をみはった。
というよりも、口が開いたままふさがらなくなった。
膝の力が抜けてしゃがみ込んだ。
上唇に冷たい鼻水が垂れてきた――
それは訓練用の獲物というにはあまりに大きすぎた。大きく、肉付きが分厚く、体重が重く、そして威風堂々としすぎていた。
体高3mにも及ぼうかという、巨大な鹿だ。檻に収めるために哀れにも枝角は切り取られているが、それでもなおその姿には王者の風格があった。一敗地にまみれてなお首を高くもたげた、無冠の王。
「いったいどうやって狩ったんだ、こんなの……」
想像はついた。麻酔銃だ。現に今も、猟友会で一番の銃の名手でもある獣医のロベルト先生が、識別のために銃床に青いリボンを巻き付けた、最新型の麻酔銃を持って待機しているのが見える。
ユーリは少しだけ嫌な気分になった。この鹿は、どうあがいても自分たちの手の中から逃れられずに、ゲッツと自分が行う茶番のような『訓練』の犠牲に供されて死ぬのだ。
鹿はゆっくりとあたりを見まわし、ゲッツに視線を止めるとわずかに身を震わせた。次の瞬間、脱兎のように走り出す。草地を走り抜け、倒木を飛び越えて氷堆石の間へ――このままでは、ゲッツが空から襲い掛かることができなくなる。
「ゲッツ! 行け!」
鷹人の目隠しは既に取り払われている。彼は羽ばたきとともに力強く空に舞い上がった。手には短めの槍、腰に小剣を手挟んで。黒々としたシルエットが青空に吸い込まれ、瞬く間に小さくなっていく。
鷹人の飛翔を見るのは初めてだった。人とさほど変わらない体重を運ぶためか、広げられた翼は想像以上に巨大なものだ。全幅6m近いだろう。その両足は逃亡を警戒して、彼の肩幅程度の長さの丈夫な皮ひもで動きを制限されている。もちろん、手に持った刃物で切ることは容易にできるはず――だが、彼はあえてユーリの体面のために甘んじて拘束を受け入れていた。
誇り高く雄大な飛翔を、自分たちのエゴが汚している――ユーリはそう感じた。客観的に言えば――それを自覚することはユーリにとってこの上もなく辛いことなのだが――御止流放鷹術の継承という命題を追及していると見えながら、祖父と自分はまったく実際的な意味を欠いた悪ふざけのために、徒に彼を侮辱し続けているのではないか?
そんな仄暗い思いをよそに、ゲッツは上空でゆっくり旋回をはじめ、やがて翼をすぼめて急降下の体勢に入ると見えた。鹿を捕捉したのだ。
(よし、やってくれよゲッツ。あんたが鹿を仕留めたら、いい区切りだ。こんなバカな茶番はもうやめる。鷹匠は爺ちゃんの代で終わりだったんだ!)
ユーリがそう心を定めた瞬間。
ゲッツは不意に翼を広げてブレーキをかけ、降下を中断した。そのまま方向を変えてこちらへ戻ってくる。不意に彼の叫びが風に乗って運ばれ、ユーリの耳に届いた。
――逃げろ! みんな逃げろ! 怪物だ!
何事ならん、とその方角を見る。猟友会のメンバーも同様にゲッツの後方をにらんだ。
砲声に聞きまがうような、すさまじい咆哮が渓谷にこだました。落葉松のこずえを揺らし、枯葉を巻き上げてなにか巨大な獣が林の奥から現れようとしていた。
氷堆石の土手を踏み崩してそれが頭部をのぞかせる。口元に先ほどの鹿が、首だけになってくわえられているのを、ユーリは見た。
「す、嵐熊じゃああ!」
猟友会メンバーの誰か――恐らくはロベルト医師――が叫んだ。
(嵐熊!?)
ユーリは老人たちの話でしか、聞いたことがない。だがそれは、このあたりの山に残る恐怖の伝説そのものだった。巨大な体躯は立ち上がった際の全高おおよそ8m。板金鎧を着こんだ騎士をその鎧ごと切り裂く鋭い爪を四肢の先端に備え、分厚い頭蓋骨は通常の猟銃弾を受け付けない。
肉食の傾向が強く、性質は凶暴そのもの。かつての入植時代には、現代よりもはるかに戦闘力に優れた冒険者たちが集団で挑んでどうにか一頭ずつ仕留めることが出来、二十年ほどをかけてようやく脅威を取り除いたという。いかなる天の配剤か悪魔の策略か、この個体は人目を避け探索の手を逃れてこの大きさまで育ったものらしかった。
――ロベルトさん、やめろ!
そんな声とほぼ同時に、麻酔銃の発射音が響いた。熊の首筋あたりに突き立った銀色の注射筒。だが熊はさしたる影響を受けた様子もなく「ゴアゥ!」と一声吼えると四つ這いになってユーリたちのほうへ疾走を始めた。
――やっぱりだめだ! 麻酔薬の量があれじゃ全然……
そう叫んだ老人の声は途中で途切れた。熊の爪に掻かれて頭部が消し飛んでいた。魔獣はすさまじい速さで山小屋の前の空き地に達し、猟友会とユーリをその爪の射程に収めていたのだ。
「ユーリ! 檻に逃げ込め!」
ゲッツがそう叫ぶのが聞こえたが、彼女は地面に尻もちをついて放心していた。膀胱が緩み尊厳が流れ出していくのがわかる。恐怖と涙でぼやけた視界に、黒褐色の翼が広がった。
ゲッツが地上すれすれを飛び、必死に熊の動きをけん制しているのだ。
14年12月14日、ちょっと加筆