消しゴムを2つ
前作が『短編』と銘打ちつつも思った以上に長くなってしまったので、そのお口直しに本当の短編を書きました。
実際に受けてみると、大学の講義というのは思った以上に退屈だった。
最初こそドラマや映画の中でしか見たことがなかった巨大な講堂や半円すり鉢状の座席に感動したものの、やっている事は授業だ。外観の感動などすぐに薄れる。
今、講堂の最前部では教授が、片方を固定した棒の先端に加重を印加した際の最大発生応力を解き明かそうとしている。五十歳代だと思われる彼にしてみれば、幾度も繰り返してきた事なのだろう。予定調和の茶番劇を演じるような気だるさがにじみ出ていた。
ナオキがこの大学に入学して三ヶ月。そろそろ生活にも慣れてきた頃で、だからだろうか、その日軽いミスをした。大げさなことではない、たんにペンケースの中に入れていたはずの消しゴムがなくなっていただけだ。
消しゴムが無いことに気がついたのは消しゴムを使おうとしたからで、つまりノートには教授が書いたのとは異なる数式が記入されている。ただそれだけのことで彼自身でも驚くほどやる気が失せて、そのまま寝てしまおうかと考えた時だった。
「これを使え」
右隣に座っていた見知らずの学生が何かを差し出した。
それは紛れも無く消しゴムで、ビニールこそ外されているがその白さは未だ穢れを知らず、すべての角は直角を保っている。どうみても新品だ。
さすがにそれを使うのは気が引ける。やんわりと断って返そうと隣の学生を見て―言葉を失った。
長袖のジャケットを着ているが、服の上からでもわかるくらい筋肉隆々で、顔は確実にナオキより頭ひとつ高い位置にある。おそらく身長は180センチを超えるだろう。そんな恵まれた体格も目立つが、最も目を引くのは首から上だった。
短めな髪をすべて逆立てている。それだけならまだいい、よく見る髪型だ。目を奪われたのはその色、根元から先端にいたるまで一部の隙もなく、ともすれば生まれつきかと見まごうばかりの銀髪に染め上げている。
まっすぐに前を見ている彼の顔はまるで岩のように無表情で、笑顔というものがまるで想像できない。さらに彼の左顔、おでこから目の脇を通って頬に至るまで、シールだろうか、黒の曲線で描かれているタトゥーがみえる。
そして耳たぶにはピアスの代わりに、安全ピンと細いネジが入っていた。
銀髪タトゥー安全ピンのシュワルツネッガーがいる、と一瞬本気でそう思った。
その風貌にしばらく絶句していると、ナオキの視線に気がついたのか隣の彼が振り向いた。手にした消しゴムから言いたいことを読み取ったらしい。
「あぁ、きにするな。俺は自分の分を持っている」
そういって先の丸まった消しゴムを見せる。
ナオキの中で人間性善説を唱える天使が『貸してくれる本人が自分の分を持っているのだから遠慮なく使いましょう』と言う反対で人間性悪説を唱える悪魔は『こんな奴に借りを作ったら後で面倒だぞ』と警告する。外観で人を判断してはいけないというが、こんな奇抜なファッションに身を固める者がまともなはずはない。『いい人、悪い人』と『まともな人、おかしい人』は違うのだ。
授業は中盤を迎えている。どうやら最大発生応力は固定している棒の根元に発生するらしい。
結局ナオキは消しゴムを使った。というか、使わざるを得なかった。善意で貸してくれたものを使わずに返すのは、使うことより勇気がいるからだ。
せっかく数式が直せたのだから、頭を働かせずに手を動かして授業の内容をノートに書き写していく。そのとき、なんの前置きもなく右隣から声がきこた。
「俺が消しゴムを2個持っている理由は」
突然だった。驚いて振り向くが、声の主は前を向いている。そう大きな声ではなかったため、ナオキ以外で注意を向ける者はいない。派手な独り言か、と思い再び視線を前にもどすと、
「誰かに貸すためだ」
その言い方はまるで、自分は消しゴムの貸し付けで生計を立てているとでも言わんばかりの堂々としたもので、ナオキはじゃあ私はあなたにこの後お金を払わなければいけないんですか?と思わず口にしそうになったが、その前に言葉が続けられる。
「もし1個しかもっていなければ、貸された相手は安心して消しゴムを使うことはできないだろう」
突然の宣言に戸惑いつつも、言っている事には納得した。確かに自分も、彼がひとつしか消しゴムを持っていなければつかう事は無かっただろう。
「1個しかない消しゴムを自分が使うわけにはいかない、と相手に遠慮させるようでは、本当に優しいとは言えない。そんなのは二流だ。
いいか、俺が目指す本当に優しい人というのは、相手に遠慮などさせない人だ。この人なら完全に頼っても大丈夫だ、と思わせる強い人だ。その第一歩として、俺はいつも消しゴムを2個持っている。だから」
そこで彼は突然顔をぐっと90度曲げて、呆然としているナオキと目をあわせる。
突然視線を合わせられたナオキは蛇ににらまれた蛙の気分を味わいながら、相手の目が赤く光るのではないかと心配する。
そのまま数秒の間をおいてから
「お前はそこで安心して消しゴムを使えばいい」
そう言って、再び前を向く。彼の目が光ることは、残念ながらなかった。
「お前がいて助かった」
今度は何だ?と思う。講義はいよいよ終盤だ。教授は課題をだしてすでに講義を終えた気分でいるらしく、ナオキは課題を解く振りをしてノートから顔を上げない。
「俺が強者でいるためには、お前のような弱者が必要だ」
それはつまり、消しゴムが無くて困っている人が必要、ということだろう。
「弱者がいなければ強者にはなれない。だから弱者が必ずしも強者に感謝する必要はない。いやむしろ威張ってもいい。俺のおかげでお前は強者になれたんだ感謝しろ、くらいは言ってもいいだろう」
いやよくねぇだろ、なんて心の中で突っ込みをいれる。実際に入れるなんて恐ろしいことはできない。何しろ相手はターミネーターかもしれないのだ。
「必ずしも弱者は、強者より弱いとは限らないということだ。数字の大小のように、いついかなる場合でも必ず強者の方が偉いというのは大きな間違いで、そう思い込む事は愚かだ。もしすべての人がそれに気がつけば、もう少しまともな世の中になるかもしれんな」
その言葉に思わず隣を見る。と同時に、講義終了のチャイムが鳴った。講堂は一気に騒がしくなる。
隣のターミネーターは何事もなかったかのように、自分のカバンに使っていた文房具を仕舞い始める。
「あの、これ。助かったよ、ありがとう」
そこに、少し角が取れて汚れてしまった消しゴムを返す。
彼は大きな手で消しゴムを受け取り、やはり無言で片付け始める。
天使は言う。さぁお礼もしたのだから、あなたも早く片付けてお昼ご飯を食べに行きましょう。
悪魔は言う。おいこの男ちょっと変だけど面白そうじゃないか、もう少し付き合ってみようぜ。
ナオキはその両方にうなずいて
「ねぇ、この後お昼一緒に食べない?消しゴムのお礼に何かおごるよ」
人間の食べ物だけど大丈夫だよね?と心の中で付け加えながら、ターミネーターにたずねる。
少し無表情で考えた後、
「いいだろう弱者よ。なに安心しろ、金がなくなれば俺が貸してやる」
そう言って不敵に笑う大男に、ナオキはようやく笑みを返すことができた。
「でも、弱者って呼び方はやめてくれ。僕の名前はナオキだ」
「そうか、俺の呼び名はなんでもいいぞ、好きに呼べ。お勧めは、シュワちゃんだな」
いやそれ冗談になってねぇ!と今度は声に出して突っ込む。
そうして二人は笑い合いながら、ざわめきの残る講堂を後にした。
このまま続編が書けそうですが、書くつもりはありません。この作品で言いたかった『やさしさ』と『強さ』、そして『強さ』と『弱さ』に対する考え方が伝われば幸いです。