守りたいものがあるから
横須賀には二隻の、かつて軍艦だった元・フネが存在する。
一隻は、先ほども紹介した記念艦「三笠」。日本帝国海軍の栄光と勝利の象徴である。
彼女がそうした輝かしい過去の体現者であるとするならば、もう一隻は、日本帝国海軍の衰亡と敗北の象徴であり、同時に、海上自衛隊の信念の具現者であると言うことができる。
「着いた」
記念艦「三笠」から歩いて一〇分、横須賀新港に接舷した状態で保存されているそのフネ――記念艦「ながと」へ、佐竹たちは到着した。
三人はそれぞれ入場料を払い艦内へ入る。早苗は早速、艦内に設置されている帝国海軍の歴史や海上自衛隊の展示品が置かれているコーナーを見て回り、春休みのレポート退治に勤しみ始めた。
佐竹は、そんな孫娘を優しげな目つきで見つめながら、ゆっくりと「ながと」の甲板を歩く。
* * *
佐竹が退官した後、「ながと」も同じ年に保管船へと艦種区分が変更された。平たく言えば、彼女はもう外洋を駆け回ることはなくなったのである。三原山への砲撃が、彼女にとり最後の御咆哮になったということになる。「ながと」は三原山への砲撃後、それまでの老朽化ぶりに一層拍車がかかったかのように不具合や性能低下に見舞われた。艦底からは錆や主砲を二〇斉射も行った反動により浸水が認められ、機関は満足に二〇ノットさえ出せないほど力を失っていた。
まるで、あの戦いですべての力を出し尽くしたかのように。
しかし、除籍はされなかった。東西冷戦が終わり、新しい時代へと変わっていく中、横須賀で繋留された「ながと」は、海自隊員の手厚いメンテナンスを受けながら、九年の時を過ごす。
すでに後身に道を譲っていた元総理の中曽根は、かつての部下に報いるためにも、自身の青春の一ページを飾る戦艦を後世に残すためにも、自身の政治的手腕の総力を用いて、「ながと」を記念艦として永久保存するべく動いていた。彼は第一級の政治的狸であったが、それだけに国内の政治バランスの見極めには長けていた。
「ながと」が九年間もの間宙に浮いた状態となっていたのは、冷戦期は以前から続く国内の空気の問題から、一九九〇年代以降は与党の度重なる交代による不安定な状況のためであった。
一九九六年初頭、政権が自民党に渡り、保守派で知られる橋本龍太郎が第八三代の内閣総理大臣に就任したのを見計らい、中曽根は「ながと」を退役させ、記念艦とすることを主張し、受け容れられた。
同年四月、「ながと」は正式に退役、海上自衛隊から除籍される。
一九二〇年(大正九年)一一月二五日に竣工して以来、七六年に及ぶ波乱万丈の艦生であった。
翌一九九七年(平成九年)一一月二五日、「ながと」の七七回目の誕生日であるこの日、神奈川県横須賀市の横須賀新港において、彼女は記念艦「ながと」としての新たな航海に乗り出した。
記念艦開艦式セレモニーには、横須賀支庁、神奈川県庁の関係者、防衛庁、海上自衛隊の幹部や横須賀地方総監部の幹部職員、旧日本帝国海軍の生き残りの将兵たち、そして一一年前に「ながと」により命を救われた伊豆大島の人たちが招待され、大勢の人々の祝福の元にテープがカットされた。
記念艦「ながと」は所轄は防衛庁が管轄しているが、実際の維持保管は財団法人「『ながと』保存会」が国から移管されて行うことに決められた。
この日は平日であったのにも関わらず、記念艦となった「ながと」を一目見ようと全国から集った人たちは優に数千名を数えた。
黒山の人だかりに染まる「ながと」を、招待客のテントから見つめていた佐竹は、伊豆大島からやってきた川田と共に椅子に腰掛けていた。
あの時、島民を救うべく戦った二人であるが、互いの正体に気付いたのはこの場においてだった。
「どこかで聞いたような気がしたんだよ」
川田が皺の刻まれた顔に笑みを浮かべて言う。
佐竹も苦笑しながら答えた。
「いや本当に、俺も懐かしい声だなとは思ったよ。まさか貴様だったとはなあ」
佐竹も川田も、もう二度とフネとして動くことのない「ながと」を見る。
「――あの時は、心底ダメだと思った。俺も、島のみんなも死んでしまうと覚悟した。だから、『ながと』が来てくれた時は、『ながと』が艦砲射撃で溶岩流を食い止めてくれた時は、本当に嬉しかった。助かったと思った」
「自衛官としての務めを果たしただけだ。事実上首にはなったが、悔いはないし、やらねばずっと後悔していたよ」
佐竹の言葉に川田は遠くを見る目をしながら頷いた。
「戦艦として、捕鯨母船として、護衛艦として……『ながと』ほど数奇な一生を歩んだフネは、世界中を見ても他にはないだろうな」
「川田、『ながと』の一生は終わってないぞ。これからが新しい歩みだ。日本海軍の伝統を知るただ一隻のフネとして、海上自衛隊の象徴として長らく生きた『ながと』の功績を、若い人たちに伝えていく仕事がある」
川田は、そうだったな、全く、休まる暇もないな、「ながと」は、と言い、笑った。
栄光ある日本帝国海軍が世界最強を目指して建造し、誕生した「長門」。その輝かしい生まれが幻であるかのようになんら戦局には寄与できず、ぼろぼろの姿で横須賀に留め置かれ、捕鯨母船として鯨を解体して餓えに苦しむ国民の胃袋を満たし、護衛艦として海上自衛隊の象徴として君臨して、伊豆大島で大自然を相手に最後の力を振り絞って戦った彼女の巡りゆく景色が今、佐竹の中で流れていく。
手繰り寄せた世界の先に、「ながと」は記念艦として永久保存される幸福を享受することになった。
万感胸に迫る思いで、佐竹は自分の海上生活の多くを共にした彼女を、いつまでも見つめていた。
* * *
あの開艦式から一四年が経った。
今、佐竹と「ながと」の後輩たちは、東北地方太平洋沖地震という日本史上最大級の災害に立ち向かうべく、全力で救援を行っている。かつての宿敵にして今日の友であるアメリカ軍も、「オペレーション・トモダチ」の下、原子力空母さえ投入した救援活動を開始している。
佐竹は、「ながと」の一番主砲塔をそっと手に触れた。ひんやりとした鋼鉄の冷たさが肌に伝わる。
(見ているか、「ながと」。あの日、俺たちが戦った時と同じように、後輩たちはこの国の人々を救うために戦うんだ)
艦内のフロアを見学してきた早苗が、祖父を見つけて近寄ってきた。祖父は、目を瞑り、ただ黙って「ながと」の主砲に手をかざしている。
幼い彼女は祖父のその行為の意味をはっきりとは分からなかったが、何かを願っているように思え、祖父の傍でじっと待っていた。
「父さん、『ひゅうが』だ」
そこへ、息子の武一が声をかけた。
その言葉に佐竹は目を開け、息子が指を指す海の先を見た。
一隻のフネが、ゆっくりと横須賀港から出ようとしていた。
平べったい全通式甲板、その上に乗るいくつかのヘリコプター、右舷側に寄った艦橋構造物、素人目には空母にしか見えない海上自衛隊最新鋭の護衛艦「ひゅうが」が、出撃態勢を整えて東北沖へ向かおうとしていた。彼女には、伊豆大島救援の際少しだけ言葉を交わした士官が艦長として乗っている。それを見計らってここへ来たわけではなかったが、思わぬ偶然に佐竹は感じ入るものがあった。
彼は被っている帽子をとり、右手で持って頭の上で左右に振った。帝国海軍時代からの伝統である「帽振れ」の挨拶である。
護衛艦「ひゅうが」艦長の山中勝則一等海佐は、待ち受ける東北の惨状を想像し、逸る気持ちを抑え冷静に各種命令を下していた。
「ひゅうが」は哨戒ヘリコプターを効率よく運用するために、広い飛行甲板を持ち、「ながと」が退役して以降の海上自衛隊においては最大級の大きさとなる全長一九七メートル、基準排水量一万三九五〇トンの艦体を活かし、災害派遣の際はその収容能力とヘリコプターによる物資搬送能力が遺憾なく発揮されるものと期待されていた。
三月一一日の地震発生時、「ひゅうが」は定期検査のためドックに入渠していて、ただちに出撃するため乗組員は徹夜で物資搬入や出港準備を行い、こうして翌日には東北沖へ向かうことができた。
「ひゅうが」の高度に機能化された艦橋から、山中は右舷側の横須賀新港にいる「ながと」を見ていた。
本来ならば艦長は艦の中枢であるCIC(Combat Information Center 戦闘指揮所)で指揮を取らねばならない決まりである。通常の場合、艦橋に上がるのは航海長なのだ。
山中は敢えて艦橋に上がっていた。彼は艦内放送のマイクを取り、
「手空き総員上甲板」
「右舷に整列」
と命じ、手の空いている乗組員全員が上甲板に整列した。
「総員『ながと』に対し、敬礼!」
号令一下、手空き総員、艦橋で手の空いている者、そして山中が、右舷側の先にいる「ながと」に対し、敬礼を捧げる。
山中は、かつて自分に、自衛隊が為すべきことを身をもって教えてくれた偉大な先輩に対し、精一杯の敬意を表すると共に、これから戦わんとする戦場での奮闘を彼女に誓ったのである。
海上自衛隊員で、「ながと」の伊豆大島におけるその伝説的な戦いを知らぬ者はいない。
勿論彼は、その「ながと」に、佐竹が来ていることを知らない。
「お爺ちゃん、あれ見て!」
早苗が声を上げた。佐竹は孫娘の指差す方を見るが、老眼の進む目では霞んでよく見えない。
佐竹は鞄から双眼鏡を取り出し、「ひゅうが」を見、そして、すべてを理解した。
彼は込み上げる熱いものを止めることができなかった。
「大丈夫だ、東北は、日本は大丈夫だ……!」
声を震わせて言う佐竹に気付き、早苗が心配そうな顔で「泣いてるの、お爺ちゃん?」と訊く。
そんな孫娘の頭を、彼は優しく撫でる。
「心配せんでええよ。大丈夫だから」
武一は父と娘のその姿を見て、父がなぜここに来たがったのかを理解し、自身もまた、「ひゅうが」に向けて手を振る。
佐竹は思った。
(「ながと」、おまえの後輩たちは、ちゃんと受け継いでいたぞ。国家のために、国民のために戦う海上自衛隊の誇りを――)
日本帝国海軍が太平洋戦争へ投入した一二隻の戦艦のうち、終戦時にただ一隻だけ生き残っていた「長門」。時代の要請によりその一生の三分の二を「ながと」という名前で過ごした彼女は、歴史の彼方へ消えていった主人と戦友たちの無念を晴らしたのを最後に、数奇な艦生に一つの区切りをつけた。
彼女の子孫たちは、後に自衛隊建隊史上最大の作戦と呼ばれることになる、東日本大震災への戦いへと赴いていった。
彼らはいつだって迷わない。自衛隊の本懐を全うしてみせるという消せない想いがあるから。
「ながと」から受け継いだ、確かな絆を信じて――。
陸海空自衛隊は二〇一一年六月一一日までの三ヶ月間に、合計一万九二八六人の被災者を救助している。
本作はこれにて終わりです。
正直に申しまして、色々と無茶をやっている内容であるのは承知しております。
本作は史実と比較しまして次の2点を変更しています。
1・旧海軍関係者による「長門」の積極的な温存
2・史実よりも大規模な伊豆大島三原山の噴火
著者としては、一つの変更点からドミノ倒し式に歴史が変わる架空戦記がすきなのですが、それだと盛り上がりに欠けるために、本作ではこのようにしました。
まあ、佐藤大輔氏のRSBCなどでは関東大震災の規模を変えていますし、これぐらいは大目に見てもらえたらなと思います。
2012年1月24日追記・本作が学内のコンクールで入選しました。学内向け発表文を提出した際に加筆修正していた部分をこちらでも行いました。
また末筆ですが、東日本大震災で出動された全自衛隊員に心より感謝いたします。