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「軍人は政治に関わってはならない」。少しでも軍隊というものを理解している人ならば、首肯しないわけがないこの近代国家の国軍における鉄則を、大日本帝国陸海軍はついぞ理解できなかった。
ある意味で、帝国陸海軍が滅んだのは、そんな「バカでも分かる」ことすら分かろうとしなかった知的怠慢にその原因を求めることが出来よう。
では、陸海軍に替わって日本という弧状列島を防衛する任に当たる陸海空自衛隊はどうか。
結論から言えば彼らは利口だった。自分たちの先輩の無様な姿を過剰なまでに反面教師として見つめ、苦いどころでは済まない敗北の記憶を原体験として誕生した過去を持つ彼らは、政治には一切関わろうとしなかった。
それが、自分たちの先輩の所業のため今以て日陰者の道を歩まされる彼ら自衛隊が存在を許される唯一の態度だったのである。
「しかし、政治に関わらずというのと、政治に俺たちの使い方を任せるための仕組みを作らせることを主張するのは、同次元ではない」
佐竹はそう考えていた。同時に、今のこの国においては、例え同次元ではなくてもこの種の主張を押し通そうとすれば、制服を脱がねばならないのも理解していた。佐竹が手に取り読んでいた新聞の一面にある「栗栖弘臣統幕議長解任される」の記事を読んだ所感は、以上のようなものだった。
一九七八年(昭和五三年)七月、自衛隊制服組の最高責任者である統合幕僚会議議長栗栖弘臣陸将は、週刊ポスト誌上において「現在の自衛隊法は穴があり、奇襲侵略を受けた場合首相の防衛出動命令が下されるまで、自衛隊は動くことができない。敵の侵略を受けている地域の指揮官は『超法規的行動』に出ることはあり得る」という趣旨の文を載せたのが、そもそもの始まりだった。
この発言の意味は、国は速やかに有事関連法案の整備を行え、という要望であり、決して自衛官の暴走を示唆したものではなかった。
しかし、世界的に普及する意味合いとは根本的に中身が違う日本国内の左翼勢力は、自ら進んで栗栖の発言を「自衛隊の暴走の暗示」と解釈し、「戦前の軍部の悪夢」の再来だと断じ、「軍靴の音が聞こえる」と糾弾、「自衛隊は侵略戦争を行おうとしている」と集中砲火を浴びせ、政治問題となった。
栗栖は政権与党の自民党から影に日なたに主張の撤回を迫られたが、彼は自説を固持した。記者会見の場でも堂々と主張を繰り返した。それが祟って、栗栖はシビリアン・コントロール(文民統制)の観点から統幕議長の職を事実上解任された。
そのニュースが載っている新聞を、佐竹はテーブルの上に放り投げた。
彼は自室――艦長室を出た。向かう先は、昼戦艦橋である。
海上保安庁に籍だけ移管された「長門」は、野村元大将の言うとおりに岸壁と一体化され、名前も「ながと」に変更され海上構造物として保管(という名の放置に変わりはなかった)される。
だが、「ながと」は決して朽ち果てるだけの置物になったわけではなかった。海上保安庁には海を忘れられない旧帝国海軍の軍人たちが多数所属しており、彼ら元軍人たちが、動かす事は出来ないにしても「ながと」を生き永らえさせようと密かに整備を続けていたのである。
それとは別に、かつて新海軍の創設を米内光政元海軍大将に頼まれた保科や山本、彼らの部下だった吉田英三元海軍大佐などを中核とする元海軍軍人のメンバーが、水面下での新海軍創設工作を本格化させていた。折りしも一九五〇年に勃発した朝鮮戦争により、GHQの対日政策が一八〇度変更され、再軍備を容認する方向に向かっていたのが背景にあった。
「Y委員会」と称される新海軍組織発足の準備委員会が極秘に作られ、山本や吉田が中核となり海上警備隊の創設を主導していく。
この一連の動きを記すだけで一冊の本が出来上がるので詳細は割愛するものの、紆余曲折を経て一九五二年(昭和二七年)四月二六日に海上警備隊が創設され、即日海保から「ながと」が移管される。岸壁と一体化されていた「ながと」は再工事の末再びフネとなった。海上警備隊は警備隊と名を変えた後、一九五四年(昭和二九年)七月一日、海上自衛隊となって現在に至ることになる。
戦艦「長門」、捕鯨母船「長門」に続き、護衛艦「ながと」として彼女は生きていくことになった。
佐竹が護衛艦「ながと」の、帝国海軍時代から数えて六三代目の艦長に就任したのは一九七八年の三月のことだった。海上警備隊入隊から数えて二六年。かつての主計科水兵は一等海佐にまで出世したのである。
「ながと」はこの時、建造から五八年が経過する老嬢であった。普通ならとうの昔に退役して解体されている。「ながと」が未だ現役に留まっているのは、一つはその海自護衛艦の中では飛び抜けて大きい巨体を活かし、各種新兵器のテストベッドを務めていること(少ない予算の中から金を振り向け、主砲の半自動装填化の改装なども行っている)と、すでに帝国海軍の生き字引が確実に減り続けている海自において、「ながと」を歴史的遺産として保存できないかという要望が自然発生的に持ち上がっていたことの二つが理由であった。
しかし、自衛隊を取り巻く国内の視線は厳しかった。ちょうど七〇年代は左翼勢力の全盛期であり、共産主義にかぶれているだけならまだしも、それとセットになってアメリカの帝国主義打倒、アメリカに追従する日本政府打倒、戦争を起こす軍隊の解散、かつての軍部の再来であるとする自衛隊の撤廃を臆面もなく主張する人々が、元気一杯に働いている時代だった。
彼らは、自身の心の拠り所であるソビエト連邦があと一〇年ほどで崩壊し、彼らの抱く世界的に見て奇妙奇天烈としか形容できない歪んだ左翼思想の敗北を突きつけられる運命にあるのだが、この時点ではそうした次第であり、帝国海軍唯一の生き残りである「ながと」の保存など知ったら、廃艦に追い込むこと必至であろうと考えられていた。
かくして「ながと」は未だ現役で活動していた。すでに艦内のあちこちに老朽化による不具合が出ていたが、ここまで生きてきた彼女をみすみすくず鉄にしたくはない海自としては、現役に留めておくほか手段がなかった。
「我々は国を守るために自衛官となっています。そりゃ本音では食い扶持とか、スリルを求めてこの職についている者とているでしょうが、宣誓をしている以上、ひとたび有事があれば命を賭けて任務に当たるのが我々の存在理由です」
横須賀の海自基地の護衛艦停泊エリアに碇を下ろし、静かに佇んでいる「ながと」の艦橋で、佐竹は部下の航海長と話していた。
「ですが今の日本は、我々に命を賭けさせる場を間違えている。我々が死をも覚悟して戦う前に、無抵抗のまま全滅するのは武人の了とするところではありません。それを、栗栖さんは言っていたのに……」
「航海長、僕も全く同意見だよ」
佐竹は憤慨している航海長を宥めるように言った。
「後顧の憂いなく全力で任務に邁進できる環境を整えて欲しい……日本以外のどこの国の軍隊でも当たり前に整備されていることが、我々自衛隊には欠けている。そしてそれを僕らが口にすることは政治的に許されない」
「ながと」の艦橋から見る横須賀の街並みは、あの戦争の爪痕が一切消えてなくなっていた。日本中がそうであった。終戦から三〇年が経った日本は、世界が羨む経済大国へと大きく羽ばたいている。
だが、日本人は豊かになる過程で、「国を守ること」を考えなくなった。別に左翼勢力の専売特許ではなく、平均的な日本人の程度として、考えずとも特に困りはしなかったし、軍事だとか戦争だとかを考えるのは、かつての負け戦の記憶を呼び起こす不快なものだと思っていた。
自衛隊は、そうした考えを持つ国民を守るために存在する。なんという矛盾であろうか。
佐竹はこの「超法規的発言」の一件以来考えていた。もし自分が「超法規的行動」を取るか、取らずに致命的な損害を甘受するかの選択を迫られた時、どちらを選べばいいのだろうか、と。