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 大洋漁業が第二復員省から貸与された元帝国海軍戦艦「長門」が、捕鯨母船としての必要最低限の改造を横須賀の旧海軍工廠で完了させて、マストに大洋の社旗と軍艦旗をはためかせ、日進丸行進曲(大洋漁業が戦前に保有していた大型捕鯨母船を唄った曲)と軍艦行進曲を流しながら捕鯨のための漁場へ出航したのは一九四六年三月一日のことだった。

 横須賀の港から出港していく「長門」の姿を、保科元海軍中将と山本元海軍少将は複雑極まりない心境を抱きながら、海軍独特の別れの作法である「帽振れ」――帽子を右手に取り頭の上で振る挨拶をしながら見送っていた。


「聯合艦隊の旗艦をも務めた『長門』が捕鯨とは……」


 やがて小さくなっていく「長門」の後姿を見ていると、華々しい過去が遠い彼方へ消えていったこの国のあらゆるものの何かを代弁しているかのような気持ちになる。


「言うな、山本君」


 山本の呟きに保科がやんわりと嗜めた。


「あの船団が獲ってくる鯨肉は、食料不足の今の我が国にいくらかでも恵みをもたらす」

「ええ、それは分かってるのですが」


 山本がため息を一つつきながら言った。


「恐らく、世界史上初めてじゃないですか、戦艦が捕鯨母船になったなどというのは」

「だろうね。どこまでやれるのかも分からないし、捕鯨が終わったときに事態が好転している可能性は甚だ低いと言わねばならん。それでも、やってみる価値はあると思う」

「日本帝国海軍戦艦『長門』、大洋漁業捕鯨母船『長門』……この次に何と呼ばれるか、ですかな」

「その前に、呼んでもらえる立場になれるか、だよ」


 二人の元海軍提督の会話は、三々五々散らばり始めた人々の耳に入ることはなかった。


 出港した「長門」は日本各地の他の港から出てきた各船と小笠原諸島母島沖で合流し、捕鯨船団を組んだ。「長門」と、第二復員省から一緒に貸与された一等輸送艦第一九号、文丸、第二関丸という二隻の捕鯨船、木造の鯨肉運搬船新生丸級五隻、処理船の第三五播州丸の、合計一〇隻の小さな船団であった。

 春先の小笠原近海はうねりが高く、北東の季節風が強く吹いている。母船は燃料節約のため母島付近で漂泊していたが、流石に三万トンを超える戦艦の「長門」は、高いうねりや季節風にはビクともしない。


「腐っても戦艦というわけか」


 佐竹は「長門」の艦橋で記録を付けながら言った。前年七月の空襲で大破した艦橋は、捕鯨母船改装時に最低限の修復が成されている。

 佐竹がなぜここにいるのかと言えば、第二復員省から貸し出された「長門」の乗組員が、艦を動かすためにセットで貸し出されたからである。「長門」の定員は一三〇〇名を超えているが、全員が収集されたわけではなく、機関、航海など艦の運行に必要な部署を中心に一五〇名余りが、元艦長杉野修一大佐(前艦長大塚少将戦死後、一九四五年七月二四日付けで着任していた)の指揮の下、捕鯨に当たっていたのだ。

 本来ならば必要のない部署である主計の兵長(ポツダム昇進で終戦後に階級が一個上がっていた)に過ぎない佐竹が艦に乗り込んでいるのは、四四年の八月に「長門」乗り組みを命ぜられて以来、結局「長門」に乗りっぱなしだったことからくる、単純な艦の愛着ゆえだった。

 生まれは東京の八王子で、実家は裕福な商家をやっている佐竹にとり、終戦後にとりあえず肉親の顔は見れたし、これからの身の振り方を考えるまでの、せめて好きなことをやっていきたいとする思いが、「長門」乗組員収集の話を聞きつけた際、自然とこれに応じさせていた。第二復員省の方も、ただでさえ混乱の続く日本国内において、バラバラになった元乗組員を集めるのは骨の折れる仕事であり、人手は足りているわけではなかったため、佐竹の申し出を二つ返事で了承した。

 そうした次第であるので、佐竹はレイテ沖や空襲のときと同じように艦橋に付き、各種雑務を淡々とこなしていたのである。


「『長門』乗り組みでよかった」

「そう思うよ」


 佐竹に同意したのは川田二郎、横須賀空襲の時に危うく死にかけた佐竹の同期生である。艦橋で佐竹と同じく雑務を担当している。


「見てみろよ『一九号』を。あんなかぶられちゃひでぇもんだろうな」


 川田は艦橋の左側の防弾ガラスの先を指差した。その先にあるのは、「長門」と共に貸与された一等輸送艦十九号の、うねりに翻弄されピッチングとローリングを繰り返している姿だった。

 「長門」の二〇分の一以下の排水量しか持たない小柄な船体では、この高波ではいいように弄ばれるだけで、あんな状況になっているフネには絶対に乗りたくないと、佐竹は思った。


「そういえば、貴様はなんで『長門』に戻ってきたんだ?」


 佐竹が思い出したように尋ねた。


「簡単よ。故郷(くに)があんまりにもつまらんところだったから海軍へ入ったんだ。負けて海軍が消えちまって故郷(くに)へ帰ったのは良いが、俺にゃあやっぱりこっちでフネに乗ってる方が性に合ってる」

「伊豆大島だったっけか、貴様の故郷(くに)は」

「そうだ。火山以外にめぼしいものは何にもないシケた島だ」


 利発そうな顔を歪めて川田は言った。徴兵されて陸軍に入って鉄砲担いで死にに逝くぐらいなら、まだ死なない可能性が高い海軍へ自ら志願した方が良いんじゃないかという父の言葉に従い海軍へ入った佐竹にしてみれば、川田の話は、人の人生は色々なんだなという陳腐そのものな感想しか思い浮かばなかった。


 大方の予想を裏切って、捕鯨母船「長門」の働きぶりは上々だった。同じ捕鯨母船となった一九号が、一五〇〇トン程度の排水量のためしばしば波に煽られ鯨の解体処理に著しい不都合をきたしたのに対し、「長門」は元が戦艦であるだけに艦上での作業がすこぶるやり易かった。困ったことと言えば、図体が大きいため小回りが利かず、解体した鯨肉を本土へ運ぶ一〇〇トンにも満たない運搬船にとっては、「長門」へ接舷するのが命がけだったことぐらいである。

 捕鯨船団は四月二三日まで捕鯨を続け、燃料不足のため帰還の途についた。挙げた戦果(・・)は捕獲頭数一一三頭、油肉その他生産量一〇〇五トンだった。


 「長門」はこの後も捕鯨母船として活動を続けることになり、翌年の一九四七年の夏まで働き続け、食糧難に喘ぐ国民の食卓に貴重なたんぱく質を届けた。しかし佐竹は、四六年中に「長門」を退艦した。一人息子である彼に、そういつまでも自分の好きなことをやっていられる時間はなかった。佐竹には、実家の商売を継ぐという大事な使命があった。

 「長門」を去るとき、彼は、戦争で死にたくないから軍人になったという自分の動機とは別として、この軍艦に深い親しみを覚えている心境に、今更ながら驚いた。紛れもなく自分の青春の大部分を共にした、帝国海軍の衰亡の象徴に対して。

 横須賀の港を後にする彼は、この時、滅亡した海軍の元軍人たちの水面下の工作など知る由もなかった。


 * * *


「野村さん、貴方、今の日本人がどれだけ軍隊を嫌っておるのか分かっておられんようですな」


 ぴしゃりと言い放つその男の態度は、見る者がみんな「ふてぶてしい」と思わずにはいられない尊大なものだった。栄養失調で痩せている国民が多い中、ふくよかな体型を維持し、ハバナ産の葉巻を美味そうに飲む姿は、首相というよりどこかの悪辣会社の社長と言ったほうが適切である。


「『長門』を残しておきたい? くず鉄にして資材に回したほうがなんぼか役に立ちますよ」


 そう言うが紫煙を口からオーバーに吐き出した日本国第四八代内閣総理大臣吉田茂に対し、野村吉三郎元海軍大将はあくまで譲らなかった。


「総理、今の国民が軍隊に対し憎悪に近い感情を抱いているのは先刻承知です」


 野村は内心(貴方自身も……)と付け加えた。対米戦反対の立場から戦中は和平工作に従事していた吉田は、一時は陸軍憲兵隊に逮捕され、煮え湯を飲まされている。彼自身、軍隊に対しアレルギー的感情を抱いていたのだ。


「ですが、好むと好まざるとに限らず、一国が生きていく上で丸裸で過ごしていられる道理はありません。日本が独立を回復次第、国を守る国軍は欠くべからざるものです。『長門』はそのために生かしておくべきなのです」

「趣旨は理解しとりますよ。ただね、私どもの頭と、日本人一般の頭の程度が一緒だったら、そもそもあんな戦争、やっているわけがない」


 国会で同じことを喋ったら内閣が吹っ飛ぶような台詞だった。しかし野村も、自然とそれに同調する。


「何も今すぐ軍隊を作れとか、そういうことを申しておるのではない。要は、その日本人一般の頭が諸外国のそれと同じくらい冷やされたとき、改めて『長門』の処遇を決めてもらおうじゃないか、そういうことなんです」


 野村はこの時七〇歳。かつて、太平洋戦争開戦だけは避けるべく、駐米日本大使としてアメリカで交渉にあたった経験を持つこの元・老提督もまた、かつて第二復員省で海軍の再生を密かに考えていた保科や山本と気脈を通じており、捕鯨母船に身をやつし、去年からは特別保管艦として横須賀で放置されている「長門」の行く末を案じていたのである。

 彼がこうして、神奈川県大磯町にある吉田の私邸を極秘に訪問しているのもそれが理由であった。


「具体的にどうやるおつもりなんです」


 吸い尽くした葉巻を灰皿に押し付け、新しい葉巻を取り出して吸い始めた吉田が訊いた。


「ノープランで私んとこへ来たわけでもないでしょう」


 食えん人だと内心呆れながら、野村は、今年(一九四八年)の五月一日に発足した海上保安庁へ「長門」を移管させるのはどうかと言った。

 今度は吉田が呆れる番だった。


「海保は純然たる海上警察機構です。海賊を取り締まるのに戦艦を使えと?」

「あくまで籍だけ置いておくのです。実際は使ってもらわないで結構ですし、実際問題使えんでしょう」

「海保には制限がある。総トン五万トンを超えてはならんし、船艇は一五〇〇トン以下だ。『長門』が収まる道理がない」

「ですから、船艇でなければ良いのです」


 野村の言葉に、吉田が怪訝な顔をした。


「どういう意味ですかな」

「横須賀の港に繋留し、適当な補修工事で陸地と繋げてしまうのです。海上にある建造物であって船舶ではない、こういうわけです」


 一瞬、吉田は目を丸くした。ついで彼は、今日この場において初めて笑ってみせた。


「サイレント・ネイビーの矜持はどこへいったのやら。野村さん、貴方がた海軍が開戦前にこうやって陸軍のバカたれ共に噛み付いてくださって欲しかった」

「その反省の元に、こうして総理を伺ったのです」

「いや、よく承知しました」


 吉田は早くも消えつつある葉巻を灰皿に置いた。


「私も貴方も、立場こそ違えど戦争中は和平のために駆け回った仲だ。平和には適切な武力があってこそです。滅んでしまった海軍の何たるかを継ぐ者がいるべきなのは同感です」


 三本目の葉巻をくわえ、豪快に飲む吉田は言った。


「よろしい、私の飲み仲間(マッカーサー)に話してみましょう」


 終戦から三年が経った一九四八(昭和二三年)年一〇月、第二次吉田内閣発足から二週間ほどの時を置いた、ある秋晴れの日の密談であった。


 * * *


 商家の家に生まれ、子供の頃から将来は実家の江戸時代末期から続く呉服屋を継ぐ事を当然と考えていた佐竹の人生設計は、徴兵で陸軍にとられて死ぬよりはと父が考えた結果、海軍へ志願したことによりだいぶ遠回りをした格好だったが(ついでに言えば、太平洋戦争中佐竹の年齢まで徴兵下限が下げられることはついになかった)、一九四八年に東京商科大学(翌年に一橋大学へと改名)へ入学、実家を継ぐべく商売の勉強を始める。

 元々彼は学業優秀であった。旧制小学校五年修了時に六年生へ上がることなく中学一年へ飛び級し、さらに中学四年修了時には五年生になることなく高校一年へ再び飛び級を果たしている。

 おかげで彼は高校を卒業していない(一六歳・高二のときに海軍へ志願)が大学入学の資格は持っていた。当時の法律上では高等学校一年を修了している者は大学入学の資格があったのである。

 高校以来五年ぶりの娑婆の学校である。この時佐竹は一九二七年生まれの二一歳。周りの同級生と三歳ほど年齢が違う上に、彼ら同級生たちは戦争を兵隊として経験していないぎりぎりの世代だった。

 自然、レイテ沖で弾雨を潜り、横須賀空襲で急死に一生を得た経験を持つ佐竹は、一目も二目も置かれる存在で、大学内ではちょっと名の知れた人物となる。

 佐竹はと言うと、軍隊の最下層たる兵隊として随分しごかれた反動で、大学生活がひどく生ぬるく感じて仕方なかった。

 ある種贅沢とも言える悩みだったが、それ以外に不平不満があるわけでもなく、国中が貧乏だったが平和になったことへ素直に喜びながら勉学に励み、一九五二年に無事に卒業する。


 そのまま何の問題もなしに実家へ戻って家業の手伝い兼勉強を始めてから一年ほどが過ぎたある日、「海上警備官(幹部)募集」の案内の広告が新聞に載っているのを佐竹は見つけた。はて、海上警備隊とはなんぞや、と佐竹は何故か気になった。

 とりあえず問い合わせてみたところ、「海上保安庁の外局として誕生する海上警備隊の幹部を募集する」のだと説明された。

 海上警備隊とはなんだ、何をする組織なのかと尋ねると、どうやら、かつての海軍に似たような組織として生まれるらしい。

 海軍に似たような組織……佐竹の心中に何かが去来した瞬間だった。

 気付いたときには、入学試験の案内要項を取り寄せ、受験の申請をしてしまっていた。

 一九五三年六月に全国の保安本部(海上保安庁の組織)と保安部で行われた公募幹部採用試験に、佐竹の姿があった。

 筆記試験、口述試問、身体検査などの各試験を二日の日程で終え、合格通知を受け取ったのは二週間後だった。

 この時点で初めて佐竹は家族に「海上警備官として働きたい」と自分の意志を伝えた。息子は家業を継ぐのだとする、当たり前だとかいう感情以前の決定事項を何の疑いもなく信じていた父は呆気に取られ、次の瞬間烈火のごとく怒りだした。何のために大学にまでいかせたのだという父の言い分はもっともであった。

 しかし佐竹は翻意しなかった。最後には取っ組み合い寸前の大喧嘩にまで発展し、あらかじめ用意していた身の回りの品々をまとめた鞄を引っ掴み、家を飛び出した。

 以来、喧嘩別れとなった佐竹は、父が危篤となり病院に運ばれる十数年後まで顔を合わさなかった。


 * * *


 左手に在日米軍第七艦隊横須賀基地の施設を見ながら、佐竹と早苗、武一の三人は歩く。

 かつて広島の呉と並んで日本帝国海軍の本拠地として、幾多の艨艟(もうどう)を抱えていた横須賀は、かつての宿敵が(あるじ)として使用し、帝国海軍の末裔である海上自衛隊は、どことなく隅に追いやられている感があった。

 神奈川歯科大学の前を過ぎると、前方に古めかしい軍艦の姿が目に入ってくる。

 記念艦「三笠」――一九〇五年の日露戦争最終決戦、日本海海戦において、東郷平八郎率いる聯合艦隊の旗艦として戦い、戦史に名高い完全勝利の美酒を味わった戦艦。彼女はその栄光に彩られた艦生を後世に伝えるために、記念艦として横須賀で余生を過ごしている。

 佐竹は常々思っていた。あの「三笠」の傍にある東郷元帥の銅像は、自分たちの後輩が、帝国海軍としての組織防衛にかまけて祖国防衛を忘れ、猛々しく戦い、そして守るべき祖国を道連れにして滅び、宿敵に牙城を明け渡してしまったすべてを見つめていたはずだ。

 墓の下に眠る東郷元帥は、一体何を思っているのだろうか、と。


「お爺ちゃんは、どうして自衛隊に入ったの?」


 手を引いて歩く早苗が、祖父の顔を見上げながら訊いた。


「海上自衛隊、当時はまだ海上警備隊という名前だったが、まあ、その時は、海が好きになっていたんだと自分で考えていた。水兵として海軍に入り、随分と嫌な思いもしたけれど、それでも海の上で生きるのが自分の生き方だと信じた」


 だけど、と佐竹はそこで一息をつき、被っていた海上自衛隊時代愛用の帽子を脱ぎ、白い頭髪を整え被りなおした。


「今では少し違うと思っている。海も勿論好きだが、お爺ちゃんが自衛隊に入り、士官の道を歩んでいったのは、あの日を「ながと」と共に戦うためだったんだと――」




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